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第15話(三)「西宮の煙」

 ――水無月の、二十日はつかあまりである。


 雨はまだ上がらない。


 朔が西宮へ着いたのは、藤次が死んだ日のひるすぎであった。


 水江みずえへ下っていたのである。報せは早馬で追いかけたが、川が出て、渡しが止まっていた。


 着いたときには、松の下にむしろが敷かれ、桶と柄杓ひしゃくと、切ったばかりの松の枝が置かれていた。


 男どもは屋の内に入らず、ひさしの下に三人四人と固まって、雨の落ちる音のするほうを見るともなく見ていた。


 *


 朔は、莚を見なかった。


 先に壁を見上げた。


 抜け口が、三つ。


 首を回して、土間の口から中を見た。


 竈が、二つ。


 そこで、足が止まった。


 袖の内で、右の手が一度だけ動いた。


 *


 彦太が水を汲んで戻ってきて、朔を見て、それから目を下げた。


 爪の浮いた指に、汚れた手拭が巻いてある。


 朔はその手を見た。


 見て、何も言わなかった。


「朔殿」


 彦太が言った。


「おら、見とりました」


「何を」


「板を、当てるところを」


 朔は顔を上げた。


「言うたか」


「……佐介さまには、訊いてみました」


「安蔵には」


「……言えませんでした」


「なぜだ」


 彦太は下を向いた。


「三つと、決まっとる、と。その朝に、言われましたで」


 朔は、何も言わなかった。


 言えることが、なかったのである。


 *


 久秀は松の根に腰を下ろし、膝に紙とすずりを載せていた。


「掟は、一つも破られておらぬ」


「……はい」


「飯は外で食うておる。手は洗うておる。人も三度替えておる。壁の口は三つ開いておる」


 久秀は筆を取った。


「では、なぜ死んだ」


 *


 朔は、答えなかった。


 答えずに、歩き出した。


 莚の前へ行き、膝をついて、覆いの端をめくった。


 右の手が出てきた。手首から先だけが下がっている。


「これは、宇之吉と同じにございます」


 それだけ言って、覆いを戻した。


 *


 立って、外の壁のほうへ回った。


 泥の中に、白い板が落ちている。


 朔はそれを拾い、壁に立てかけた。釘の穴が三つ、まだ開いていた。


「これが、十日」


 指を上へ向けた。


「口が、三つ」


 それから土間へ入り、冷えた竈の一つに掌を当てた。


「竈が、二つ」


 *


 久秀は、ついて歩いていた。


 筆は、持ったままである。


「……三つが、二つになった」


「はい」


「三分の二か」


「いいえ」


「なぜだ」


 朔は、竈から掌を離した。


「殿。人を殺す毒に、二つございます」


 *


「手を洗う掟が止めるのは、口から入るほうにございます。宇之吉を殺したのは、その半分」


「もう半分は」


「鼻から」


 朔は天井を見た。


「煙にございます。目にも見えず、匂いもせぬものが混じっておりまする」


 *


 久秀は、天井を見なかった。


「手を洗う掟なら、人の数だけあればよい」


「はい」


「壁の口は」


「竈の数にございます」


 久秀は、冷えた竈を一つ見て、もう一つを見た。


「抜けきらなんだぶんは、どこへ行く」


「人の中にございます」


 *


 久秀の筆が、止まった。


 止まったところから、墨が一滴落ちて、膝の紙に丸い染みを作った。


「三つ、と申したのは」


「竈が一つのときに、私が算えた数にございます」


 *


 雨が松の梢を叩いている。


 土間は冷えていた。竈が二つとも死んでいる。あの場所がこれほど寒いものだということを、この吹屋の者たちは今日はじめて知った。


「……算えた、と申したか」


「はい」


「では、掟の中の数は、皆そうか」


「三つ。三度。……皆、算えた数にございます」


「その算えかたを、誰に申した」


「……誰にも」


 *


 久秀は紙を膝から下ろした。


「なぜだ」


「……」


「なぜだ、と聞いておる」


 *


 弥生の夜と、同じ問いであった。


 あのとき朔は「売り物では、なくなりましたゆえ」と答えている。


 今度は、違った。


「……売り物に、ございましたゆえ」


 *


 久秀は、動かなかった。


 膝を立てるでもない。声を荒らげるでもない。ただ、朔の顔から目を離さなかった。


 外で、桶の水を替える音がした。


 *


「一点で、買うたものがあったな」


 久秀が言った。


「指して、声に出す掟よ」


「はい」


「あれは、この吹屋にもいた」


「伺いました」


「効いておるか」


 朔はうなずいた。


「効いておりまする」


「効いておって、死んだか」


「……」


 *


 朔は壁のほうを見た。


 毎朝、あの男が指を折って数えていた三つである。


「殿。指して声に出す掟は、決めたものが在るか無いかを見つけまする。三つと決めておけば、二つのときに気づきまする」


「気づかなんだではないか」


「三つ、開いておりましたゆえ」


 久秀の眉が、動いた。


「板は、外から当てたのだな」


「……はい。壁の内から見れば、口は三つとも開いておりまする」


 *


「では、あの掟は何を見ておった」


「決めたものだけにございます」


 朔は、そこで一度だけ目を伏せた。


「決めておらぬものは、指せませぬ」


 *


 理を持つ者は、この場に一人もいなかった。


 紙を読んだ男は、書いてあることを読んだ。掟を覚えた男は、一字も違えずに覚えた。板を当てた男は、火を守った。皆、己の役を果たしている。


 誰も怠けておらず、誰も嘘をついておらず、それでいてこの吹屋には、なぜという問いに答えられる者が一人もいなかったのである。


 理を持つ者は、二里離れた村にいた。


 *


 久秀は、松の根から立ち上がった。


 立って、壁を見上げた。


 三つ、である。


 壁の上に開いた三つの穴は、雨に濡れた松の枝の向こうで、あの朝と少しも変わらぬ形をしていた。


 ――竈を二つにせよと言うたのは、わしよ。


 ――外から色を読ませぬために、口の前へ板を打たせたのも、わしよ。


 ――そして掟を、一つも破らせなんだ。


 弥生の末に、この男は同じ松の根で言っている。血で買うた掟は、安うない。ゆえに、破らせぬ、と。


 破らせなかった。


 それで、死んだ。


 *


「朔」


「はい」


「掟というものは、立てれば終いか」


 朔は、答えるのに間を取った。


「……いいえ」


「そうであろうな」


 久秀は、それだけ言った。


 この男が己の立てたものを疑ったのは、生まれてはじめてである。疑ったことを、口には出さなかった。


 *


(俺は、掟を渡した)


 朔は、泥に落ちていた板の釘穴を見ていた。


(掟の立っている地面を、渡さなかった)


 山で言うたことは、山の言葉である。穴の中で四つ留めよと言えば、それで通る。だが、その四つが何から出た四つかを言わずに渡せば、穴が広くなったときに誰も直せない。


 同じことを、この吹屋でやったのだ。


 *


 佐介が、柱から剥がした紙を提げて立っていた。


 いつからそこにいたのかは、分からぬ。


「殿」


「なんじゃ」


「この紙に、書き足すことは、ござりましょうか」


 先に謝る癖のある男が、その日は謝らなかった。


 久秀はその紙を受け取った。


 上から下まで、読んだ。


 七つ、書いてある。


 七つとも、正しい。


 *


 久秀が、たもとから新しい紙を出した。


 ひろげて、硯とともに朔のほうへ押しやる。


 墨の丸い染みの、その脇である。


「そなたが、書け」


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