第16話(三)「二重の催促」
――二日のちの、夜である。
越水城の書院に、灯が二つ。
雨戸を一枚だけ繰ってあって、そこから入ってくる夜の風が灯の芯を細く揺らすたびに、床の間に置かれた文箱の影が、壁の上でわずかに伸び縮みした。
墨と、灯の油の匂いがする。
三好長慶は、命令書を膝の上に置いて見ていた。長くも短くもない。ただ、見ている。碗にも扇にも手を触れず、膝の上の指が一度だけ開いて閉じた。
末席に、松永長頼が控えている。段銭の話であるから、この弟は一言も発しない。近習の海老名三郎兵衛は、下がらせてあった。
――その紙の端には、父を自刃へ追いやった男の花押がある。
「……払え、と申すか」
長慶が言った。
「はい」
「二重に」
「二重に」
久秀は、それ以上は言わなかった。
長慶が目だけを上げた。
「理由を申せ」
「銭で足りるものは銭で払うのが、いちばん安うござります」
「足りぬものがあると」
「ござります」
長慶は、また紙へ目を落とした。
「……お支払いせよ」
声に、色はなかった。理で心を殺す音である。
しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて長慶が、扇へ手を伸ばしかけて、やめた。
「兄者。……わしは、いつまで京へ払う」
久秀は、答えなかった。
答えぬことが、答えである。
「摂津の守護は、管領様じゃ」
長慶は、己に言うように言った。
「わしはその下で、下郡の半国を預かっておるにすぎぬ。郷から銭を集める役は、わしにある。だが集めた銭が誰のものかを決めるのは、わしではない」
「……はい」
「同じ郷へ、紙が二通行く。あれは、揉め事ではないな」
「ござりませぬ」
「この形が、そういう形なのじゃ」
――この人は、症状ではなく、病のほうを見ておられる。
*
「摂津は、太い」
長慶が言った。
「阿波も讃岐も、土地が痩せておる。米は穫れる。だが、それだけよ」
久秀は、頭を下げた。
「ここは違う。湊があり、川があり、街道が交わっておる。……そなたが昨日見てきた郷は、去年、死人を出した郷であろう」
「十一人にござります」
「その郷の蔵が、いま麦で埋まっておるのだな」
「梁の下まで」
長慶は、しばらく黙っていた。
「摂津の一国を、きちんと握れば」
そこで、一度言葉を切った。
「阿波と讃岐を合わせたより、太い」
「握るとは、なんじゃ」
問われて、久秀は指を二本立てた。
「二つにござります。銭と、人と」
「申せ」
「銭は、納め所を一つにいたしまする」
久秀は言った。
「どの庄がいくら納めたかを、一冊に集める。集まれば、いくら取れる国かが分かりまする。……分からぬものは、握れませぬ」
「もう、しておるな」
「昨日、西宮の橘屋に置いてまいりました」
長慶が、はじめて久秀の顔を見た。
「人は」
「どちらにも属さぬ者を、なくしまする」
「……国人か」
「はい。どちらに付くかを国人が一人ずつ決めておるあいだは、下郡は下郡のままにござります」
久秀は言った。
「……紙が二通来るのは、どちらでもよい者が、下におるからにござります」
*
長慶は、灯のほうを見た。
「そうなれば」
低い声であった。
「負けても、阿波へ帰らずに済むな」
久秀は答えなかった。
「そして」
長慶は続けた。
「河内国の木沢に、頭を下げずに済む」
一度、間を置いた。
「……管領様の下で、三好の座は、三好が決める」
――そこまで、見ておられる。
摂津は、管領の膝元である。その膝元の銭と人とを三好が一手に握れば、河内の木沢とて三好を軽くは扱えぬ。
そしていま、三好の内での順さえ管領が決めている。
戦をせずに、座が動く。
「……その、はじめが」
長慶が言った。
「紙を一枚、頂戴なされませ」
久秀は言った。
「紙」
「御下知にござります。……中嶋の上田弾正忠を討て、と。管領様のお名で」
「上田を」
「はい」
「……なぜ、あの男じゃ」
久秀は指を折らなかった。折る必要がない。
「中嶋は、淀川と神崎川の落ち合うところにござります。渡しと、過書を、上田が一人で握っておりまする」
過書は、川を渡り、関を通るための手形である。これを出す権を持つ者は、荷の通る量だけ銭を取れた。
「川を持つ者は、国を持たずして富む」
久秀は言った。
「国を持たぬゆえ、誰も守りませぬ。そして上田は、守護にも守護代にも税を通しておりませぬ。……どちらでもよい者の、いちばん太いのが、あの男にござります」
「管領様は」
「あの男から、一文も取っておられませぬ。討たせても、一文もお減りにならぬ」
長慶の口の端が、わずかに動いた。
「損をせぬ紙、か」
「はい」
「損をせぬゆえ、出す」
「人は損をせぬことなら、たいてい、いたしまする」
「兵は」
「榎並城の、三好政長様が」
長慶の眉が、わずかに寄った。
長慶の父の死に、一枚噛んでいた男である。
「……政長と、並んで戦えと申すか」
「中嶋は、政長様の川下にござります。己の庭の口を他人が握っておるのを、あの方はお好みになりますまい。好き嫌いで兵を出される方ではござりませぬ。……そこが、こちらには都合がよい」
「池田は」
「摂津の北から、お出でになりまする。あちらは殿の縁者にござりますれば、御下知が下れば動かぬ理由がない」
「木沢は」
久秀は、少し間を置いた。
「……いずれ、摂津へ手を伸ばされましょう。そのとき兵は、どこを渡りまする」
「……中嶋か」
「渡しを持つ男が、どちらにも税を通さぬということは」
久秀は言った。
「どちらにも、渡しを貸せるということにござります。いまは、誰にも貸しておりませぬ。……いまは、で」
灯の芯が、一度、爆ぜた。
長慶はしばらく黙っていた。
「……よう、算えておる」
「銭の勘定と、同じにござります」
「兄者」
人払いの底では、この人はときどきそう呼ぶ。
「銭を出して、城が来るのか」
「銭は使えば無うなりまする」
久秀は答えた。
「紙は、城に化けまする」
長慶は、膝の上の命令書をもう一度見た。それから巻き戻しながら、言った。
「払う」
*
「……払うた分は、中嶋で取り戻す」
末席で、長頼が顔を上げた。
久秀は、頭を下げた。下げながら、この一言を待っていた己に気づいている。
話は、それで終いであった。
久秀が膝を立てかけたとき、長慶が灯のほうを見ずに言った。
「父も祖父も、負ければ阿波へ帰った」
久秀は膝を落とした。
間があった。
「……わしは、帰らぬ」
久秀は何も言わなかった。ただ、頭を下げた。
――さきほどは、帰らずに済む、と仰せられた。
――いまは、帰らぬ、と仰せられた。
――算えた末に出る言葉と、算えずに出る言葉である。
*
書院を出て、廊を歩く。
雨は上がっていて、渡り廊の板が濡れたまま冷えており、庭のどこかで、溜まった雨をこぼす竹の音が一つだけ鳴った。
――帰る国のある主なら、いざとなれば逃げられる。
――わしは帰る先を捨てた男に、身代を懸けておるのだ。
そしてこの夜、久秀はもう一つのことを考えている。
管領様は、兵を一人も出しておられぬ。それでも銭は動き、いずれ人が死ぬ。政長も、池田も、紙が一枚下りれば動く。
動かしているのは、あの方の腕ではない。あの方の家である。
血、というものが、そこにある。権威とは、要するにその別の名にすぎぬ。
――わしには、家がない。
――殿には、ある。
だが三好は、阿波の守護代の家である。人に仕えるための家であって、人を動かすための家ではない。屋形の号さえ、いまだ許されておらぬ。
三好の名で紙を一枚下したところで、政長は動かぬ。池田も動かぬ。
管領の名なら、動く。
――家はあっても、足りぬ。
――だが、家のある者に紙を書かせることは、できる。
先月、松の根に石を据えた。扶持を二割上げても三割上げても動かなかった男どもが、子供の胸ほどの背丈の観音を一体据えただけで、その日のうちに土間の敷居をまたぎ、逃げた者まで一人戻ってきたのである。
あのとき久秀は、恐れを買うたと思うていた。
恐れは、買えた。
血は、買えぬ。
系図なら、買える。銭を積めば、落ちぶれた公家が筆一本で先祖を拵えてくれる。げんに、そうやって家を持った者を、久秀は何人も知っていた。
だが、あれは効かぬ。
なぜ効かぬのかを、この夜の久秀は、まだ言葉にできない。できぬまま、問いだけが一つ残った。
――買うたことが知れても、値の下がらぬものは、ないか。
――いつまで、書かせる側でいられるか。
廊の突き当たりで、久秀は足を止めた。止めて、しばらく庭を見ている。
何を思ったのかは、この夜の帳面にも書かれていない。
■用語解説
・過書…川の渡しや関を通るために要した通行手形。これを出す権を持つ者は、通る荷の量に応じて銭を取れた。大きな川の落ち合うところでは、この権ひとつで一国の国人に劣らぬ富を生んだ。




