第17話(三)「中嶋」
――同じ日の、夕である。
久秀が川を渡ったのは、日が西の水面に落ちかけるころであった。
館の中は、片づけの最中である。莚が幾枚も敷かれ、その上に人が寝かされていた。動かぬ者と、動く者と、両方である。井戸の前に列ができていて、桶の縄がひっきりなしに鳴っていた。
血の匂いはしなかった。水の匂いのほうが強い。
濁った水と、泥と、そこへ夕日が当たって温んだ匂いである。
長頼が、裏手から回ってきた。
「蔵が、二つ残っておりまする」
「焼けなんだか」
「火が回ったのは、母屋の一角のみにて」
久秀は、頷いた。
蔵が残る、ということは、帳が残るということである。
*
土蔵は、川へ向いて建っていた。
戸を開けると、中の空気がひとかたまり、外へ出てくる。
湿った紙の匂い。それに、鼠。年を経た蔵の、床の下に何代も鼠が住んだ匂いである。日の当たらぬ場所の冷たい湿りが、頬に触れた。
若い書役が、灯を持って先に入った。
十七、八であろう。越水から連れてきた者で、文字はよく書く。
「ひい、ふう、みい……」
数えるのに、声が出る。
「……よ、いつ、む——」
床下を、何かが走った。
書役の声が、そこで一度だけ途切れた。それから、また続いた。
「……なな、や、ここのつ」
長頼は、そちらを見もしない。
*
帳は、五十冊ほどあった。
縁の焦げたものが十冊ばかり混じっている。母屋から誰かが運び出しかけて、途中で置いていったものらしい。焦げた縁は脆く、指で摘まむと粉になって落ちた。指の腹に、煤が黒く付く。
久秀は、床几を出させて座った。
膝の上で、一冊を開く。
閉じこめられていた墨の匂いが、そこで立った。
*
過書の帳である。
日付。舟の数。荷の名。荷主の名。取った銭。
それだけが、延々と並んでいた。
字は小さい。小さいが、崩れていない。行の間隔がどの頁でも同じで、書き入れの位置まで揃っている。几帳面な男の手である。
そして、月の頭には、必ず天気が書き足してあった。
――晴 三日 雨 二日
――長雨。舟 少シ
雨の日は荷が減る。減れば銭が入らぬ。だから天気を書く。それだけのことであった。それだけのことを、この男は十何年か、毎月、書き続けてきたらしい。
久秀は、頁を繰った。
米。塩。薪。材木。堺から上る油。京から下る紙。舟一艘につき何十文、荷一駄につき何文と、値が細かく分かれている。同じ荷でも、上りと下りで値が違う。上りのほうが高い。
——上るほうが、断りにくいからである。
京へ持って行くと決めた荷は、途中でやめられない。
「……ようも、これだけ」
長頼が、後ろから覗きこんで言った。
「田を一枚も持たずに、これほどの銭が動くとは」
「川を持つ者は、国を持たずして富む」
久秀は、頁から目を離さずに言った。
「そのかわり、誰も守らぬ」
長頼は、それきり黙った。
久秀は、繰り続けている。
去年の霜月の頁に、値を消して引き直した行が一つあった。安いほうへ引いてある。荷主は近在の百姓である。そのすぐ下に、また同じ名があり、今度は元の値で通っていた。
――一度だけ負けて、次からは負けぬ。
久秀の指が、少し遅くなった。
久秀が書くのは、縄の数と、飯を出した刻と、返ってこぬ鍋の数である。上田が書くのは、天気と、舟の数と、通した荷の数である。品は違う。書きようが、同じであった。
――誰も見ておらぬものを、毎日、書き留めておく男よ。
そして、その一人を、こちらは殺したのである。
*
蔵の隅に、老爺が一人、座らされていた。
上田の荷方であった男である。六十を越えていよう。逃げもせず、抵抗もせず、朝からずっとそこにいるのだという。
数を訊かれると、指では数えない。帯の結び目をひとつずつ繰って、その数を言う。
「上田殿は、どのような御方であった」
久秀が訊いた。
老爺は、しばらく考えた。
考えて、こう言った。
「……あの人、川しか見てはらへんかった」
悪口には聞こえない。弔いにも聞こえなかった。
ただ、そうであった、と言っているだけである。
「京の話は、なされなんだか」
「さあ」
老爺は、帯の結び目をひとつ繰った。
「京から、何ぞ紙が来たことは、ございましたな。二年ほど前でしたか」
「読まれたか」
「読まはりましたわ。読んで、そのまま文箱へ入れて、あくる日には、また川を見てはりました」
久秀は、それきり訊かなかった。
訊かずとも、あとは分かる。
――紙が来ても、川は変わらぬ。
――この男は、そう思うたのだ。
そして、その通りであった。二年のあいだは。
*
久秀が指を止めたのは、水無月の頁であった。
堺 田中与四郎 銅 十五荷 上リ
その行の下に、細い字で書き足しがある。上田の手であった。
銅 増ユ
久秀は、頁を三枚、戻した。
弥生 堺 田中与四郎 銅 五荷 上リ
皐月 堺 田中与四郎 銅 八荷 上リ
もう一度、水無月を見た。
十五。
三月で、三倍である。
——名は、無い。
松永の字は、この帳のどこにも出てこない。
出てこないように、そうしたのである。
田中与四郎は、堺の魚屋の伜で、まだ二十になったばかりの男である。屋号も、身代も、これからという年頃であった。久秀がその男を荷主に立てたのは、腕を見込んだからでもあるが、それ以上に、名が軽かったからである。
軽い名は、帳面に載っても目に留まらぬ。
そう算えた。
そして、西宮で吹いた銅は、荒銅より澄む。澄んだ銅は高く捌けるかわりに、目の利く者の目につく。だから売り口を四つに割った。堺へ二つ、兵庫津へ一つ、京へ一つ。
割ったのは、目立たぬためである。
その四つのうちの一つが、京であった。京へ上る荷は、この川を通る。
――目立たぬように割った先が、よりにもよって、この男の渡しであったか。
その名が、この帳には三度、書いてある。
しかも、下に一行、足してある。
月と、量が合っている。
――この男は、こちらを算えておった。
久秀は、そのことを頁の上で二度確かめ、二度とも同じ答えに行き着いた。
顔を見たことがない。声を聞いたこともない。紙を一枚書かせただけで、会うたこともない男を殺した。
その男が、こちらを見ていたのである。
名も知らぬまま、鉛の駄数だけで。
*
「殿」
書役が、灯を近づけてきた。
「そこ、なんぞございましたか」
久秀は、声を荒らげなかった。
帳を、静かに閉じた。
閉じてから、手の甲を、その表紙の上へ置いた。
「……埃じゃ」
書役は、口を開きかけて、やめた。灯を引き、一歩、退がる。
久秀は、その帳を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
戸口のところに、長頼がいた。
この弟は、兄がいま何をしたかを見ている。帳を閉じた早さも、手の甲の置きようも、見ていた。
見ていて、何も訊かない。
訊かぬのは、遠慮ではない。訊いても己の役には関わらぬと算えたからである。
――この弟は、こういうところがある。
――知らずにおるのではない。知る用がないと決めているのだ。
久秀は、ようやく膝の帳を持ち直した。
*
「長頼」
「は」
「蔵の帳は、一冊残らず越水へ運べ」
「焼き捨てるものは」
「無い」
久秀は言った。
「一枚もない」
――焼けば、焼いたことが残る。
――残すほうが、静かじゃ。
長頼は、頷いた。理由は訊かなかった。この弟は、そういうところがある。
戸口の外は、もう暗くなっている。
蔵の中の、湿った紙の匂いだけが、さっきよりも濃くなった気がした。
*
――算えぬものがある、と知らずに死んだ男よ。
久秀は、そう思いかけて、やめた。
やめて、言い直した。
――あの男は、算えておったのだ。
――ただ、算えたものを、どこへ持って行けばよいかを知らなんだ。
帳面は、人より、残る。




