第17話(一)「中嶋」
――天文十年(一五四一)文月(七月)十九日、未明。
霧が出ていた。
神崎川の岸から先が、まるごと乳を流したように白い。三間先の葦が見えず、その葦の向こうで水が動いている音だけが、低く、休みなく続いている。足の下の土は夜露で重く、踏めば鳴らずに沈んだ。
松永長頼は、その白いもののなかに立っていた。
具足は簡素である。胴と籠手のほかは付けていない。渡るからであった。
そばに、この土地の船頭が呼ばれて来ている。五十がらみで、首が太く、掌の皮が櫂の形に固まっていた。
「幾刻もつ」
長頼が訊いた。
船頭は空を見なかった。腰をかがめ、岸に寄る水を見ている。泡が三つ四つ、寄っては岸を舐め、舐めてから、ゆっくりと沖のほうへ引いていった。
「……二刻」
「よい」
長頼は頷いた。それきり、何も訊かない。
――この男、人にものを問うとき、問いを一つしか出さぬ。
聞いた答えが要るだけで、その答えの拠りどころには用がないのである。
船頭は、少し拍子抜けした顔をした。それから、誰にともなく言った。
「乳の日ですわ。……こういう朝は、川がいちばん静かでのう」
この男は、上田の郷の者である。
呼ばれて来て、渡れるかと訊かれ、渡れると答えた。それだけのことを、いま己がしたということに、まだ気づいていない顔をしていた。
*
長頼は、川下のほうへ目をやった。
ここは、二つの川の落ち合うところである。上れば京へ、下れば海へ出る。渡し場がいくつも寄り集まり、舟が集まり、舟の集まるところには銭が集まった。
「ここを持てば」
誰にともなく言った。
「上も、下も、通る」
*
物見が戻ってきた。
若い男である。膝から下が泥で黒く、息を切らしながら、切らしていることを恥じるように口を結んで報せた。
木戸は二つ。西の木戸の外に杭が打ってあるが、打ち直したばかりで、まだ縄が新しい。城の内は静か。舟は、桟に六艘。
「六艘か」
長頼は、そこだけを繰り返した。
城の兵はざっと二百と見てある。舟が六艘では、二百は乗れない。
――逃げる支度がない。
そう読むこともできる。油断している、と読むこともできる。
長頼は、どちらとも決めなかった。決めなくとも、やることは変わらぬからである。
「渡る」
低く言った。
「東から。杭のほうへは寄るな」
*
渡渉がはじまった。
先手の者が竹の束を担いで水へ入り、腰まで浸かったところで足を止め、後ろから来る者へ束を渡していく。川底は砂ではなく、細かい泥である。踏めば沈み、沈んだ足を抜くたびに、ぼこ、と低い音が立った。その音が霧に吸われて、思ったほど遠くまでは届かない。麻の胴衣が水を吸って重くなり、濡れた麻の、埃と汗の混じった匂いが列のあいだに立ちこめた。
長頼は三番目に入った。
半ばまで来たとき、後ろで水の跳ねる音がした。
若い雑兵が一人、流れに脚をさらわれている。上流へ体が回り、笠が外れて先に流れた。両脇の者が二人がかりで腕を掴み、引き戻し、砂洲の上へ引き上げた。男は水を吐いて、四つん這いのまま咳きこんでいる。
長頼は振り返らなかった。
「一」
そう言っただけである。
続けよ、という意味であった。
*
対岸へ上がると、木戸まで四十間ほどであった。
長頼は、そこで一度、隊を止めた。
胴衣の合わせへ手を入れ、油紙の包みを出す。中の紙を確かめ、湿っていないのを見てから、使番へ渡した。
「読め」
使番が、木戸の前へ出た。
「管領様の御下知である。摂津中嶋、上田弾正忠為次、渡しを塞ぎ、過書の値を恣にし、上へ通さざること年久し。よって討つべし」
短い。読み上げるのに、二十を数えるほどもかからなかった。
内からは、何も返ってこない。
犬が一匹、木戸の向こうで鳴いた。それだけである。
――返しようが、ないのだ。
長頼はそう思った。あの紙に書かれているのは、上田が実際にしてきたことばかりである。書かれていないのは、それを咎める気が去年まで誰にも無かった、ということだけであった。
「よい」
紙は、油紙へ戻された。
*
木戸は、あっけなく破れた。
丸太を四人で担いで、三度当てただけである。三度目で閂の受けのほうが折れた。木が古かったのだ。杭を打ち直す銭はあっても、木戸を替える銭は惜しんだと見える。
――ここまでは、易い。
長頼はそう思い、思ったとおりに口へは出さなかった。
内へ入る。
*
固かった。
城といっても、土塁と柵に囲われた館に毛の生えたものである。攻める側は数で三倍あった。それでも、内側が動かない。
上田の者どもは、逃げなかった。
舟は桟にあるのに、誰も乗らないのである。かわりに、館の裏の水路へ散った。中嶋城の裏には、荷を引き入れるための細い水路が幾筋も通っている。深さは腰ほど。底に杭が並んでいる。荷舟を止めるための杭であった。
その水路へ、川の男どもが入った。
踏むべき杭と踏んではならぬ杭を、この者どもは知っている。三好の兵は知らない。腰まで浸かって追えば足を取られ、取られたところを長柄で突かれた。突く者は、水の上に胸から先しか出していない。
「櫂じゃ」
誰かが叫んだ。
槍ではなく、櫂で叩かれていたのである。舟を漕ぐ櫂は樫で、先が扁たい。首の付け根に一つ入れば、それで済んだ。
――なるほど。
長頼は、土塁の上からそれを見ていた。
――これは、こやつらの庭であった。
若い足軽が一人、杭のあいだで足を取られた。もがいている。同じ組の男が水へ飛びこんで襟を掴み、引き上げようとして、そのまま二人とも沈んだ。上がってきたのは一人だけである。
長頼は、目を細めもしなかった。
「二」
*
ここで押しを緩める将は多い。長引かせて、囲んで、日が高くなってから、干上がるのを待つ。そのほうが死人が減ると考えるからである。
長頼は、逆にした。
「速めよ」
土塁の上から下知が飛んだ。
「水路へ入るな。上から埋めよ。柵を倒して落とせ」
柵の丸太が水路へ倒され、その上から土嚢が落とされた。杭が使えなくなれば、川の男の足場も消える。半刻とかからずに、三筋の水路が塞がった。
――長引けば、こちらが数で押されるのではない。
――長引けば、死ぬ数が増えるのだ。
この弟は、速さが人を救うと信じている。
信じているのではない。算えているのである。
*
日が高くなるころ、館の中で火の手が上がった。
小さい火である。すぐに消えた。
城は、落ちた。
それだけのことである。
*
上田弾正忠為次の始末を、長頼は下の者から聞いた。
「腹を召された、と申す者と」
その者は言った。
「川へ入られた、と申す者と、二た通りございます」
「見た者は」
「……おりませぬ」
長頼は、頷いた。
それ以上は訊かない。
館の裏手の水は、まだ濁っていた。倒した柵の丸太が一本、繋がれていた縄の分だけ浮いたまま、ゆっくりと回っている。回りながら、少しずつ川下のほうへ向いていく。
霧は、とうに晴れていた。
船頭の言ったとおり、ちょうど二刻であった。
*
引き上げの支度をしていると、あの船頭が、渡渉点の岸で舟を舫っているのが見えた。
朝と同じところに、朝と同じ格好で座っている。
長頼は近くまで行ったが、声はかけなかった。かける用がない。
船頭のほうが、水を見たまま言った。
「……お城が、替わりましたのう」
長頼は答えない。
「まあ、ええですわ」
太い指が、舫い綱の結び目を締め直した。
「川は、誰のものでもねえ」
*
夕方までに、数が出た。
安くはなかった。
■用語解説
・中嶋…淀川と神崎川が分かれ落ち合う、海へ注ぐ手前の低い土地。川筋が幾重にも走り、渡し場と川湊が集まった。船で上れば京へ、下れば海へ通じる咽喉であり、ここを押さえた者は国を持たずして富んだ。
・弾正忠…弾正台という朝廷の監察の役所の三等官。乱世では実務を伴わず、名乗りとして用いられた。国人が己の格を示すために名乗ることが多く、上田為次の「弾正忠」もその類である。
・渡し…橋のない川を舟で渡す場所と、その権のこと。誰が舟を出し、いくら取るかは在地の者が握った。大きな川では渡しの権そのものが財産であり、争いの種になった。
・縄張…城や砦を築くとき、堀・土塁・門をどこへどう配するかを、地面に縄を張って定めること。またその設計そのもの。軍略のうちで最も技を要する仕事とされ、これを能くする者は諸国から招かれた。




