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第15話(二)「西宮の煙」

 ――水無月の、なかばである。


 雨はまだ続いていた。


 彦太はまだ西宮にいる。三日で帰るはずが、半月ちかくになった。道は乾かず、馬も出せず、そのうち吹屋の者が手拭を配る子を当てにするようになって、帰る折を失っている。


 その夜、彦太はひさしの下で手拭をたたんでいた。


 土間の口から、明かりが漏れている。


 ふいごの音が聞こえていた。


 *


 音が、ずれた。


 踏む足の拍が、半分だけ遅れたのである。


 彦太は手を止めた。


 止めてから、土間の口を見た。漏れている明かりが、いつもは上へ立つのに、その晩は横へ流れていた。炎が、寝ている。


 中で何かが落ちた。


 炭の崩れる音ではない。もっと重いものが、膝から落ちる音であった。


 彦太は駆け寄って、敷居から中を覗いた。


 その晩の土間には、いつもより炭の煙が低く垂れていて、鞴の風が入るたびに天井のあたりで薄く渦を巻いていた。


 一人が、竈の脇に膝をついている。


 その向こうで、もう一人が座り込んだ。


 座り込んだまま、笑うような声を出した。


 *


 彦太の口が、勝手に動いた。


「みな、出よッ」


 山の言葉である。


 猪名川の穴で、彦太が男どもに教えた掟であった。籠のひながうずくまったら、みな出よ——なぜ出ねばならぬのかは、彦太も知らない。教えられたとおりに言っただけの掟である。


 だが、いま口から出たのは、それであった。


「出よッ、みな出よッ」


 土間の中で、誰かが立ち上がった。


 *


 それから彦太は、外へ走った。


 なぜそうしたのかは、あとで訊かれても答えられなかった。


 雨の中を西の壁へ回った。梯子はしごはどこにあるか知らぬ。空樽が積んであったので、それに登った。


 手が届いた。


 十日前に打たれた、白い板である。


 指を隙間へ入れて、引いた。


 釘が三本、利いている。抜けない。もう一度引いた。板の縁が指の腹を裂き、爪が一枚、根から浮いた。


 三度目で剥がれた。


 板が落ちて、樽が傾いて、彦太も落ちた。


 泥の上で、口の中に泥の味がした。


 上を見ると、抜け口が、黒く開いていた。


 *


 藤次は、担ぎ出す側に回っていた。


 一人を肩に掛けて外へ出し、むしろへ寝かせ、また入る。


 三度、往復した。


 三度とも、いちばん奥まで入っている。


 佐介さすけが帳場から飛び出してきて、帳を提げたまま突っ立った。何をすればよいのか、この男には分からぬ。しばらくしてから帳を庇の下へ置き、桶を提げて井戸へ走った。


 雨の中で桶に水を汲んでいる。


 *


 倒れたのは、四人であった。


 朝には四人とも起き上がった。


 一人は起きて、まず己の飯の椀を探した。


 頭が痛いと言い、しばらく吐き、それきりであった。昼には土間へ入ろうとして、藤次に止められている。


 藤次は、倒れなかった。


 *


 久秀が西宮へ着いたのは、その翌日の昼過ぎである。


 報せが越水へ入ったのは、その日の明け方であった。同じ朝、催促の紙が二通、届いている。


 取次の名で受けた紙は、取次の名で返さねばならぬ。返す紙を書き終えるまで、この男は馬を出せなかった。


 着いて、まず土間へ入った。


 竈は二つとも冷えている。


「掟を、検めよ」


 *


 佐介が二つの帳を差し出した。


 人の帳には、替わった刻限が書いてある。朝の組、昼の組、夜の組。十日ぶんを繰っても、一日を三つに割らなかった日は一日もない。


 飯の跡は外の松の根にあった。莚が敷きっぱなしになっている。


 手桶が戸口の脇に据えてある。中に水があり、傍らの椀に灰が入っていた。


 竈の脇には、椀も箸も落ちていない。


 久秀は帳を繰ってから土間を出て、松の根の莚と手桶の水と灰の椀を順に見てまわった。


 壁の上を見上げれば、抜け口は三つ、黒く開いている。


 掟は、一つも破られていない。


 *


 久秀は、筆を持っていた。


 持ったまま、動かさなかった。


「……壁の口は、いくつ開けてある」


「三つにございます」


 佐介が答えた。


「昨夜も、三つか」


 そこで、佐介の語尾が落ちた。


「……三つに、ござりましたが」


「が、とは」


一昨日おとといの夜まで、一つに、板が」


 *


 若い衆が、目を伏せた。


 一人は草鞋わらじひもを結び直す振りをして、しゃがんだまま顔を上げない。


 そのなかで、一人だけが立っていた。


 安蔵である。


「板は、手前が当てましてござる」


 *


 久秀はその男を見た。


「いつ当てた」


「十日ばかり前で」


「なぜ当てた」


「雨が、横から入りますで。火が、寝まする」


 安蔵は指を三本立てた。


「三つのうちの、一つでござんす。二つ、開いておりました」


 隠すそぶりは、まるでない。


 咎められるとも思っていない顔であった。


 *


 久秀は佐介に向いた。


「帳に、書いておるか」


「……書いて、ござりませぬ」


 佐介の背が、さらに丸くなった。


「申し訳もござりませぬ。紙には、風の抜け口を三つ、と。……塞ぐな、とは、書いてのうございましたゆえ」


 *


 ――書いていないことは、帳につかぬ。


 久秀は筆をたもとへ収めた。


 罰する筋が、どこにも立たなかったのである。


 板を当てた男は掟を破っておらず、帳をつけた男は書いてあることを書いており、頭は掟を一字も違えずに守らせていた。


 この男は、理の通らぬ罰を出さない。


 出せば、次に雨が横から来たとき、誰も板に手を触れなくなる。


 罰は、次の手を殺すのだ。


 *


 土間の奥で音がした。


 藤次が、さじを洗っていた。


「冷えた竈を、洗うか」


「……へえ」


 藤次は立ち上がり、頭を下げた。下げてから、匙を右手から左手へ持ち替えた。


 しばらくして、また右手へ戻した。


「手が、震えておるな」


「濡れました」


 藤次は、そう言った。


 歳よ、とは言わなかった。この男には、まだ歳のせいにできる歳がない。


 久秀はうなずいて土間を出た。


 出るとき、この男の右手を見ていない。


 *


 その夜から、藤次が腹を抱えた。


 帳場の隅に莚を敷いて寝かせ、転げるので両側に俵を積んだ。熱が高い。彦太が、爪の浮いた指に手拭を巻いて水を替えた。


 *


 二日目の夜、耳を寄せると、この男は数を数えていた。


「……ひとつ」


「……ふたつ」


「……みっつ」


 しばらく黙って、また同じことを言う。


 ——三つで、足りますんか。


 ——三つと、決まっとる。


 その決まっているものを、熱の底でまだ数えている。


 彦太は手拭を絞り直した。


 *


 三日目の明け方に、藤次は静かになった。


 宇之吉のときと、同じであった。うめきもせず、いつのまにか、である。


 莚の上に寝かせ直したとき、右の手が、手首から先だけ下がった。


 指が、開いていない。


 匙を握る手であった。


 *


 佐介は、莚の脇にしゃがんでいた。


「……何ぞ、申しましたか」


 彦太に訊いた。


「数を、数えとりました」


「数」


「ひとつ、ふたつ、みっつ、と」


 佐介は、しばらく黙っていた。


 それから帳場へ戻り、柱の紙を見上げた。頭になった日にこの男へ読んで聞かせた紙である。あのとき佐介は、上から下まで声に出して読んだ。


 読み上げた声を、藤次は一度で覚えた。


 覚えたものを、死ぬまで数えていた。


 ――読むのが仕事の男である。この男は書いてあることを残らず読み、書いていないことを一字も読まなかった。


 佐介は、筆を持たなかった。


 *


 倒れた四人は、起き上がっている。


 倒れなかった男が、死んだ。


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