第16話(一)「二重の催促」
――天文十年(一五四一)水無月(六月)も、末である。
催促の紙が、二通ある。
長雨の名残で、道がぬかるんでいた。馬の脚が、一足ごとに音を立てる。
猪名川の東へ抜けると、川筋に沿ってひらけた田の向こうに藁葺きの屋根がいくつも低く並んでいて、そのどれもの前に、麦を干す筵が敷いてあった。
袖には、まだ煙の匂いが残っている。三日のあいだ、西宮の松の根のそばにいた。
*
都賀荘は、御料所——公方様、すなわち将軍家の御領地である。
もっとも、そこから上がる銭が京へ行かなくなって久しい。公方様はいまも京においでになるが、取り返しに使いを出すだけの兵をお持ちでない。
名主の家は、村のいちばん北にあった。板の間へ通される。奥の土間では、老婆が一人、平たい鍋で麦を煎っていた。木の箆で鍋の底をかき混ぜる手つきに休みがなく、久秀が入ってきても、顔さえ上げない。
止めぬのが、この郷の気分である。
若林左衛門尉は、六十がらみの男で、痩せている。膝の前に、紙を二通、並べて置いていた。
二通の紙。
同じ月の、同じ用向きである。
「……こちらが、京の。こちらが、越水の」
言いながら、二通の端を同じ高さに揃え直した。
京のは、管領細川晴元が下した。摂津の守護は、この人であった。
越水のは、久秀が書かせて出した。摂津の下郡から実際に銭を集める役——半国守護代を、三好長慶が預かっている。その取次が、久秀である。
本来なら、守護が下知し、守護代が集める。紙は、一本ですむはずであった。
その一本が、二本になっている。
――増えたのではない。
――割れたのである。
割れているから、催促も二度来る。京は代官が来て取り、越水は取次が出向いて取る。納めるほうも、二度、人を出して銭を運ばねばならぬ。運ぶ道で盗られれば、それも郷の損になる。
銭を持って行く先が一つに決まっている——そういう場所が、下郡にはまだない。
去年からこうである。都賀荘だけではない。下郡じゅうが、こうであった。
「京のは、いつ参った」
「十日ほど前で」
「越水のは」
「……その、三日あとに」
若林は、耳の後ろを掻いた。掻いてから、また紙を揃えた。
土間の口が、暗くなった。
小男が一人、供の若党を外に残して入ってくる。京の使いである。管領方の平井対馬守の代官で、道祐という。
久秀を見て、足が止まった。
「……松永どの」
「これは」
久秀は、膝を少しずらして座を空けた。道祐は、そこへ座らなかった。
立ったまま、扇を握り直す。
「若林。日限は、とうに過ぎておるぞ」
「……へえ」
「納めるのか、納めぬのか。返答をせい」
若林の指が、また紙の端へ行った。三度目である。
後ろに、大利喜二郎という男が座っていた。三十半ばで、話のあいだじゅう爪を噛んでいる。その爪を口から離して、言った。
「納めんとは、言うてまへん」
「ならば」
「どっちに納めるんか、誰も決めてくれんのですわ」
若林が、袖を引いた。引かれてから、大利は口を閉じた。
道祐の首から上が、赤くなった。
「……これ以上引き延ばすなら、守護使を入れる」
守護使とは、守護が郷へ差し向ける使いのことである。入れば、納まるまで居座る。人を押さえ、物を押さえ、それでも足りねば家を検める。
言い終えてから、この男はまず久秀の顔を見た。
――己の言葉ではない。
――上から預かってきた言葉である。
庭のほうで、音が止んだ。麦を打つ音であった。
男が三人、四人と、庇の下に寄っている。悲鳴も上げず、奥へ引っ込みもしない。久秀の顔を見た。道祐の顔を見た。また、久秀の顔を見た。
戸の外では、道祐の若党が馬の口を取っていた。馬の首を撫でながら、目だけが板の間のほうへ流れている。
――算えておる。
――どちらの言い分が通るかを、この者どもは算えておるのだ。
脅しが利かぬのは、そのためである。恐れておらぬのではない。恐れる先を、まだ決めかねているだけだ。
「若林どの」
久秀が、はじめて口をきいた。
道祐が、こちらを見た。
呼ばれた当人が、いちばん困った顔をしている。この郷で、どの、と付けて呼ばれたことのある者は、おそらく一人もいない。
――恥をかかせぬ。
――恥をかいた者は、こちらの言うことを、いよいよ聞かぬ。
道祐は、たったいま呼び捨てて、空振りをしたばかりである。
「麦は、どうじゃ」
若林の目が、動いた。
「……ご覧じますか」
*
蔵は、家の裏にあった。
戸を引く。穀の匂いが、押し出してくるように来た。
俵が積んである。壁ぎわから梁の下まで隙もなく積み上げてあって、いちばん上の段は、屈まねば天井につかえるところまで来ていた。
去年の神無月に、蒔かせた麦であった。
雪の来る前に蒔け、米が足りぬなら米を配るな、種を配れ――そう触れを回したのは、この男である。あの年の秋、久秀は一度だけ近郷を回っている。筵もかけられずに道端へ転がっていた骸と、木の根を掘っていた老婆と、涸れた乳を動かぬ子に含ませていた女とを、この男は数で覚えていた。
一年で、こうなった。
道祐が、蔵の中を見ていた。見てから、目をそらした。
――取れるものが、目の前にある。
――それでも、この男には取れぬ。
守護使を入れると言うた。だがその使を養う兵は、京から来ない。来るだけの余裕があるのなら、はじめから代官を一人だけ寄越しはせぬ。
――そして今日は、わしにも取れぬ。
ここで取り立てれば、麦は出るであろう。出るであろうが、そのかわりに郷が敵になる。麦は一年で穫れるが、郷は一年では戻らぬ。
久秀は、扇を開きかけて、閉じた。
*
板の間へ戻ると、麦の焼き餅が出た。塩だけである。
「何もござりませぬが」
久秀は、受けた。焦げた匂いが立つ。三日のあいだ煙ばかり吸うていた鼻に、それがよく通った。
食うあいだ、大利の目が餅を追っていた。己の郷の物が、人の口に入るのを見る目である。
見ながら、言った。
「去年の冬、この郷で十一人、死にましてん」
若林が、動いた。だが今度は、袖を引かなかった。
――十一人。
――この男の郷は、十一人であった。
「木の根を掘って、それでも足りんで。……小さい者と、年寄りから、順に」
大利は、爪を噛んでいない。
「神無月に、種が来ましたわ。雪の前に蒔け、言うて。越水から」
「……」
「その麦が、やっと穂になりましたんや。去年の秋から、はじめて腹いっぱい食いましたんや」
大利は、はじめて久秀のほうを正面から見た。
「……礼を、言わなあきませんな」
言うてから、口の中で何か噛むような顔をした。
礼を言うたぶん、次に言うことが言いにくうなったのである。
「京からは、なんぞ来ましたか。……粥の一杯も、来ておりませんわ」
大利は、餅を見ている。
「京から参りましたんは、この紙だけですわ。それが、いま」
言葉が、そこで切れた。
「……この麦から、二度取ると仰る」
若林が、はじめて口を開いた。
「喜二郎」
「なんぞ」
「……京にも、納めんならんのや」
言うてから、若林は久秀のほうを見なかった。
見られぬのである。
段銭は、銭で納める。米で取る国もあるが、下郡は銭であった。だが郷に銭はない。あるのは麦である。麦を市へ出し、受け取った銭で納める。
京にだけ納めれば、越水が来る。越水にだけ納めれば、京が来る。両方に納めれば、麦を二度、売らねばならぬ。
しかも、売る時季が重なる。郷という郷がいちどきに麦を出せば、値は落ちる。
――二度取られるというのは、二倍ではない。
――二倍より、悪い。
だから、決められぬ。
久秀は、噛んでいた。飲み込んでから、餅の欠けたところを見ている。
――種を配れと言うたのは、わしである。
――取り立てに来たのも、わしである。
「うまい」
それだけ言って、立った。
道祐が、驚いた顔をした。
「……お取り立ては」
「今日は」
久秀は、笑いもせずに答えた。
「紙が、二通ござる。……一通にしてから、参りましょう」
道祐は、その意味を取りかねている。取りかねたまま、握っていた扇を帯へ戻した。
戻してから、頭を下げた。
門まで、若林が出てきた。出てきたが、何も言わない。耳の後ろを掻いて、それだけであった。
言うことがないのではない。決めていないから、言えないのである。
――この男、こういうところがある。
――人が困っているのを、困っている形のまま眺めるのだ。
馬に乗ろうとしたとき、土間から人が出てきた。
麦を煎っていた、あの老婆である。
紙に包んだものを、両手で突き出した。煎った麦であった。包みの上からでも、まだ温かい。
何も言わない。久秀の顔も見ない。押しつけるように渡して、そのまま奥へ戻っていった。
久秀は、それを懐へ入れた。
道は、まだぬかるんでいた。袖の煙の匂いに、懐の麦の焦げが混じっている。
西宮まで、二里。
■用語解説
・御下知…上位の者が下す命令の書付。誰を討ってよいか、どの権を認めるかを紙一枚で定める。乱世では、この紙があるかないかで、同じ行いが討伐にも狼藉にもなった。
・半国守護代…一国の守護代のうち、国の半分だけを預かる者。摂津は上郡・下郡に分けられ、三好長慶は下郡の半国守護代であった。守護(細川晴元)の下で、実際に郷から銭を集める役である。
・守護使…守護が郷へ差し向ける使者。年貢や段銭の取り立てのために入り、応じねば人や物を押さえた。「守護使を入れる」は、その一歩手前で用いられる脅しの言葉である。
・御料所…将軍家の直轄領。段銭は本来、京が課して守護が請け負って集め、京へ上る建前であった。乱世ではその銭が京へ届かず、集めた者の手に残る。都賀荘に催促が二通来るのは、集める側が割れたからである。




