第15話(四)「西宮の煙」
――水無月の、末である。
野辺送りの日だけ、雨が上がった。
長い雨のあいだの、一日である。松の梢から落ちる雫が日に光って、地面はまだ黒かった。
藤次には、身内が一人ある。堺で奉公に出ている妹だという。久秀は弔いの銭を厚く出させ、その妹のところへ届けさせた。
帳面には、それだけを書いた。
*
翌朝、鞴が鳴らなかった。
夜のうちに、二人いなくなっている。
夜の組の若い者であった。荷物も置いたまま、草鞋だけ持って出ている。
残った者も、土間の敷居をまたがない。
竈の前に立つ者が、いなかった。
*
「宇之吉どんと、同じじゃった」
誰かが言った。
「手の下がりかたが、そっくりじゃ」
「この窪みはのう、もともと人の住まぬ地よ」
「障りが、あるのじゃ」
「松の根に、何ぞおる」
誰が言い出したのかは、分からぬ。噂というものは、言い出した者のない形で立つ。
四月のうちに、同じ屋で二人である。しかも二人とも、腹を抱えて転げ、右の手が下がり、呻きもせずに静かになった。理を知らぬ者には、同じ手が二度伸びてきたとしか見えぬ。
*
佐介が、帳を持って立っていた。
「殿」
「なんじゃ」
「逃げました二人の名の脇に、何と書けばよろしゅうござりましょうか」
久秀は答えなかった。
答えを持っていなかったのである。
*
この男が最初に打った手は、銭であった。
「扶持を、二割上げよ」
佐介が触れを出した。
戻った者は、一人もない。
「三割にせよ」
戻らない。
土間の口に集まった男どもは、扶持の話を聞くと目を伏せる。伏せてから、松の下のほうを見た。
莚はもう片づけてある。
それでも、見た。
*
その日の午すぎ、堺から女が一人来た。
藤次の妹である。十七、八であろう。奉公先の許しが下りるのに二日かかったので、この女が見たのは、兄の骨を焼いたあとの、まだ土の乾かぬところであった。
松の下でしゃがんで、声を上げた。
泣くというより、呼ぶ声である。言葉になっていない。ただ、兄の名らしいものが二度ほど混じった。
*
その声が松林を渡っているあいだ、庇の下の男どもは手を止めていた。
「……祟りが、こわいんじゃねえ」
年かさの一人が言った。
「なんじゃ」
「あれよ」
男は顎で松の下をさした。
「あれが、次はうちのになる。……それが、こわいんじゃ」
声は、まだ続いている。
*
久秀は、帳場の窓からそれを聞いていた。
聞いてから、同じ行を三度読んだ。
読んで、筆を置いた。
――銭で買えぬものが、ある。
この男が、これまで買えぬと思うたものは、名物と、山の二つであった。いずれも値が高すぎるか、売り手がいないかのどちらかである。
だが今日のこれは、そうではない。
値の問題ではないのだ。
男どもが恐れているものには、そもそも売り手がいない。
*
「朔」
「はい」
「そなたの書付に、あれを鎮める法はあるか」
朔は、しばらく黙っていた。
「……ございませぬ」
「毒の理は、申せるのだな」
「申せまする」
「申して、あの者どもが土間へ入るか」
「……入りませぬ」
*
久秀は、笑わなかった。
売り物がない、とこの小僧が言うのを聞いたのは、はじめてである。
「なぜ入らぬ」
「人は、訳の分からぬものを二度こわがりまする」
朔は言った。
「一度目は、毒を。二度目は、毒が分からぬことを」
「二つとも、同じ毒ではないか」
「いいえ。二度目のほうは、毒ではございませぬ」
朔は、松の下を見た。妹の背が、まだそこにある。
「二度目のほうは、あの者どもの内にございます」
*
久秀は立ち上がった。
「では、内のほうへ据える」
「……据える、と申されますと」
「石屋を呼べ」
*
西宮の町から、石屋が来た。
六十がらみで、耳が遠い。話を聞くのに、首を横へ突き出す癖があった。
「観音を、一体」
久秀が言った。
「台には、名を二つ刻め。宇之吉と、藤次と」
「二人で、一体でござりまするか」
「同じ竈の者よ」
石屋はうなずいて寸法を測りはじめた。
*
久秀は、そのあとで石屋を脇へ呼んだ。
呼んで、低い声で言った。
「台の余白は、削るな」
石屋が首を突き出した。
聞こえなかったのである。
久秀はもう一度言った。今度は、はっきりと言った。
「名を刻んだ下は、平らに残しておけ」
「……へえ」
石屋には、意味が分からぬ。分からぬまま、うなずいた。
――掟は、また足りぬようになる。
この男は、そう思っていた。
思ったことは、誰にも言わない。
*
近郷の寺から、坊主を一人呼んだ。
据える日を決めさせているとき、その坊主がついでのように言った。
「観世音と申しまして。……世の音を観る仏にござる」
「音を、観るのか」
「聞くのではのうて、観る。声のほうから、仏のほうへ行くのでござる」
久秀は、それには何も言わなかった。
言わずに、松の下のほうを一度だけ見た。
*
石は、松の根に据えることにした。
土間の口から見える場所である。竈の前に立てば、肩越しに石の背が見えるようにした。
そして久秀は、掟に一条を足すと言った。
――月に一度、この石の前で、掟を読み上げること。
*
これを聞いたとき、佐介の背が伸びた。
読み上げるのは、この男の役である。
紙を届け、柱に貼り、藤次に読み聞かせた男であった。読んだ声が一人の男に丸ごと入り、その男が死ぬまで数を数えていたことを、佐介は知っている。
「……手前が、読みまする」
言ってから、先に謝る癖のあるこの男は、その日も謝らなかった。
*
石屋はその日のうちに鑿を入れた。
キン、と鳴る。
間を置いて、また、キン、と鳴る。
その音が松林に散るたび、庇の下の男どもの手が止まった。
キンという音そのものは、聞き慣れれば槌の音と変わらぬはずのものだが、この林の中では、そのたびに一度、人の手を止めるだけの重さを持っていた。
止まって、松の下を見る。
だが、この日から少しずつ違ってきた。見たあと、土間のほうへ寄ってくるのである。
三日目には、一人が石屋の手元を覗きこんでいた。
*
――石ひとつが、掟十条より効く。
久秀は鑿の音を聞きながらそう思った。
扶持を三割積んでも一人も戻らなかった男どもが、石を彫ると聞いた途端に寄ってくる。
――わしは、恐れを買うたのだ。
銭では買えなかった。石では買えた。
この日、松永久秀という男は、実力とは別のところで人を動かす力に、生まれてはじめて指先で触れている。触れたことに、この男はまだ名を付けていない。
――もっとも。
買うたのは、恐れではなかったのかもしれぬ。あの声の、置き場所であった。
*
その夜である。
吹屋の脇の板の間に、灯を一つ置いた。
油皿の油が焦げる匂いと、乾かぬ墨の匂いとが、狭い間に籠っている。外は、また降りはじめていた。
紙は、二枚ひろげてある。
朔が言い、朔が書く。書いた端から、久秀が己の紙へ写した。
紙の擦れる音と、筆の穂が紙を掻く音のほかには、雨の音しかしない。
*
「風の抜け口は、竈一つにつき三つ」
書く。
「竈を増やすときは、抜け口も増やすこと」
書く。
「吹きが日のうちに終わるならば、一日を三つに割る。夜まで延ばすならば、四つに割ること」
「……頭は」
朔が、そこで一度、筆を止めた。
「頭も、替わること」
久秀の筆が、わずかに止まった。
止まって、写した。
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「風の抜け口は、いかなるわけがあっても塞がぬこと。——火が弱るときは、板の当てようを変えよ」
「二つに分けぬのか」
「一つに、いたしまする」
朔が言った。
「塞ぐなとだけ書けば、あの者は次に何もいたしませぬ。何もいたさねば、火が死にまする。火が死ねば、荷が捌けませぬ」
久秀は、筆を持ったまま朔を見た。
「禁じるだけでは、足りぬか」
「禁じたら、そのかわりの道を、同じ一条の中に書いてやらねばなりませぬ」
*
久秀は、それを写した。
写してから、少しのあいだ紙を見ていた。
――そうしなければ、次に困った男は、また己で考える。
――考えて、また塞ぐ。
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最後の一条を、朔が書いた。
「数の傍に、その数の出どころを書くこと」
久秀の手が、止まった。
「出どころ」
「三つは、竈一つの数。三度は、日のうちに終わる吹きの数。……そう書いておけば、竈が増えたときに、誰かが気づきまする」
「誰かとは」
「誰でもよろしゅうございます」
*
久秀は、それを写した。
写し終えて、筆を置く。
七つが、十二になっていた。
「殿」
朔が言った。
「掟を改めるたびに、人は掟を軽んじまする」
「……」
「一度改まったものは、また改まる。改まるものは、破ってもよいものだと、人は思いまする」
*
久秀は、しばらく紙を見ていた。
それから筆を取り直して、朔の紙の端を指した。
「……日付を、入れよ」
*
朔は言われたところに書いた。
天文十年、水無月。
掟に日付を入れるということは、いつか改めるということである。改めぬものに、日付は要らぬ。
この男は、それを言わずに書かせた。
*
外の雨が、少し強くなった。
久秀は灯の芯を切って、紙の墨を乾かしはじめた。
「明日、読み上げさせよ」
「はい」
「字の読めぬ者に、届くように読ませよ」
朔は、そこで顔を上げた。
届くように読む、という言いかたを、この男は今までしたことがない。
■用語解説
・野辺送り…死者を葬地まで送る道行き。身寄りの遠い奉公人の場合は、雇い主や同じ職場の仲間が施主の役を務めることも珍しくなかった。
・障り…病や災いを、その土地や死者の霊のせいと考える見方。水はけの悪い窪地や、人の死んだ場所は「障りがある」と言われて避けられた。理由の分からぬ不幸に名を与える、当時の作法である。
・観音(観世音)…「世の音を観る」と書き、人の声を聴き取って救うとされた菩薩。中世には石に刻んだ観音像が路傍や墓所に数多く据えられ、死者の供養と、残された者の心の置き場を兼ねた。




