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第17話(四)「中島」

 ――翌日である。


 引き上げの支度が、朝から土手の上でつづいていた。


 荷を括る音。牛の鳴く声。夜のうちに雨が少し降ったらしく、土手の草が根元まで濡れている。日が出ると、その濡れたところから湯気が立った。


 久秀は、川べりに立っていた。


 長頼がうしろから来た。


「数が、出ましてござる」


「申せ」


「三十七」


 久秀は、川を見たままである。


 長頼は、そこで一拍おいた。


「……そのうち、十一は、手の者にござる」


 久秀は、頷いた。


 矢立を抜き、帳面を開く。昨日、城の落ちた刻限を書いた行の、そのすぐ下へ、その数を書いた。


 書いてしまうと、二行になった。


 上の行に、城が一つ。下の行に、人が三十七。


 *


「兄上」


 長頼が言った。


「川は、抜けましてござる」


「うむ」


「ただ——」


 弟は、川上のほうへ顎を向けた。


「京へ上るまでに、もう一つございます」


 久秀は、そちらへ目を移した。


 水は、朝の光を平らに返している。中嶋から下は、川が幾筋にも分かれて、葦の中へ入り、また出て、そのまた先で海に混じる。関も柵も、見えない。


 猪名川いながわを下れば、神崎かんざきへ入る。神崎を西へ下れば、あとは海であった。堺へも西宮へも、誰の前も通らずに出られる。


 ――京へは、そうはいかぬ。


 神崎を東へさかのぼり、江口えぐちよどの川へ折れる。折れた先の左の岸が、守口もりぐちから門真かどままで、ひとつづきに河内十七箇所であった。公方様の御料所であり、その差配を預かっているのが政長である。二年前、長慶が返せと申し入れて、容れられなかった十七箇所である。


 その岸の西の端に、やかたが一つ坐っている。


 榎並えなみである。


 ――海は、開いている。


 そこまで算えて、久秀は指を止めた。


 京が、開いていない。


 久秀は長く見なかった。


 見ても、今日どうなるものでもない。


 目を戻し、帳面を閉じた。


 *


「松永殿ォ」


 大きな声が、土手の上から降ってきた。


 振り向くと、馬から降りたばかりの男が、供を三人つれて、こちらへ大股に下りてくるところであった。


 池田信正いけだのぶまさである。


 摂津の北、池田の城の主で、年は三十を出たばかりであろう。古風な作りの具足を着て、日に灼けた顔をしている。この男は、遠くから人を呼ぶときだけ声が大きい。


「昨日は、ご苦労にござった」


「いえ。私は、後ろにおりましたゆえ」


「なんの。弟御の采配、見事なものであったと聞いておる」


 信正は、そこで一度声を落とした。


「……松永殿」


 近しい者の名を呼ぶときだけ、この男は声を落とす。それが親しみのつもりであるらしい。


久代くしろのあたりを、近ごろ、人がようけ通っておるのう」


 久秀は、笑った。


 笑った顔のまま、動かさなかった。


「飯も、荷車も。去年の秋から、月ごとに増えておる。……して、松永殿」


 信正の声は、また元の大きさに戻っている。


「何を、運んでおられる」


 供の者も長頼も、そこにいた。


 隠すような場ではない。信正のほうも、隠しごとを暴くつもりで訊いてなどいなかった。世間話である。天気の話と同じ調子であった。


「古い間歩を、掘り直させておりまする」


 久秀は言った。


「銅の気が、わずかに残っておりますゆえ。……痩せた穴にござりますが」


「ははは」


 信正は、大きく笑った。


「あんな穴へ、飯を上げておられるか。物好きなことじゃ」


 それで、満足したらしい。


「では、また、どこぞの陣でお目にかかろう」


 そう言って、馬のほうへ戻っていった。


 *


 久秀は、その背を見送った。


 見送りながら、笑いの残った顔をそのままにしている。


 この男は、味方である。


 池田の城は猪名川のずっと上、山の出口にある。堺から買うた荒銅も鉛も海を来るのであるから、あの城の前は通らない。だが久代村くしろむらは川の下のほうで、西宮から古い間歩へ通う道が、ちょうどその郷を抜けていく。飯も、材木も、人も、みなあの前を通った。


 そして殿は、その郷の段銭の上分じょうぶんを、この男へ割いておられる。上分を割いてもらうとは、そこを通る物と人を己で数えてよいということである。数えねば、己の取り分が出ぬ。


 ――関の役人ではない。


 ――取り分を分けておるゆえ、いくつ通ったかを知らねば、己の取り分が算えられぬ。


 ――知る役目は、こちらから与えてあるのだ。


 関で止められるのなら、まだよい。止められれば、こちらも身構える。


 味方は、止めない。


 止めずに数える。


 しかも、この男が数えているのは荷ではない。飯と、人の数である。


 穴の値打ちは、掘っておる者の数に出る。


 ――いまは、まだよい。


 久秀は、そこまで算えて、算えた先で足が止まった。


 いま数えられているのは、痩せ穴へ通う飯だけである。だが川上の太い山を手に入れれば、荷は猪名川を上から下まで下ることになる。そのとき、荷はこの男の城の脇を、残らず通る。


 そして、この男の妻は政長の娘である。


 久秀は、笑いを消した。


 消してから、背筋のあたりが遅れて冷えるのを感じた。昨日、蔵の中で帳を閉じたときと同じところが冷えている。


 昨日は、死んだ男に数えられていた。


 今日は、生きている味方に数えられている。


 *


 ――葉月はづき(八月)に入った。


 越水城の帳場に、ともしが一つ。


 雨戸を半分繰ってあり、そこから夏の夜の生温い風が入ってきて、灯の芯を横へ倒しては、また立てている。油の匂いがした。


 遠くで、雷が鳴った。


 音だけである。雨は来そうにない。


 久秀は、帳面を繰っていた。


 中嶋の帳は、五十冊がそのまま越水の蔵へ入っている。あれを読み通すには、まだ幾日もかかる。


 いま書いているのは、そちらではなかった。


 西宮の吹きを、どこまで増やせるか。


 川下が通ったのだから、堺からの荒銅も鉛も、いままでより多く動かせる。増やすには人が要り、人を増やせば漏れる。どこまでなら漏れずに増やせるか——それを、鉛の駄数で書き出している。


 来月には、あの小僧から買わねばならぬものが二つあった。


 筆が少し速い。


「殿」


 控えの間から、勘助が言った。


「なんじゃ」


「……気が、急いておられますな」


 久秀の筆が、止まった。


 止まったのは、一拍である。


「そう見ゆるか」


「見えまする」


 勘助は、それきり言わなかった。


 *


 明智光秀あけちみつひでが廊から声をかけたのは、そのすぐあとであった。


「京より、使者にござりまする」


「通せ」


 入ってきた男は、旅の埃を落としきっていなかった。草鞋の緒が片方切れており、口の端が乾いて白い。夜通し駆けてきた顔である。


「管領様よりの、御下知にござりまする」


 久秀は座ったまま、両手でそれを受けた。


 受けて、開かなかった。


 そのまま、控えの者へ渡す。


「読め」


 摂津国川辺郡、一庫ひとくら塩川しおかわ、細川をもう一方で名乗る家に通じおるとの聞こえあり。よって三好長慶、三好政長、これを囲むべし——


 短い。


 文月に己が願い出た紙も、これくらいの長さであった。


 あれは、こちらから頼んだ紙である。


 これは、頼んでいない。


 *


 控えの間で、杖の音がした。


 勘助が、立ったのである。


 杖の先で、土間に線を一本引いた。引いて、消さない。


「……多田の、隣にござる」


 久秀は、そちらを見た。


 ――そうであった。


 弥生に、あの小僧から品書きを一つ、三点で買っている。この国の、まだ掘られておらぬ山を書き並べた紙であった。その中に、一行ある。


 摂津国川辺郡 銀銅 大


 読んだ日から、久秀にとって一庫という城の名は、別のものになっていた。


 太い山は、塩川のものである。こちらが人を入れて掘らせているのは、その山裾の、廃れた古い穴ばかりであった。細く、貧しい。袋の底が透ける。


 その、太いほうの隣を、囲めと管領が仰せである。


 ――欲しいものの隣へ、頼みもせぬ紙が、こちらを連れて行こうとしておる。


 嬉しくは、ない。


 勘助は、顔を上げていた。


 半年余り、この男が己から顔を上げるところを、久秀は見ていない。


 *


 使者を下がらせてから、久秀は帳面を繰った。


 墨を下ろす。


 一、中嶋  ――落ツ。一日ト 半刻

 一、上田弾正忠  ――御腹ト 申ス者、川ヘ 入ラレタト 申ス者。見タ者ハ 無シ

 一、味方 討死 三十七  ――内 十一ハ 手ノ者

 一、過書ノ帳  ――焼ケズ。五十冊。荷主ノ名、月、量、天気マデ

 一、川ハ 通ル。海ハ、開ク

 一、京ハ 江口ヨリ 上。左岸 十七箇所ハ、政長ノ差配

 一、政長  ――兵ヲ 出サレタ。京ハ 銭モ 兵モ 出サレズ

 一、西宮  ――吹キヲ 増ヤスベキ事。ドコマデ 増ヤセバ 漏レルカ


 一、消費なし

 一、借入 二点  ――二年にて返す

 残り 五点


 池田信正の名は、書かなかった。


「何を、運んでおられる」の一行も、書かなかった。


 書けば、誰かが読む。


 書き終えて、久秀は帳面を閉じた。


 閉じてから、もう一度開き、いちばん下へ一行だけ足した。


 一、一庫  ――囲メ、ト


 墨を置く。


 *


 雨戸を、もう一枚繰った。


 夜の風が入ってきて、灯が一度、大きく傾いだ。


 北の空に、山の稜が黒く低く伸びている。一庫のほうである。


 その黒いものの向こうに、まだ己のものでない山が一つ、隠れていた。


 昼のうちは、あんなに近くは見えなかった。


「……山が、近づいてきおった」


 遠くで、また雷が鳴った。


■用語解説

河内十七箇所かわちじゅうしちかしょ…室町幕府の料所。淀川の左岸、守口から門真にかけての十七の郷をいう。代官職は幕府と管領家の差配で、天文のころは三好政長が握っていた。天文8年(1539年)、三好長慶が父の任じられていた同職の返還を求めたが、容れられていない。

上分じょうぶん…年貢や段銭のうち、上へ納める分。またその取り分を割り与えること。主君が家臣や国人へ一部の上分を渡すと、その者は自立を保つかわりに、その土地を通る物や銭の量を帳面で把握する立場になる。

塩川しおかわ…摂津国川辺郡の国人で、一庫城に拠った。多田の山と谷ひとつを隔てて隣り合う。天文10年(1541年)、細川をもう一方で名乗る家に通じているとの噂が立ち、あわせて河内の木沢を牽制するため、管領・細川晴元は三好長慶らにこの城を攻めるよう命じた。

具足ぐそく…鎧・兜・籠手などをひと揃いにした武装のこと。川を渡る戦では胴と籠手だけに減らし、格を見せたい将は戦場でも金の入った華やかな一式を纏った。着るものが、そのまま身分の申告になる。

折敷おしき…食物を載せて運ぶ、縁のついた四角い木の盆。陣中で椀を折敷に載せて運ばせるのは格式のある者だけで、雑兵は掌で受けて立ったまま食う。飯の運ばれ方に身分が出る。

牢人ろうにん…主家を失い、あるいは仕える先を得られずにいる武士。禄がないので諸国を歩き、腕や学問を売って回った。不味いものを後に残さぬ食い方は、この暮らしが長い者の癖である。

花押かおう…署名のかわりに書く、その人ひとりの図案化した印。書判ともいう。花押のある紙は本人の意思とみなされ、乱世では兵より重い意味を持った。

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