第17話(二)「中島」
――同じ日の、朝である。
川一つ隔てた土手の上に、陣が張ってあった。
幕は張ったが、床几はほとんど据えていない。半日で済む戦だと踏んでいるからである。荷駄は土手の下に寄せてあり、荷方の者が縄を掛け直している音が、ときどき上がってきた。
松永久秀は、そこにいた。
膝に帳面を置き、矢立の筆を持っている。
書いているのは、戦のことではない。
荷が幾つ、人足が何人、朝の飯を何刻に出したか。渡した縄が幾房で、返ってきたのが幾房か。そういうものばかりであった。
――こういう日にこそ、物は減る。
戦のあとは、縄と鍋が減る。誰も盗んだと思っていないのに減るのだ。それを減らさぬのが、久秀の役である。
*
その脇に、もう一人いる。
杖を突いた男であった。
小柄である。片目が潰れており、右の脚を庇うように立っている。腰に刀は差しているが、具足は着けていない。着けても走れぬからであった。
山本勘助という。
去年の師走に、久秀が銭を出して抱えた男である。
諸国を歩いて兵法を修めた男である。どこの家にも仕えられなかった。腕がなかったのではない。座敷へ通される前に、顔と脚で断られたのだ。四十を幾つも越えてから、はじめて禄をくれた男が久秀であった。
この半年余り、この男がしてきたのは、猪名川筋の古間歩の上に小さな砦を一つ縄張りしたことと、坑の水を抜く溝を三筋引かせたことと、それだけであった。土と、水である。
いま、その男が川を見ている。
片目のほうが、よく見えるらしい。
朝から、この男は幾つも読み当てていた。霧の抜ける刻限を、船頭とほぼ同じに読んだ。木戸を丸太で当てると読み、当てると言った。館の裏に水路があると読み、そこが厄介になると言った。
言ったが、誰も聞いていない。
聞いていないのではない。訊きに来ないのである。
勘助は、杖の先で土に線を引いた。
引いて、しばらく見て、足で消した。
*
使番が、土手を駆け上がってきた。
若い男である。息を切らしている。
「松永様。……荷駄の縄が、足りませぬ」
勘助の首が、わずかに動いた。
呼ばれたのは、己ではない。
「幾房」
久秀は帳面を開いたままである。
「十二」
「二十、朝に渡してある」
「は」
「戻っておるのが八房じゃ。残りは水路の柵に使うたか、誰ぞの腰に巻いてある。……下の荷方に、腰を検めよと伝えよ。責めるな。数えるだけでよい」
「はっ」
使番は、また駆けていった。
久秀は、帳面へ「縄 十二」と書き足した。
勘助は、川を見たままである。
首は、もう動かさなかった。
*
飯が来た。
握り飯を、炭火の縁で焦がしたものである。味噌が笹の葉に一なすり。干魚が一切れ。川の水は濁っているので、飲むほうは竹筒で回された。
雑兵は立ったまま、掌に受けて食う。
久秀は、座って食った。膝の帳面はそのままである。
食う前に、竹筒の栓を一度、指で押した。緩んでいないのを確かめてから、口をつける。
――先月、水と気で人が死んだ。
そのことは、口には出さない。
勘助は、焦げたところから先に食っていた。不味いものを後へ残さぬ癖である。牢人の暮らしが長いと、そうなる。
飯を配っている若い男は、焦げていないのを二つ三つ、己の笊へ寄せていた。手つきに悪びれたところがない。誰も咎めなかった。
土手の向こうから、折敷を捧げた供が四人、列を作って登ってくるのが見えた。
椀が載っている。汁が湯気を立てていた。
――榎並の御方の陣は、飯が運ばれてまいるらしい。
同じ土手の、同じ朝である。
*
勘助が、片目を細めて土手の裾から先を眺めていた。
眺めて、それきり何も言わない。
久秀にも、この男が何を数えているかは分かった。
旗である。
三好の旗。榎並の旗。摂津北から出てきた池田の旗。土手の下から川べりまで、そのどれかが立っている。
京の旗は、一本もない。
この戦は、管領の名で起きた戦である。討てと書いた紙は、管領の花押のあるものであった。
紙は下りた。
銭は下りなかった。兵も下りなかった。
——文月の使者が申した通りじゃ。
そのことを、久秀はいま、目で確かめている。
*
その、榎並の主が通りかかった。
馬上である。
具足は華やかで、胴に金の色が入っていた。髭を丁寧に整えており、戦場だというのに右手に扇を持っている。要のところを、親指の腹でゆっくりと撫でていた。
三好政長という。
長慶の一族である。年は四十をいくつか越えていた。
馬は、止まらなかった。
久秀の前を通り過ぎるまでのあいだに、目が一度だけこちらへ動いた。動いて、膝の帳面を見て、それで済んだ。
「……筆持ちが、陣で何をしておる」
供の一人へ言うような調子である。
「墨が乾くぞ、のう」
供が笑った。馬は、そのまま行った。
久秀は、頭を下げた。
下げた形のまま、しばらく動かなかった。
顔を上げたとき、政長の背はもう土手の先である。
*
三歩うしろで、杖が鳴った。
勘助が握り直したのである。指の節が白くなっていた。
――この男の目には、こちらが映っておらなんだな。
久秀はそう思い、それから、もう一つのことに気づいた。
映っていなかったのは、己だけではない。
政長の目は、杖を突いた片目の男の上を、通り過ぎもしなかった。土手の枯れ草と同じである。そこに在ったことになっていない。
見られていない者が、二人、並んで立っていた。
「殿」
勘助が言った。声が低い。
「……黙っておいでになるのですな」
この男は、他人の受けた恥に腹を立てる質ではない。
腹を立てているのは、返せる口を持っておりながら返さぬ主の、その底が見えぬことに対してであった。見えぬ底は、この半年、この男を幾度も土と水の前へ立たせている。
久秀は、帳面から目を上げなかった。
焼き飯の焦げたところをちぎって、口へ入れる。
「あの方は、分家じゃ」
噛んで、飲みこんだ。
「うちの殿が、本家よ」
それだけであった。
勘助は、黙った。
黙ったまま、しばらく川を見ていた。やがて、また杖の先で土に線を引きはじめた。今度は消さない。
*
――分かるまい。
久秀は、筆を動かしながら思っている。
わしにも、去年までは分からなかった。
三好の家の順でいえば、長慶が本家の当主であり、政長は分かれた家の者である。ところが管領・細川晴元の座では、逆に据わっていた。誰を上に置き誰を下に置くかを決めるのは、細川様の胸ひとつだからである。
家の順ではない。寵の順である。
血でも、年でも、功でもない。
――嗤うておる当人が、家の順では、うちの殿より下におる。
先夜、書院で主が言った。管領様の下で、三好の座は、三好が決める。
あのとき久秀は、半分しか分かっていなかった。
いま、分かった。
*
「殿」
また、勘助である。
「落ちましたら、焼かれませ」
久秀は、筆を止めた。
「城は、落としてから焼くものにござる」
勘助の声には、はじめて熱があった。策を語るときだけ、この男は喋る。
「焼かねば、また建ちまする。人も、また集まりまする。……渡しは、川がある限り、幾たびでも」
理は、通っている。
通っているだけに、この男に一度でも頷けば、次からは訊かずにやるであろう。
久秀は、筆を持ち直した。
「……よい」
短く言った。
「今日は、よい」
なにゆえ、とは言わない。
言えば、この男は次を持ってくる。
勘助は、しばらく待っていた。
待って、来ないと分かると、頭を下げた。下げてから、懐へ手をやりかけて、やめた。
懐には、朝から縄張の図面が一枚。
それは、この日、とうとう出されなかった。
*
昼過ぎ、川向こうで喊声が絶えた。
しばらくして、報せが来た。
久秀は帳面を繰り、新しい一行の頭に、刻限を書いた。
書きながら、まだ人の数は聞いていない。
■用語解説
・縄張…城や砦を築くとき、堀・土塁・門をどこへどう配するかを、地面に縄を張って定めること。またその設計そのもの。軍略のうちで最も技を要する仕事とされ、これを能くする者は諸国から招かれた。
・榎並城…三好政長の居城。中島よりさらに下流、淀川と旧大和川の合わさる低地にあり、川筋が海へ出る手前を押さえている。中島を取っても、海までのあいだにこの城がある。




