第18話(三)「銀、湧く」
――葉月五日の、朝である。
西宮の窪地へ下りる道は、二月前より広くなっていた。
草が両側へ踏み分けられ、轍が二本、乾いて固まっている。人と荷が通れば道は広がる。広がった道を、朔は一人で下りた。
水無月に来たときは雨であった。あのときは足の裏が滑り、草が脛にまとわりつき、坂の途中で一度、莚を担いだ男とすれ違ったのを覚えている。
担がれていた莚は、濡れていた。
いまは乾いている。
*
松の根方に、石が据わっている。
朔はその前で足を止めた。
台に、名が二つ彫ってある。宇之吉。藤次。その下は平らに空いていて、まだ何も彫られていない。
削るなと言うたのは久秀である。
朔はしばらくそこに立っていた。
(俺は、掟を渡した)
手は合わせなかった。
合わせずに、頭だけ下げて通り過ぎた。
*
彦太が走ってきた。
「朔殿」
「ああ」
「おら、角を集めよ言われましたけど」
彦太は、そこで首をひねった。
「……なんで、鹿の角ですのん」
朔は道の脇の灰置き場を指した。
木を焼いた灰が山になっている。
「木の灰は、鉛を吸う。吸うが、いっぱいになる」
「いっぱい」
「布に水を吸わせるのと同じだ。しまいまで吸うたら、それ以上は吸わぬ。吸えぬようになった灰の上には、鉛が残る。鉛が残れば、銀の上に鉛が乗ったままになる」
「ほな、角は」
「角の灰は、まだ吸う」
彦太は口を開けたまま頷いた。
頷いてから、もう一度訊いた。
「なんで、角のほうがようけ吸いますん」
朔は少しだけ黙った。
いま渡しても、この子の中では立たぬ話であった。
「……そこは、いずれ話す」
「ふうん」
彦太はそれで走っていった。
去年のこの子なら、訊かなかった。
角は二日で足りた。
猟師が二人と、山で落ち角を拾う者が三人。落ちた角は、獣を仕留めずに手に入る。
猟師の年寄りが、莚の上へ角を並べながら言った。
「角は、毎年、生え替わりますで」
「そうですか」
「落ちたのを拾うのも、また拾えますでな」
朔はその言葉を聞いていた。
聞いて、返さなかった。
*
角を焼いた。
匂いがきつい。窪地の風は夕方に山から下りるので、匂いは吹屋の側へ流れた。若い者が鼻を袖で押さえて笑い、笑ってから、手は動かしていた。
握り飯を配る刻限に、彦太が莚の上で箸を止めた。
「……飯が、こわい」
安蔵が笑った。
「慣れますで」
「慣れますんか」
「あっしは、三日で慣れましたで」
安蔵は握り飯を二つ、続けて食った。
焼いた角は白くなる。
白くなったものを搗いて粉にし、篩で細かいのだけを取る。取った粉を水で練り、木の型で押し固める。
浅い椀の形になった。
これが皿である。
「乾かします。日陰で」
朔は言った。
「火で炙ったら」
「割れます」
若い者が首をすくめた。
*
炉のほうへ回った。
朔は縄を張り、地面に線を引いた。引いてから安蔵を呼んだ。
「ここに、石を」
「へえ」
安蔵はまず寸法を測った。
測って、墨を打ち、それからもう一度、墨のところを測った。
「二度、測りますな」
「一度で足りませんで」
「……そのほうが、ええです」
朔は袖を括った。
括って、土を練りはじめた。
まわりの者が一瞬、手を止めた。
「……朔さん」
「なんですか」
「そら、あっしらの役ですで」
「六日しかありませんので」
朔は土から目を上げなかった。
粘りの足りぬところへ砂を足し、水を足し、かかとで踏んで返す。指の股が白くなり、爪の際に土が入った。
二日目の夜には、右の掌の付け根の皮が剥けた。
三日目には、その下がまた剥けた。
血は出ない。
出ないので、誰も気づかない。
夜、莚の上で寝返りを打つときにだけ、その手をどこへ置いても収まりが悪かった。
寝床は、吹屋の隅の莚である。
端に一枚、誰も寝ていない莚が敷いてあった。去年の水無月に逃げて、戻らなかった男のものである。誰かが毎晩、埃を払っている。払っているところに、朔は出くわさなかった。
佐介が帳を抱えて立っていた。
立って、動かない。
「……佐介さん」
「へえ」
「書くことが、ありませんか」
「ござりませぬ」
佐介はそう言ってから、少しあわてて付け足した。
「いえ、あの、申し訳ござりませぬ。荷は着いておりまするし、人も欠けておりませぬゆえ、書くことが……ござりませぬ」
「皿の数は」
「四十二にござります」
数だけは、訊かれもせぬうちに出てくる。
「それは」
朔は少し考えた。
「……つけませぬ」
「へえ」
佐介は帳を抱え直した。
抱え直して、それでも動かずに、乾いていく皿のほうを見ていた。
(この人は、書くもののない場所に立っているのが、いちばん落ち着かないのだ)
*
四日目に、掟の読み上げがあった。
月に一度と決めてある。朔がその場に居合わせたのは、これがはじめてであった。
男どもが石の前に並ぶ。
十二条ある。そのうちの二条は、朔が書いた紙であった。塞ぐな、と書いた条と、数の傍に訳を書け、と書いた条である。
書いたときは夜で、油皿の火が小さく、雨が降っていた。書いたのは朔で、写したのは久秀であった。
彦太の声が、先に立った。
「なぜに三つかァ 人の数やない」
「「よいさ、ほい ――竈の数から 出た数じゃァ!」」
朔の手が止まった。
土を練っていた手である。
止まったのは一拍であった。
止まって、また動いた。
誰も見ていなかった。
五日目の夜、久秀が来た。
炉の前に立ち、腕を組んで、しばらく黙っていた。
高さを見、風の入り口の位置を見、乾かしてある皿の並びを見た。
「間に合うか」
「間に合いまする」
「うむ」
それだけで帰った。
帰り際、供の者へ何か言いつけている声が坂の上から降りてきた。山へ持って行く兵糧の話であった。干飯の俵の数と、味噌の樽の数と、日数とを、久秀は坂を上りながら数え上げている。
その声が遠ざかってから、朔はもう一度、土に手を入れた。
(急いでいる者には、いちばん高く売れる)
そういうものだと、朔は知っている。
知っていて、値は動かさなかった。
動かせば、水無月に己で引いた線の、向こう側へ行くことになる。
*
六日目が暮れた。
帰りに、朔は石のほうへ足を向けた。
向けて、途中で止まった。
石の前に、人がいる。
女である。まだ若い。堺の奉公先の仕着せらしいものを着て、松の根方に膝をついていた。
――藤次の妹である。
去年の水無月、野辺送りに間に合わずに来て、あの松の下で声を上げた娘であった。泣くというより、呼ぶ声であった。子供の名を呼ぶときの調子で、兄の名らしいものが二度、混じっていた。
いまは、声を出していない。
背を丸め、手を合わせて、動かない。
日の落ちきる前の光が、女の肩の片側だけを橙に染めている。石の顔はあまり上手でないが、これだけ離れると、そういうことは分からなかった。
朔は、近づかなかった。
近づいて何を言うのか、思いつかなかったからである。
(俺があの人に売ったものは、なんだったのだろう)
遠くから見ている台の名は、二つ。その下は、大人の掌ひとつぶんほど空いている。削るなと言うたのは久秀である。あの人は、そこへ何を彫らせる気で空けさせたのか。
――彫らせぬために、空けさせたのかもしれん。
そう思ってみて、朔は、それが慰めにならぬことに気づいた。
空けてあるということは、入る場所があるということである。
女が立ち上がった。
一度だけ、台の空いているところに掌を置いた。置いて、坂のほうへ歩いていく。
朔は、その背が松の向こうへ隠れるまで動かなかった。
*
炉は立っている。
朔は縁に腰を下ろして、まだ温い石に掌を当てた。
当てて、すぐに離した。
皮の剥けたところがしみた。
明日、この上に灰を敷く。敷いた灰の上へ、鉛を置く。
(出るのは、分かっている。……分かっていて、こわい)
こわい理由も分かっていた。
出れば、殿はもっと欲しがる。もっと欲しがれば、竈がまた増える。
竈が増えれば、抜け口の数はまた足らんようになる。
朔は立ち上がった。
掌を、袴の腿で一度だけ拭う。
「明日の未明に、灰を敷きまする」
誰にともなく、そう言った。




