第18話(一)「銀、湧く」
――天文十年(一五四一年)、葉月(八月)に入って三日。
西宮の窪地に、煙が二本立っていた。
坂を下りながら、久秀はそれを見ている。
去年の秋には、一本もなかったものである。
蝉が鳴いていた。日は高い。松の根方の土が白く乾いて、踏むたびに埃が立つ。
坂の途中でいちど足を止めて振り返ると、海のほうから来た風が松の梢をまとめて一方へ倒し、その下を白い道が窪地の底までまっすぐに落ちていくのが見えた。
道は、去年より広い。
*
吹屋は、思うたより静かであった。
鞴の音はしている。していて、人の声がしない。
土間へ入ると、若い者が二人、手を止めずに頭だけ下げた。下げてから、また手を動かす。
竈は二つ。
柱に紙が貼ってある。日に灼けて縁が反り、端を墨で押さえてあった。
十二条ある。
いちばん下に、日付が入っている。
――日付の入った掟というものを、久秀はほかに知らぬ。
入れよと言うたのは己である。言うたときは深く考えなかった。いま柱の前に立って見ると、その一行だけが妙に生々しい。日付があるということは、いつか改めるということであった。
「殿」
佐介が帳面を抱えて出てきた。左の袖口が、そこだけ色が濃い。洗っても落ちぬ墨である。
「今日は、読み上げの日にござりまする」
「さようか」
「……お邪魔に、なりましょうか」
「ならぬ」
*
佐介の帳は二冊ある。
荷の帳と、人の帳である。
荷の帳のほうを、久秀は長く繰った。
中島が落ちて川下が抜けてから、堺の荒銅は月に十五荷が二十五荷になっている。一荷が四貫文であるから、百貫文が銭で出てゆく。鉛は播磨から回して、駄数が倍に近い。
出てゆくばかりであった。
戻ってくるものは、まだ一つもない。
人の帳のほうは、名と、来た日と、休んだ日である。
十七人。
荷は増えた。人は増えておらぬ。
「……銅を売った銭は」
「堺の宿へ入れてござりまする」
「幾許か」
佐介が数を言った。
出た銭のほうが、入った銭より、はっきりと多い。
久秀はそれを聞いて何も言わなかった。
「殿」
佐介が帳を受け取りながら言った。
「ひとつ、伺うてもよろしゅうござりましょうか」
「申せ」
「銀の目方は、なにゆえ、こちらの帳につけませぬので」
久秀は佐介を見た。
この男は人の書き損じを読むのが役である。読むまいと思うても読めてしまう質であることを、久秀は知っていた。知ったうえで越水から連れてきている。
「……つけたいか」
「いえ」
佐介はすぐに首を振った。
「つけよと仰せられれば、つけまする。つけるなと仰せられれば、つけませぬ。ただ、書いてないことは帳につかぬと、去年、思い知りましてござりますゆえ」
久秀は、笑った。
「よう言うた」
それだけ言って、答えなかった。
佐介も二度は訊かなかった。
*
裏手で板を打つ音がしている。
安蔵であった。
秋の長雨に備えて竈の脇の屋根を継ぎ足しており、継ぎ足しながら二度、寸法を測っていた。一度目に測って墨を打ち、それから墨のところをもう一度測る。
「そなたは、いつも二度測るのう」
「へえ」
安蔵は手を止めずに答えた。
「一度で足りる者もござんすが、あっしは足りませんで」
打ちかけた板の下から、指を三本立ててみせる。
「口は、三つ。……塞ぎませんで」
久秀は頷いた。
頷いてやることの値打ちを、この一年で覚えたのである。
昼前に、男どもが莚の上へ集まった。
去年の水無月に逃げた二人のうち、一人は戻り、一人は戻っていない。その男の莚だけが端に一枚、余って敷いてある。誰が敷いているとも聞かぬ。
松の根方に、石が据わっている。
背丈は子供の胸ほどで、顔はあまり上手でない。台に名が二つ彫ってあり、その下は平らに空けてあった。
吹き大工の頭が、そのいちばん前に座っている。
三人目である。
この男は、台の空いているところを見ない。見ないようにして座るので、顔がわずかに横を向いている。
彦太が前へ出た。
背が、去年より伸びている。声も低い。
息を吸って、放った。
「抜け口三つはァ 竈ひとつゥ」
「「よいさ、ほい」」
十七人ぶんの声が、まとめて返ってきた。
「竈ふたつなら 三つを足せェ」
「「よいさ、ほい」」
「なぜに三つかァ 人の数やない」
「「よいさ、ほい」」
「竈の数から 出た数じゃ」
「「よいさ、ほい ――竈の数から 出た数じゃァ!」」
彦太の父が沢西の田で使っていた節を、そのまま借りている。
「塞ぐなァ 塞ぐなァ」
「「よいさ、ほい」」
「火が弱りゃ 板の当てよを 変えるだけェ」
「「よいさ、ほい ――変えるだけェ!」」
十二条ある。
十二条とも、この形で出る。
低く外れる声が一つだけ混じっていた。安蔵である。
久秀は庇の下でそれを聞いていた。
声は、揃っている。
顔は、田を植えるときの顔であった。去年の水無月、この唄が立ったばかりのころは、二度うたったところで莚の端がざわつき、四条目のあたりで欠伸をする者が出た。いまは出ない。誰も欠伸をせず、誰も感心もせず、十二条をひととおり口から出して、莚を立った。
――去年は、四条目で欠伸が出た。
いまは出ぬ。
出ぬ、というだけのことである。それ以上のことを、この男は考えないことにしていた。
*
飯になった。
麦飯に、味噌。蜆の汁。
去年の水無月と同じ献立である。
久秀は手桶の水を柄杓で汲み、灰を一つまみ落として、それで手を洗った。爪の際まで洗って、腰の手拭で拭く。
誰も見ていない。
見ていないというより、珍しがらない。去年の水無月には、若い者が一人ずつ目を伏せた。伏せてから、めいめい己の手を見た。いまは、めいめい洗って、めいめい食っている。
――一年で、これだけは動いた。
蜆の汁が熱い。
久秀は椀を置き、汁の底の砂を舌の先でよけた。
*
蔵へ入った。
湿った匂いがする。
土間の隅に俵が積んであり、そのすぐ脇に、灰色のものが積み上げてあった。
塊である。
大きさは握り拳ほど。表がざらつき、角が丸い。積み方が乱れていないのは、佐介が数えて積ませたからであろう。
俵と塊とで、蔵はもう手狭になっている。梁の下まで俵を上げ、その隙間に塊の山を寄せてあるので、人が通れるのは真ん中の一筋だけであった。
久秀はその一つを取った。
重い。
冷えている。
「これは、銀か」
吹き大工の頭が、一拍おいて答えた。
「……鉛にござんす」
「銀は」
「入っては、おりますで」
「見えぬではないか」
「へえ」
頭は、そこで鼻の脇を掻いた。
「見えませんで」
久秀は塊を戻した。
戻した音が、蔵の中でやけに低く響いた。
――銀の目方は、帳につけさせておらぬ。
――帳につかぬことは、こちらへ来ぬ。
「試したか」
「試しましたで」
頭は、そこで指を三本立てた。安蔵の癖が、この男にも移っている。
「三度」
「どうなった」
「……皿が、釉をかけたみたようになりましてな」
頭は、掌でその形を作ってみせた。丸く、浅く、縁の反った形である。
「灰が、焼き締まっちまいますんで。焼き締まったら、もう吸いませんで。鉛は上に浮いたまま、ぶすぶす言うておりますで」
「銀は」
「灰の中へ、行っちまいましたで」
頭は掌を下ろした。
「掻き出して、洗うてもみましたが。……粉のようになって、どこにあるやら分かりませんで」
――銅の中に散っておった銀を、鉛のほうへ移す。
そこまでは書付のとおりに済んでいる。済んで、移した先の鉛が、いまこうして積んである。
――移した先から、取り出す手が無い。
無いのではない。
聞いてはいるのだ。灰の皿に載せて焼けと、あの小僧は弥生に申した。申したとおりにやらせて、三度とも、灰に食われた。
――話は、正しかったのであろう。
――話だけでは、できなんだ。
それだけのことで、銭は出るばかりであり、蔵はふさがるばかりであり、人は十七人のままである。
久秀は蔵の中をもう一度見渡した。
俵の山と塊の山と、その真ん中の一筋の道と。
――蔵が一つ、鉛で埋まっただけよ。
*
外へ出ると、日が傾きかけている。
煙は、まだ二本立っていた。
久秀は懐へ手を入れた。
紙が一枚ある。
京から来た紙である。開かずに読み上げさせ、それきり開いていない。中身は覚えていた。
――十二日。
あと、九日ある。
城を一つ囲む。塩川の城で、山の中にある。中島は半日で落ちたが、あれは川の城であった。渡って、木戸を破って、それで終いであった。山はそうはいくまい。囲めば長引き、長引けば人が減る。
文月には、三十七と書いた。
次は幾つ書くことになるか、まだ分からぬ。
分からぬまま、九日のうちに、あの灰色の中から白いものを一粒でも出しておきたかった。
なぜ出しておきたいのか、理由を並べよと言われれば、いくつか並べられる。人の気が締まるとか、算用の目安が立つとか。並べられるが、どれも本当ではない。
手に持ったことのないものを、命がけで取りに行くのは、気色が悪い。
それだけであった。
久秀は佐介を呼んだ。
「明朝までに、越水へ戻る」
「へえ」
「それから」
久秀は、煙のほうを見たままで言った。
「……小僧を、呼べ」
評価やブックマークをしてくださった方、ありがとうございます!まだの方、良ければお願いします!
■用語解説
・釉…焼き物の表にかける薬で、焼くと溶けてつるつるした膜になる。灰吹の皿がこの膜を張ってしまうと、もはや鉛を吸わない。職人が失敗を語るときに引く喩えである。
・篩…粉や粒を、目の細かさで選り分ける道具。骨灰は搗いただけでは粒が揃わず、篩にかけて細かいものだけを取る。
・落ち角…鹿が年ごとに落とす角。自ら落ち、また生えてくるため、山で拾い集めることができる。獣を仕留めずに手に入るのが、この材の得なところである。
・炉立て…炉を築くこと。土の按配、風の入り口の高さ、灰床の深さの三つで、同じ鉱石からの出来高が変わる。腕のある者は、地面に縄を張って寸法を定めてから石を据える。
・懐紙…懐に入れて持ち歩く畳紙。菓子を受け、器を拭き、小さなものを包むのにも使う。武家も町人も、身なりを整える者は懐に一束を入れておいた。




