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第16話(二)「二重の催促」

 ――同じ日の、夕である。


 西宮は、有馬街道と西国街道の交わるところに立っている。


 橘屋たちばなやは、その辻の東にあった。街道に面してそこそこ大きく、湯治とうじの客を有馬へ送り、帰りにもう一度泊めて、荷と銭の面倒まで見る宿である。


 土間へ入ると、湯の匂いがした。硫黄ではない。鉄気かなけである。有馬の湯を樽で運ばせ、望みの客があれば沸かし直して使わせるのだと、あとで聞いた。


 下女が一人、その樽を運んでいた。おりん、という。十六か十七であろう。両手で抱えるのではなく、肩で押して転がしていく。久秀の草鞋わらじを揃えるとき、爪先を土間の外へ向けた。


 供は、佐介さすけを一人だけ連れていた。西宮の吹屋で荷の帳と人の帳をつけている書役である。荷の動くところには、必ずこの男がいる。帳場の脇に座らせた。


 橘屋宗珍そうちんは、五十がらみであった。恰幅がよく、笑っている。膝の前に帳面を開き、指で紙の端を弾いていた。唇だけが動いている。


 表を、客が二人、荷を担いで通っていった。


「あれは」


 久秀が訊くと、宗珍は顔も上げずに答えた。


「へえ。三貫二百の」


「……名は」


「名、でおますか」


 宗珍は、少し困った顔をした。


「……なんぞ、ございましたやろ」


 ――人を、銭で覚えておる。


「橘屋」


「……」


「橘屋」


「……へえ。へえ」


 久秀は、待った。


 この男が人を待つのは、めったにない。


 やがて宗珍が顔を上げた。


「……なんぞ、仰いましたか」


 久秀は、答えずに佐介を見た。


 佐介が、袋を一つ置いた。西宮の吹屋で、この一月に受け取った銭である。


 中身は、ばらばらであった。宋の銭、明の銭、どこの誰が打ったとも知れぬ薄い銭。縁の欠けたもの、字の潰れたもの、二枚が錆で貼りついたもの。


「これは、いくらになる」


 宗珍は、袋を逆さにした。


 銭が板の間に散った。


 指が、その上を撫でるように走る。撫でながら、右へ寄せ、左へ寄せる。ときどき一枚を爪で弾き、その音を聞いて、また分けた。


 弾く音が、二つある。澄んだのと、濁ったのと。


 山が三つ出来た。


精銭せいせんが、二百十四」


 宗珍は言った。


びたが、三百八十。……このうち百は、二枚で一文に見ていただかんと」


「残りは」


「屑でおます。目方で、銅屋どうやへ」


「〆て」


「……五百四十四文」


 久秀は、佐介に算えさせた。


 佐介は、一枚ずつ指で送る。宗珍はその横で、もう別の帳面を開いている。


 四半刻しはんときほどかかって、佐介が顔を上げた。


「……五百四十四文に、ござります」


 宗珍は聞いていない。


 ――郷は麦を売り、市で受け取った銭を、そのまま持って来る。


 ――だから、一枚として同じものがない。宋の銭も、明の銭も、どこの誰が打ったとも知れぬ薄物も、みな段銭として納まってくる。


 ――誰かが、値を決めねばならぬ。


 京の役人には、決められぬ。越水の書役でも、四半刻かかる。


 この男は撫でて、聞いて、それで済ませた。


 ――撰銭えりぜにである。


 良い銭と悪い銭を選り分け、何枚で一文と見るかを決める。銭が渡来物ばかりのこの世で、これができぬ者は、銭を扱えぬ。


「橘屋」


「へえ」


「納め所を、この店に置く」


「はあ」


「都賀荘も、菟原うはらの庄も、みなここへ納めさせる。受取は、そなたが書け」


 宗珍の指が、止まった。


「……取り立ては」


「せずともよい」


「うちは、しませんで。よその郷へ行って、出せの出さぬのと」


「せずともよい」


 久秀は、繰り返した。


「催促はこちらが出す。守護方は守護方で出される。そちらは、来た銭を受けて、受取を書くだけでよい」


 宗珍の顔が、目に見えて緩んだ。


 奥から、おこうの声が飛んできた。


「取り立てまでせえ言われとったら、お断りしとりました」


 宗珍は、まだ半分ほど算えているような顔をしていた。それから笑った。


「戦は、なさりませ。宿は、開けておきますよってに」


 *


 ――取り立てる者と、算える者を、分ける。


 ――分ければ、算える者は誰の敵にもならぬ。


 ――誰の敵にもならぬ者のところへは、双方が銭を持って来る。


 奥へ立って、帳面を一冊持ってきた。真新しい。糸の匂いがする。一枚も使っていない冊である。


 久秀の前で開き、筆を執った。


 右に、御守護様御納ごしゅごさまおんおさめ


 そして行を変えずに、そのすぐ下へ書いた。


 越水様御納こしみずさまおんおさめ


「……分けぬのか」


「へえ?」


 宗珍は、きょとんとした。


「なんで分けまへんのか、て? ……分けたら、桁が二遍になりますやろ。あれ、気色悪いのですわ」


 ――この男は、下郡の銭を一つにまとめている。


 ――思想でもなければ、算段でもない。ただ、そのほうが気持ちがよいというだけである。


 ――だから、止まらぬ。


「結構」


 久秀は、それだけ言った。言ってから、帳面の綴じ目を指の腹で一度撫でた。


 ――下郡の銭が、この一冊を通る。


 ――どの庄からいくら入り、どちらへいくら出たかが、この店にだけ揃う。


 ――京にも越水にも、揃わぬ。


 管領は、下郡から銭を取っている。だがいくら取れているかを、京では誰も算えられぬ。算えられるのは、いま目の前で筆を持っている男だけである。


 ――納め所をこの店に置くとは、下郡の銭がいくらであるかを、この男に決めさせるということになる。


 ――その男を、こちらが立てた。


 *


 佐介が、吹屋の受取の束を出した。先月ぶんである。宗珍はそれを受け取ると、束を膝に載せ、一枚ずつ送りはじめた。


 速い。


 一枚に息の半分もかけていない。束はみるみる減り、あっという間に膝の上で裏返しになった。


 それから、宗珍は最初へ戻った。


 また送りはじめる。


 久秀が問うても、返事がない。佐介が咳をしても、聞こえていない。表を通る荷駄の鈴が鳴り、ひさしから落ちる雨だれが土間の隅を叩き、そのあいだじゅう、この男は同じ束を三度、往復した。


 佐介の膝が、そわそわしはじめている。


 やがて宗珍は、束を膝から下ろした。


「……一枚、足りまへんな」


 佐介の顔が動いた。


「五月の、二十三日の分でおます。荒銅あらがねの、四荷よんかの」


 佐介は、己の帳面を繰った。繰って、しばらく黙った。


「……ござりませぬ」


 雨の日に、荷が二度に分けて着いた日である。二度目の受取を、誰も書いていない。一月のあいだ、誰も気づかなかった。


 宗珍は、また笑っていた。


「よろしおます。書き足しときますよってに」


「あんた、また草鞋のまま上がって」


 声が奥から来た。小柄な女である。四十半ばで、前掛けの紐を締め直しながら入ってきた。


「……いま、松永さまと」


「知ってます」


 女は、久秀のほうへ向き直った。


「お武家さま。うちは、前金でおますねん」


「こら」


「なんぞ」


「……いえ」


 宗珍の背が、目に見えて縮んだ。


「橘屋」


 久秀が呼んだ。


「納め所の礼は、いかほど取る」


「それは、その」


 宗珍は、女のほうを見た。


「……うちのが、そう申しますよって」


 ――談判の相手を、間違えておった。


 女はおこうといい、この店の値を決め、客をあしらい、人を使っている。宗珍が握っているのは数だけである。久秀は、この日はじめて、返す言葉を持たなかった。


 おこうは、膳を運びながら、誰にともなく喋りつづけていた。


「一遍、火が出ましたときにな。この人、帳面だけ抱えて出てきよって、うちを忘れましたんや」


「……あれは、その」


「なにが、その、や」


 宗珍は、同じところで縮んだ。何度も言われている顔であった。


 *


 膳が出た。


 白い飯である。きすの焼き物と青菜。有馬へ向かう客に出す膳だという。久秀は、白い飯を一度だけ見た。


 今日の昼に食うたのは、麦の焼き餅である。


 縁のほうに、僧が一人、足を投げ出して座っていた。京の寺の者だという。湯治というが、腰も足も達者に見える。


 誰へともなく言った。


施餓鬼せがき勧進かんじんを、春から集めておりましてな」


「……銭のほうが、先に成仏いたしました」


 門前で押し合いになり、怪我人が出たという。誰が取ったのかは、分からぬ。


「……餓鬼だけが、いまだ施されておりませぬ」


 僧の膳にも、白い飯が置かれた。僧は、それを少し長く見ていた。京では見ていない飯である。


 見てから、思い出したように言い足した。


「京は、いま銭の話ばかりでござる」


 そして、鼻をひとつ鳴らした。


「……こちらは、麦の匂いがしますな」


 久秀は、答えなかった。


 土間で、荷主が一人、草鞋を脱いでいた。指に縄の胼胝たこがある。誰にともなく、こぼした。


「中嶋の上田さまが、また値を上げはってなあ。……あの人、川しか見てはらへん」


 久秀は、顔も上げなかった。


 *


 夜になって、越水から報せが来た。


 菟原郡の今南庄いまみなみのしょう山路庄やまじのしょう本庄ほんじょうの三つが、段銭を納め終えている。催促は、一度も出していない。


「早うござりまするな」


 佐介が、帳を繰りながら言った。


 早い。早すぎる。


 報せを持ってきたのは、庄の使いの老人であった。


「……なんぞ、仰せつかってか」


 久秀が訊くと、老人は首を振り、それから思い出したように言った。


「去年の粥は、こちらから参りました」


 それだけである。


 ――遠いものは、いつか無視される。


 ともしを一つ吹き消させて、久秀は帳場に残った。


 宗珍は、まだ算えている。唇が動き、指が紙の端を弾く。人の話は、もう耳に入っていないようであった。


 ふと顔を上げた。


「その……ええと、四貫八百の」


 言ってしまってから、己で気がついたらしい。


「……松永さま、で」


 佐介が、腰を浮かせた。


「よい」


 久秀は、笑った。


「言うたところで、変わらぬ男よ。あれは。……銭の勘定だけ、させておけばよい」


 ――腹を立てなかったのではない。


 ――この男は、同じことを、先にやっていたのである。


 佐介は座り直した。座り直してから、己の帳面を見ている。


 宗珍という男の恐ろしさは、笑いながら二つの陣に足をかけていることではない。足をかけていることを、双方に見せていることである。


 戸の外で、雨が少し落ちてきた。明日は、越水へ戻らねばならぬ。


 ――紙が、二通ある。

■用語解説

撰銭えりぜに…この時代、日本は銭を鋳ておらず、宋銭・明銭などの渡来銭に頼っていた。数が足りぬので粗悪な私鋳銭も出回り、良い銭(精銭)と悪い銭(鐚銭)を選り分け、何枚で一文と見るかを決める作業が要った。これができる者が、銭を扱えた。

施餓鬼せがき…餓えて死んだ者や、供養する者のない亡者に食を施す仏事。飢饉や疫病のあとに大がかりに営まれ、その費えは勧進(寄進集め)で賄われた。銭の集まる場であり、それゆえ悶着も絶えなかった。


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