第16話(四)「二重の催促」
――翌日である。
文書の間に、明智光秀を呼んだ。
「嘆願の状にござりまするか」
「いや」
久秀は言った。
「御下知を書け」
光秀の筆が、止まった。止まったのは、一拍である。
「……いま一度、書き直させていただくやもしれませぬ」
先に、そう言った。
半日で、草案が出来た。上田の非が、七つ並べてある。過書の値を勝手に上げたこと。渡しを止めたこと。守護方の使を追い返したこと。どれも事実であり、どれも書きようが正しい。
正しくて、通らない。
久秀は、朱を入れなかった。紙を返して、こう言っただけである。
「これは、殿に読ませる紙ではない」
光秀は、口を開きかけた。
――では、どなたに。
そう訊けば、半日は縮まる。訊かなかったのは、訊けば負けだと思うたからである。
そのまま、半日、文書の間に座っていた。墨を磨る。手が止まる。また磨る。硯の音が、廊まで聞こえていた。反故を裏返す、乾いた音がする。膠の匂いが、その部屋には籠っていた。
日が傾くころ、小者が反故を片づけに来た。
「お捨ていたしましょうか」
「置け」
光秀は、顔も上げずに言った。
「……数えておる」
小者は、退がった。
やがて光秀は、書きかけの紙へ指を置いた。上から二行目を、一度だけ、なぞった。
主語が、三好になっている。
気づいたことは、口に出さなかった。そこから、筆が速い。
二度目の紙が出たのは、翌朝である。上田の非は、三つに減っていた。代わりに先例が三つ引いてある。応永の頃の淀の渡し。文明の頃の神崎。近くは、大永の川口。
そして、益の主語が変わっていた。
――淀川の下流が塞がれば、京へ上る荷が滞る。
――荷が滞れば、京の値が上がる。
――値が上がって困るのは、京におわす方々である。
久秀は、朱を一箇所も入れずに済んだ。
――この男は、直されるのを嫌うのではない。
――直される理由が分からぬことを、嫌うのだ。
反故を数えていたという話は、その日のうちに久秀の耳へ入っている。
――紙を捨てられぬ男が、紙で城を取ろうとしておる。
紙は、その日のうちに京へ発った。
*
――文月(七月)に入った。
段銭は、二重に納めた。京へ一度。越水へ一度。
都賀荘の分は、久秀が私費から立て替えている。〆て六十貫文。あの蔵から取り立てれば麦は出るが、そのかわりに郷が敵になる。立て替えて貸しにしておくほうが、あとあと安い。帳面の備考には、恩に付け替え、とだけ書いた。
納め所は、西宮の橘屋である。守護方の受取と、三好方の受取が、同じ頁の続きの行に並んで書かれた。
返事は、遅かった。
管領は、値踏みをしたのである。この紙を出して己が何を失うかを、十日かけて算えた。そして、算え終えてから出した。
使者が持ってきたのは、一通だけであった。
「銭は、お出しになりませぬ」
使者は言った。
「兵も。……紙だけは、下されました」
都賀荘へは、佐介を遣った。若林左衛門尉は、納め所が西宮の橘屋に決まったと聞いて、しばらく黙っていたという。それから、言った。
「……これで、迷わんで済みます」
言ってから、己の言葉に驚いたような顔をした、と佐介は報せてきた。
――理に屈したのではない。
――納め先が、一つになっただけである。
紙は、二通のままである。京からも越水からも、来年また来る。
だが、納める先は一つになった。
久秀は、その一行を帳面に書かなかった。
*
その夜、朔が来た。灯の下で、久秀は上機嫌に見えたのであろう。
「殿」
「なんじゃ」
「……管領様は、あと十年は倒れませぬ」
久秀は、筆を止めた。
「知っておるわ」
「だから、腹が立つ」
朔は、笑わなかった。
「朔」
「はい」
「上田という男を、知っておるか」
「……名は」
「川を持って、国を持たぬ」
久秀は、筆の先を見ていた。
「あの男は、算えかたを間違えたのではない。……算えぬものが、あると知らなんだのよ」
朔は、答えなかった。答えずに、灯の芯を一度、切った。
芯が短くなって、部屋が少しだけ明るくなる。
この小僧は、こういうときに何も言わない。先月、掟の訳を残らず吐き出して、一点も取らずに置いていった。置いていった同じ口で、銀の値は引かなかった。
――線は、もう引いてある。
――どこに引いたかを、この小僧は言わぬ。
*
その夜、久秀は帳場の灯の下で帳面を繰った。
墨を下ろす。
一、下郡段銭 ――二重ニ 参ル。京ヨリ 一通、越水ヨリ 一通
一、都賀荘 ――無沙汰。払ワヌニ アラズ。決メカネテ オル
――蔵ハ 麦ニテ 満ツ。去年ノ神無月ニ 蒔カセタ分
――決メカネル者ハ、二度 払ウ
一、菟原郡 今南・山路・本庄 ――言ワズトモ 納メ来ル。早シ
――去年ノ 粥ハ 越水ヨリ 出タ
一、中嶋 上田 ――イズレニモ 納メズ。過書ニテ 肥ユ
一、納メ所 ――西宮 橘屋。受取ハ 一冊ニ 並ベ書カス
一、段銭 立替 〆テ 六十貫文 ――恩ニ 付ケ替エ
一、御下知 ――中嶋 上田 討伐。管領様ハ 銭モ 兵モ 出サレズ
一、紙 一枚 願イ出ヅ
一、殿 ――「払ウタ分ハ 中嶋デ 取リ戻ス」
一、消費なし
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 四点
「紙 一枚 願イ出ヅ」の行だけは、字が小さい。墨も、薄く磨ってある。誰に見せる行でもない。
書き終えて、久秀は帳面を閉じた。閉じてから、御下知の紙を取り上げた。
油皿の火に、かざしてみる。
薄い。灯が透けて、裏の墨の影が表から見えた。
指先が、覚えている。松の根に据えた石の、あの重さである。あれは、大人二人がかりで運んだ。
これは、片手で持てる。
■用語解説
・無沙汰…納めるべき年貢や段銭を納めずに放っておくこと。手向かうのではなく、ただ払わずに引き延ばす。乱世の郷が守護と守護代の板挟みで用いた、最も静かな抵抗であった。




