第15話(五)「西宮の煙」
――水無月も、あと二日という日である。
石屋の作りかけが、一体あった。
注文の主が死んで引き取り手のなくなった観音だという。それを彫り直させたので、思うたより早く出来上がった。
背丈は、子供の胸ほどである。顔は、あまり上手ではない。
台の石に、名が二つ刻んであった。
その下は、平らに空けてある。
*
朝、柱に新しい紙が貼られた。
七つが、十二になっている。
佐介が、その前に立って読みはじめた。
男どもが十四、五人、庇の下にいる。逃げた二人は、まだ戻らない。
声は平らであった。この男は清書が上手いので、書いてあるものを間違えずに音にすることはできる。
三条目で、後ろが私語をはじめた。
四条目で、一人が欠伸をした。
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彦太が、前へ出た。
「佐介さま。おら、節をつけてもよろしいですか」
佐介は、紙を見た。
紙に、唄うなとは書いていない。
「……やってみよ」
*
彦太が使った節は、父のものである。
沢西の田植唄であった。猪名川の穴で、これに四つ留めを乗せたことがある。
あのときは、絵があった。
今度は、絵にならぬ。柱も梁も出てこず、出てくるのは数と、その数の出どころばかりである。
だから、節に乗せるほかにない。
抜け口三つは 竈ひとつ
竈ふたつなら 三つを足せ
数だけではない。
なぜ三つか、が、同じ節に乗っている。
*
彦太が二度うたったところで、後ろから、低い、外れた声が重なった。
抜け口三つは 竈ひとつ
安蔵である。
「安蔵どん。よう覚えるのう」
誰かが言った。
安蔵は、手の甲で鼻をこすった。
「なんで三つか、書いてござると聞きましたで」
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——この男は、はじめから知りたかったのである。
聞かなかったのではない。訊く先が、どこにもなかっただけだ。
頭は決まっとると言い、紙には書いておらず、紙を読む男は書いてあることしか読まなかった。
いま、書いてある。
だから、いちばん先に覚えた。
*
その日の午すぎ、安蔵は石の脇にしゃがんでいた。
寸法を測っている。
夕方には、小さな覆い屋根が石の上にかかった。四本の柱に、板を二枚。雨が横から来ても、観音の顔が濡れぬ角度に葺いてある。
板の始末が、上手い男であった。
——この男の手は、はじめから終いまで正しい。
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坊主が来て、経を読んだ。
短い経であった。
男どもは莚の上で頭を下げていた。下げながら、幾人かは横目で竈のほうを見ている。
藤次の妹は、いちばん前にいた。
もう、声は上げない。
経が終わると、男どもの一人が立って、土間の敷居をまたいだ。
またいでから、振り返った。
石が、見えた。
肩越しに見える場所へ据えたのは、そのためである。
*
その日の夕には、鞴が鳴った。
逃げた二人のうち、一人が戻ってきている。
もう一人は、戻らなかった。
*
久秀が西宮へ来たのは、火の入った翌日である。
馬を下りて、まっすぐ松の根へ行った。
石を見て、覆い屋根を見て、それから土間の口を見た。
竈が、二つとも生きている。
*
昼になって、鞴が止まった。
飯である。
莚が敷かれ、麦飯の椀が配られはじめた。塩と、蜆の汁である。
飯を配る女が、柄杓の柄を袖で拭ってから握った。その一拭きが、いつもより長い。
柄杓の先が椀の縁にあたって、小さな音を立てた。
女は、手を止めなかった。
久秀は、戸口の脇の手桶のところへ行った。
椀の灰を掌にとって、指の股までこすった。
桶の水で、流す。
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男どもの動きが、止まった。
一人が目を伏せ、次が伏せ、しまいに全員が伏せた。
伏せてから、めいめい、己の手を見た。
久秀は何も言わない。
濡れた手を軽く振って、莚の端に腰を下ろし、椀を受け取った。
麦飯を、一口食う。
塩が、利いている。
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安蔵は、莚の真ん中あたりに座っていた。
誰も、この男を端へ寄せなかった。
寄せる理由が、この者たちにも見つからなかったのである。板を当てた男が悪いのなら、竈を二つにせよと言った者も、口の前に板を打たせた者も、みな悪い。
そこまでは、誰も言葉にしていない。
言葉にしていないが、莚の座りかたに出ていた。
*
久秀は、椀を返した。
「うまい」
それだけ言った。
――この飯を、宇之吉も食い、藤次も食うた。
――同じ手桶で、手を洗うてからである。
洗って死んだ男と、洗わずに死んだ男が、この松の根には二人いる。
*
夕である。
雨は上がったままであった。松の梢がまだ濡れていて、日が傾くとそこだけが光った。
久秀は、朔を松の下へ呼んだ。
「朔」
「はい」
「……銀は」
*
朔は、土間のほうを見た。
竈の火が、赤い。
「銀を吸うた鉛までは、出来まする」
「鉛か」
「はい。銀は、その鉛の中に入っております。貴鉛と申します」
「聞かぬ名じゃ」
「行末の名にございます」
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「そこから先は」
朔は、答える前に一度、石のほうを見た。
*
(只で出せば、いつか俺は要らぬ者になる)
(値をつければ、そのあいだに人が死ぬ)
(どちらにも、道はない)
(ならば、境を引くほかにない)
訳は、只で出す。
銀は、売る。
*
「別の品にございます」
朔は言った。
久秀は、笑わなかった。
「値を申せ」
「殿。続きは、別売りにございます」
*
久秀は、朔の顔を見た。
先夜、この小僧は掟の訳を残らず吐き出している。十二条のうち、四つは訳のほうが長い。それを一点も取らずに置いていった。
置いていった同じ口で、銀の値は引かぬと言う。
――この小僧には、芯が一本ある。
――どこに立っているかは、まだ分からぬ。
久秀は、それきり値を訊かなかった。
*
その夜、久秀は帳場の灯の下で帳面を繰った。
墨を下ろす。
一、西宮ノ竈 二ツ ――吹キハ 夜マデ。荷ハ 月ノ内ニ 捌ケト 申シタ
一、吹キ大工 一人 失フ ――藤次
――掟ハ 一ツモ 破ラレテ オラヌ
一、抜ケ口 三ツ ――竈一ツノ 数デアッタ
一、板 一枚 ――塞グナトハ 書イテ 無カリシ
一、指シテ 声ニ出ス掟 ――効イテ オル。効イテ オッテ、死ンダ
一、扶持 二割 三割 ――誰モ 戻ラズ
一、石 一体 ――観音。名ハ 二ツ。台ノ余白ハ 削ラセズ
一、掟 改ム 七ツヲ 十二ニ
――竈ヲ増サバ 抜ケ口モ 増セ
――塞グナ。火ガ弱ラバ 板ノ当テヨウヲ 変エヨ
――数ノ傍ニ 訳ヲ 書ケ
――日付ヲ 入レヨ
一、弔イ 厚ク ――堺ノ妹ヘ
一、吹キ上ゲノ銅・銀 ――先月ヨリ 多シ
一、貴鉛 ――出来ル。ソノ先ハ 別売リ
一、消費なし
一、借入 二点 ――二年にて返す
残り 四点
*
書き終えて、久秀は筆を止めた。
銅の荷も、銀の目方も、先月より多い。
人の死んだ月の帳面が、いちばん良い。
この男は、その行を消さなかった。
■用語解説
・貴鉛…銅に鉛を混ぜて溶かし、銀を鉛のほうへ吸い取らせた塊。銀は鉛の中に溶け込んでいるので、そのままでは取り出せず、灰の上で焼いて鉛を吸わせる別の技を要する。なお当時の職人にこれを指す固有の呼び名はなく、後世の冶金の語である。




