表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/80

第16話(三)「二重の催促」

 ――二日のちの、夜である。


 越水城の書院に、ともしが二つ。


 雨戸を一枚だけ繰ってあって、そこから入ってくる夜の風が灯の芯を細く揺らすたびに、床の間に置かれた文箱ふばこの影が、壁の上でわずかに伸び縮みした。


 墨と、灯の油の匂いがする。


 三好長慶みよしながよしは、命令書を膝の上に置いて見ていた。長くも短くもない。ただ、見ている。碗にも扇にも手を触れず、膝の上の指が一度だけ開いて閉じた。


 末席に、松永長頼ながよりが控えている。段銭の話であるから、この弟は一言も発しない。近習の海老名三郎兵衛えびなさぶろべえは、下がらせてあった。


 ――その紙の端には、父を自刃へ追いやった男の花押かおうがある。


「……払え、と申すか」


 長慶が言った。


「はい」


「二重に」


「二重に」


 久秀は、それ以上は言わなかった。


 長慶が目だけを上げた。


「理由を申せ」


「銭で足りるものは銭で払うのが、いちばん安うござります」


「足りぬものがあると」


「ござります」


 長慶は、また紙へ目を落とした。


「……お支払いせよ」


 声に、色はなかった。理で心を殺す音である。


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 やがて長慶が、扇へ手を伸ばしかけて、やめた。


「兄者。……わしは、いつまで京へ払う」


 久秀は、答えなかった。


 答えぬことが、答えである。


「摂津の守護は、管領様じゃ」


 長慶は、己に言うように言った。


「わしはその下で、下郡の半国を預かっておるにすぎぬ。郷から銭を集める役は、わしにある。だが集めた銭が誰のものかを決めるのは、わしではない」


「……はい」


「同じ郷へ、紙が二通行く。あれは、揉め事ではないな」


「ござりませぬ」


「この形が、そういう形なのじゃ」


 ――この人は、症状ではなく、病のほうを見ておられる。


 *


「摂津は、太い」


 長慶が言った。


「阿波も讃岐も、土地が痩せておる。米は穫れる。だが、それだけよ」


 久秀は、頭を下げた。


「ここは違う。湊があり、川があり、街道が交わっておる。……そなたが昨日見てきた郷は、去年、死人を出した郷であろう」


「十一人にござります」


「その郷の蔵が、いま麦で埋まっておるのだな」


「梁の下まで」


 長慶は、しばらく黙っていた。


「摂津の一国を、きちんと握れば」


 そこで、一度言葉を切った。


「阿波と讃岐を合わせたより、太い」


「握るとは、なんじゃ」


 問われて、久秀は指を二本立てた。


「二つにござります。銭と、人と」


「申せ」


「銭は、納め所を一つにいたしまする」


 久秀は言った。


「どの庄がいくら納めたかを、一冊に集める。集まれば、いくら取れる国かが分かりまする。……分からぬものは、握れませぬ」


「もう、しておるな」


「昨日、西宮の橘屋に置いてまいりました」


 長慶が、はじめて久秀の顔を見た。


「人は」


「どちらにも属さぬ者を、なくしまする」


「……国人か」


「はい。どちらに付くかを国人が一人ずつ決めておるあいだは、下郡は下郡のままにござります」


 久秀は言った。


「……紙が二通来るのは、どちらでもよい者が、下におるからにござります」


 *


 長慶は、灯のほうを見た。


「そうなれば」


 低い声であった。


「負けても、阿波へ帰らずに済むな」


 久秀は答えなかった。


「そして」


 長慶は続けた。


「河内国の木沢きざわに、頭を下げずに済む」


 一度、間を置いた。


「……管領様の下で、三好の座は、三好が決める」


 ――そこまで、見ておられる。


 摂津は、管領の膝元である。その膝元の銭と人とを三好が一手に握れば、河内の木沢とて三好を軽くは扱えぬ。


 そしていま、三好の内での順さえ管領が決めている。


 戦をせずに、座が動く。


「……その、はじめが」


 長慶が言った。


「紙を一枚、頂戴なされませ」


 久秀は言った。


「紙」


御下知ごげちにござります。……中嶋なかじま上田弾正忠うえだだんじょうのじょうを討て、と。管領様のお名で」


「上田を」


「はい」


「……なぜ、あの男じゃ」


 久秀は指を折らなかった。折る必要がない。


「中嶋は、淀川と神崎川の落ち合うところにござります。渡しと、過書かしょを、上田が一人で握っておりまする」


 過書は、川を渡り、関を通るための手形である。これを出す権を持つ者は、荷の通る量だけ銭を取れた。


「川を持つ者は、国を持たずして富む」


 久秀は言った。


「国を持たぬゆえ、誰も守りませぬ。そして上田は、守護にも守護代にも税を通しておりませぬ。……どちらでもよい者の、いちばん太いのが、あの男にござります」


「管領様は」


「あの男から、一文も取っておられませぬ。討たせても、一文もお減りにならぬ」


 長慶の口の端が、わずかに動いた。


「損をせぬ紙、か」


「はい」


「損をせぬゆえ、出す」


「人は損をせぬことなら、たいてい、いたしまする」


「兵は」


榎並城えなみじょうの、三好政長みよしまさなが様が」


 長慶の眉が、わずかに寄った。


 長慶の父の死に、一枚噛んでいた男である。


「……政長と、並んで戦えと申すか」


「中嶋は、政長様の川下にござります。己の庭の口を他人が握っておるのを、あの方はお好みになりますまい。好き嫌いで兵を出される方ではござりませぬ。……そこが、こちらには都合がよい」


「池田は」


「摂津の北から、お出でになりまする。あちらは殿の縁者にござりますれば、御下知が下れば動かぬ理由がない」


「木沢は」


 久秀は、少し間を置いた。


「……いずれ、摂津へ手を伸ばされましょう。そのとき兵は、どこを渡りまする」


「……中嶋か」


「渡しを持つ男が、どちらにも税を通さぬということは」


 久秀は言った。


「どちらにも、渡しを貸せるということにござります。いまは、誰にも貸しておりませぬ。……いまは、で」


 灯の芯が、一度、ぜた。


 長慶はしばらく黙っていた。


「……よう、算えておる」


「銭の勘定と、同じにござります」


「兄者」


 人払いの底では、この人はときどきそう呼ぶ。


「銭を出して、城が来るのか」


「銭は使えば無うなりまする」


 久秀は答えた。


「紙は、城に化けまする」


 長慶は、膝の上の命令書をもう一度見た。それから巻き戻しながら、言った。


「払う」


 *


「……払うた分は、中嶋で取り戻す」


 末席で、長頼が顔を上げた。


 久秀は、頭を下げた。下げながら、この一言を待っていた己に気づいている。


 話は、それで終いであった。


 久秀が膝を立てかけたとき、長慶が灯のほうを見ずに言った。


「父も祖父も、負ければ阿波へ帰った」


 久秀は膝を落とした。


 間があった。


「……わしは、帰らぬ」


 久秀は何も言わなかった。ただ、頭を下げた。


 ――さきほどは、帰らずに済む、と仰せられた。


 ――いまは、帰らぬ、と仰せられた。


 ――算えた末に出る言葉と、算えずに出る言葉である。


 *


 書院を出て、廊を歩く。


 雨は上がっていて、渡り廊の板が濡れたまま冷えており、庭のどこかで、溜まった雨をこぼす竹の音が一つだけ鳴った。


 ――帰る国のある主なら、いざとなれば逃げられる。


 ――わしは帰る先を捨てた男に、身代を懸けておるのだ。


 そしてこの夜、久秀はもう一つのことを考えている。


 管領様は、兵を一人も出しておられぬ。それでも銭は動き、いずれ人が死ぬ。政長も、池田も、紙が一枚下りれば動く。


 動かしているのは、あの方の腕ではない。あの方の家である。


 血、というものが、そこにある。権威けんいとは、要するにその別の名にすぎぬ。


 ――わしには、家がない。


 ――殿には、ある。


 だが三好は、阿波の守護代の家である。人に仕えるための家であって、人を動かすための家ではない。屋形やかたの号さえ、いまだ許されておらぬ。


 三好の名で紙を一枚下したところで、政長は動かぬ。池田も動かぬ。


 管領の名なら、動く。


 ――家はあっても、足りぬ。


 ――だが、家のある者に紙を書かせることは、できる。


 先月、松の根に石を据えた。扶持を二割上げても三割上げても動かなかった男どもが、子供の胸ほどの背丈の観音を一体据えただけで、その日のうちに土間の敷居をまたぎ、逃げた者まで一人戻ってきたのである。


 あのとき久秀は、恐れを買うたと思うていた。


 恐れは、買えた。


 血は、買えぬ。


 系図なら、買える。銭を積めば、落ちぶれた公家が筆一本で先祖をこしらえてくれる。げんに、そうやって家を持った者を、久秀は何人も知っていた。


 だが、あれは効かぬ。


 なぜ効かぬのかを、この夜の久秀は、まだ言葉にできない。できぬまま、問いだけが一つ残った。


 ――買うたことが知れても、値の下がらぬものは、ないか。


 ――いつまで、書かせる側でいられるか。


 廊の突き当たりで、久秀は足を止めた。止めて、しばらく庭を見ている。


 何を思ったのかは、この夜の帳面にも書かれていない。



■用語解説

過書かしょ…川の渡しや関を通るために要した通行手形。これを出す権を持つ者は、通る荷の量に応じて銭を取れた。大きな川の落ち合うところでは、この権ひとつで一国の国人に劣らぬ富を生んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ