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第18話(四)「銀、湧く」

 ――葉月十一日の、未明である。


 有明の月が松の梢の上に低く出ていた。


 窪地には露が下りている。莚も、桶の縁も、置いてある薪の皮も、みな濡れていた。触れると指が冷たい。


 蝉は鳴かぬ。


 鞴の音だけが暗いなかで鳴っている。


 *


 久秀は夜のうちに越水を出て来た。


 炉の脇に床几を置かせ、そこに座っている。誰にも口をきかない。


 朔は灰を敷かせていた。


 敷いているのは、若い者である。手が震えているのを、朔は見ぬふりをした。


「そこは、平らに」


「へえ」


「厚さは、指の一節ぶん」


「へえ」


 抜け口は三つとも開けてある。


 板は当てていない。当てるなら当てようを変えよと掟に書いてある。


 男どもはめいめい濡らした布を口と鼻に巻き、巻いてから、二人ずつ風上のほうへ立った。


「半刻で、替わってくださいまし」


 安蔵が皆に言った。


「立っておられるうちに替わるんが、掟でござんす」


「風下へは、立たぬように」


 朔が言った。


「鉛は、焼けば気になって出ます。目にも見えず、匂いもせず、苦しくもなりませぬ。……苦しくなったころには、もう入っております」


 若い者の一人が、口の布を直した。


「彦太」


「へい」


「数を、声に出して」


 彦太が莚の端へ立ち、右手の指を三本立てた。


「口、三つ。あいとります」


「よし」


「人、十七。竈、二つ。頭、替わる。……半刻で、替わる」


 去年の水無月には、この数を声に出す者は一人だけであった。その男は死んだ。


 いまは、四人が同じ数を口の中で追っている。


 *


 火を入れた。


 炭はおこっている。風も入っている。


 それなのに湯の色が立たない。


 上の面がいつまでも鈍く、灰の際が乾いた粉のままである。


 朔は皿の一枚に指を触れた。


 底のほうがわずかに冷たい。


「……湿っております」


 前の夜に夕立が一度来ていた。屋根の下に置いてあったが、風が横から入ったのである。莚を掛けたのは、いま灰を敷いた若い者であった。


 男の顔から血の気が引いた。


「済まん、済ま——」


「掛けたのは、正しい」


 朔は言った。


「掛けねば、雨が直に当たっておりました」


「けど」


「風が横から入ることを、俺が言わなかった」


 朔は皿を並べ直させ、乾いたほうの二十枚を選ばせた。


「半刻、遅れます」


 久秀のほうを見ずにそう言った。


 久秀は何も言わなかった。


 言わずに、床几の上で扇子を一度だけ掌に当てた。


 東の空がまだ白まぬうちに、二度目の火が入った。


 今度は立った。


 灰の際が湯の色に染まり、面が息をするように動きはじめる。


 朔は鞴の男の肩に手を置いた。


「そのまま。強うせぬように」


「へえ」


「強うすれば、灰が飛びます」


 塊を置く。


 銀を吸うた鉛である。握り拳ほどの、角の丸い灰色の塊が、白い灰の窪みの上でゆっくりと形を失っていった。


 *


 沈んでいく。


 塊は湯になり、湯は丸く盛り上がり、盛り上がったまま下の灰へ吸われていく。


 嵩が目に見えて減る。


 減りながら、表を薄い膜が走った。


 虹に似た色である。膜は右から左へ走り、消え、また走り、また消えた。走るたびに色が変わり、変わりながら、だんだんと動きが速くなっていく。灰の白いところが、湯の際からじわりと鼠色に染まってゆき、染まったところがまた乾いた色に戻り、その繰り返しが窪みの縁を少しずつ外へ押し広げていった。


 誰も口をきかない。


 鞴の風の音と、遠くで一つ、鶏の鳴いた声だけがした。


 やがて膜は湯の面を絶え間なく渡るようになり、渡って、渡って、渡って、


 ふつり、と止んだ。


 止んだ。


 *


 窪みの底に、白いものが残っていた。


 粒である。


 平らではない。真ん中がわずかに膨らみ、縁のほうが薄い。表に、湯の面が固まるときの皺が寄っている。


 吹き大工の頭が口を開けた。


「……こら」


 それきり言葉が続かなかった。


 安蔵が身をかがめた。


 かがめて、皿の縁に指を当て、外側と内側とを二度、測った。


 測って、何も言わなかった。


 久秀は床几から立った。


 すぐには手を出さない。


 冷えるのを待って、指の腹でそれを取った。


 軽い。


 見た目より、はるかに軽かった。


 灯へかざす。


 油皿の火が粒の縁を撫でて、そこだけ細く光った。


 久秀はそれを長く見た。


 見ているあいだ、この男は何も言わず、指も動かさず、ただ手首の角度だけを少しずつ変えて、光の当たる面を替えていた。


 ――この男、欲しいものを手にしたときに、いちばん静かになる。


 石を据えさせた日も、京から来た紙を受け取った日も、そうであった。


 それから、掌を開いた。


「見よ」


 男どもが、順に寄ってきた。


 寄って、覗きこんで、下がる。声を出す者はいない。頭が「ちいさいもんでござんすな」と言い、誰かが笑いかけて、途中でやめた。


 いちばんあとに来たのは、皿へ莚を掛けた若い者であった。


 覗きこんで、しばらく動かなかった。


「……これが」


「これが、じゃ」


 久秀は、そう言っただけである。


 男は頭を下げて、下がった。


 下がってから、己の掌を見ていた。


 *


「目方は」


 久秀が言った。


 頭が秤を持ってきて量った。


 数を言う。


 久秀の眉が動いた。


「もう一度」


 もう一度、量る。


 同じであった。


 久秀はしばらく黙っていた。


 ――思うたより、出た。


 書付には目安が書いてある。その目安を、はっきりと上回っていた。上回った分は、この一年で堺から買い集めた銅の量に、そのまま乗っている。乗っているということは、蔵に積んである灰色の山のぶんも、同じ割で乗るということであった。


 久秀は粒を握った。


 握って、開いた。


「竈は、二つであったな」


「へえ」


「三つにすれば」


 頭は答えなかった。


 答えられぬのではない。答える前に、脇から安蔵が言った。


「……人が、足りませんで」


 久秀はそちらを見た。


 安蔵は頭を下げなかった。


「竈を三つにしますと、抜け口が九つ要りますで。九つ開けて、火を守って、半刻で替わって、それを夜まで続けますとなると、いまの十七人では回りませんで」


「幾人要る」


「三十は」


 久秀は答えなかった。


 答えずに帳面を出した。


 一、灰吹  ――買ウ

 一、骨ノ灰ノ皿  ――買ウ

 一、おまけ 炉ノ図

 一、実地 六日  ――小僧、土ヲ 練ル

 一、皿 湿ル  ――二十枚ヲ 選ビ直ス。半刻

 一、初出銀  ――目方、下ニ 記ス

 一、竈 二ツ

 一、人 十七


 一、灰吹法  二点

 一、骨灰の皿  三点

 一、借入 二点  ――二年にて返す

 残り 一点


 墨を置く。


 置いてから、久秀は帳面を閉じた。


「佐介」


「へえ」


「人の帳を、寄越せ」


 佐介が持ってきた。


 久秀は、名の並んだいちばん末の空きへ、己の手で書いた。


 三十


 それだけである。


 己のものでない帳に字を書くのを、この男はあまり好まない。


 佐介はその頁をしばらく見ていた。


 見て、何も訊かなかった。


 *


 久秀は粒を懐紙かいしに包んだ。


 包んで、懐へ入れた。


 同じ懐に、京から来た紙が入っている。


 二つが同じところで擦れた。


「馬を」


「へえ」


「越水へ戻る。……その足で、出る」


 坂を上りかけて、久秀は一度だけ振り返った。


 振り返って、朔を見た。


 見て、何も言わなかった。


 言わずに、行った。


 *


 日が出た。


 窪地に朝の光が斜めに落ちてくる。竈の口から漏れた煙が、その光の筋のなかで白く濃く見え、筋を抜けたところで急に色を失って、松の梢のあたりまで上がると風にほどけて消えた。


 朔は炉の前に残った。


 皿を裏返す。


 窪みの底に、灰へ沈んだ鉛の跡が白く輪になって残っていた。


 指でなぞる。


 粉が付いた。


 爪の際に入った土と、皮の剥けた掌と、白い粉とが、同じ手の上にある。


 嗅いだつもりはなかった。


 それなのに、匂いのほうが先に来た。


 炭の匂いではない。去年の水無月の、莚の匂いである。雨に湿った莚と、その上に寝かされた男と、手首から先だけ垂れた右の手。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 朔は、指の粉を払わなかった。


(銀は、この上に立つ)


 顔を上げた。


 煙が、二本。


 十日前と同じ二本である。


 同じ二本だが、太い。


(……太くしたのは、俺だ)


 坂の上で、馬の蹄の音が遠ざかっていった。


 音が消えても、朔はしばらくそこに立っていた。



■用語解説

懐紙かいし…懐に入れて持ち歩く畳紙。菓子を受け、器を拭き、小さなものを包むのにも使う。武家も町人も、身なりを整える者は懐に一束を入れておいた。


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