第15話(一)「西宮の煙」
――天文十年(一五四一)水無月(六月)である。
雨が、七日続いていた。
藤次は、吹屋の壁を見上げて、指を折った。
「一つ」
折る。
「二つ」
折る。
「三つ。……よし」
声に出す。誰も聞いていなくても、出す。そう決められている。
壁の上のほうに、風の抜け口が三つ開いていた。口の前には、外から板が一枚ずつ、斜めに打ちつけてある。中の火の色を、外から読ませぬためである。板を打たせたのは主で、抜け口を開けさせたのも、同じ主であった。
藤次は、その三つを毎朝数える。
この男は、字が読めない。
*
「……あの」
脇に、子が一人立っていた。
猪名川の山から荷に付いてきた十二の子である。荷駄を届けて帰るはずが、道がぬかるんで馬が出せぬ。三日、吹屋の隅で寝起きしている。彦太という。
することがないので、手拭の束を提げて配って歩いている。
山では、先生と呼ばれる。ここでは、誰もそう呼ばない。
「言え」
彦太は、壁を見上げていた。
抜け口が、三つ。首を回せば、土間の口の向こうに竈が、二つ。
胸のあたりが、なんとなくざらつく。だが、そのざらつきを言葉にするだけのものを、この子は持たない。
「三つで、足りますんか」
藤次も、上を見た。
「三つと、決まっとる」
間が、なかった。
考えてから答えたのではない。数えるように答えたのである。
「……はあ」
彦太は、それきり黙った。
黙ってから、二月ばかり前のことを思い出した。猪名川の穴で、松吉という若い男が「なぜ四つで留めるんで」と訊いたことがある。あのとき六郎は「そう決まっとる」と答え、松吉は「はあ」と言って木を担いでいった。
——同じじゃ。
そう思った。思っただけである。
*
西宮の吹屋は、松林の窪みに埋めるように建っている。
有馬へ登る道と、西へ下る道の交わるあたりから、半里ばかり北へ入ったところであった。
竈は、二つになっていた。
先月の末までは、一つである。
荷が増えたのだ。猪名川の上の山から、掘った石を砕いた粉の袋が回ってくるようになった。堺からは荒銅が来る。銀を抜く前の、手の掛かる銅である。一荷を溶かし、鉛を混ぜ、冷ましながら鉛のほうへ銀を吸わせ、それを絞る。手間は荷の数だけかかった。
竈をもう一つ据えよと言うてきたのは、越水である。
増えた荷を、月のうちに捌けと言う。
吹きは、夜まで延びた。
*
この七日、夜の吹きがうまくいっていない。
雨である。
斜めに打った板の隙間から、風にあおられた雨が吹き込む。抜け口の下の壁は、いつも濡れていた。湿った風が入ると、竈の火が横へ流れる。立たねばならぬ火が寝るのだ。
湯の面に張る膜の色が、いつもの時分に出てこない。
炭を足す。鞴を強く踏ませる。それでも半刻ばかり遅れた。
遅れたぶん、夜が延びる。
荷は、減らない。
*
吹屋の脇に、小屋が一つ建っている。
帳場である。
佐介という書役が、そこで筆を持っていた。二十五、六。痩せて猫背で、左の袖口だけ墨の色が濃い。洗っても落ちぬのだと本人は言う。
越水の文書方の男である。弥生に主が掟を立てたとき、写した紙を吹屋へ届けたのが、この佐介であった。届けて、土間の柱に貼り、読み聞かせた。
竈が二つになってからは、詰めきりになっている。
つけるのは、二つの帳である。荷の帳と、人の帳。荒銅が何荷入り、吹き上がった銅が何荷出たか。朝の組に誰、昼の組に誰、夜の組に誰、替わった刻限は何刻か。
銀の目方だけは、佐介の帳につかない。
あれは、主が己の手で書く。
*
柱に貼られた紙は、藤次には墨の並びにしか見えぬ。だから頭になった日、佐介を呼んではじめから終いまで読ませた。
一度で覚えた。
壁の上に風の抜け口を三つ。竈の煙を屋の内に溜めぬこと。飯は外の風の下で食い、食う前に手桶の水と灰で手と口を洗うこと。竈の脇では飲まず食わぬこと。一日を三つに割って人を替え、同じ者を長く竈に付けぬこと。腹を抱える者、手の垂れる者は、その日から竈より離すこと。
諳んじるとき、この男の目は上を向く。読み聞かせを聞いた日の、柱のあたりを見ている。
一字も違えない。
そのかわり、一字も足せなかった。
*
藤次は、宇之吉の下にいた男である。
弥生の朝、頭が松の下の莚に寝かされたとき、土間で鞴を踏んでいたのがこの男であった。誰も止めよと言わなかったので、踏んでいた。主が来て、誰かが土間へ駆けて、そこで足が止まった。
止まるまで、踏んでいた。
宇之吉の右手は、手首から先だけが下がっていた。歯茎の縁が、青黒く沈んでいた。それを藤次は見ている。
だからこの男は、掟を人の三倍こわがっていた。
こわがりかたが、正しい形をしていた。
*
昼になると、鞴が止まる。
飯は、外で食う。
松の根に莚を敷き、手桶の水と灰で手を洗ってから、めいめいの膝の上で椀を持つ。麦飯に、塩と、川で採れた蜆の汁である。
飯を配る女は、柄杓の柄を握る前に、必ず一度、袖で拭った。
弥生からの癖である。
雨に湿った莚のにおいと、汁の湯気と、松の脂のにおいとが混じっている。
藤次は、手を洗うのに時をかけた。
灰を掌にとって指の股までこすり、桶の水で流し、それをもう一度やる。
指の股は、割れていた。
洗いすぎて割れたのである。そこへ水が入ると、沁みた。
沁みるたびに、この男は少し口を歪める。歪めて、また洗った。
*
人は、一日を三つに割って替わる。
朝の組、昼の組、夜の組。
替われと言うのは、藤次である。
「替われ」
そう言って若い者を土間から出し、次の組を入れる。
佐介が、その刻限を帳に書く。
言う者は、替わらない。
掟に、頭も替われとは書いていなかった。
*
安蔵という男がいる。
三十半ばで、宇之吉が死んだあとに堺から入った三人のうちの一人であった。もとは鋳物師の下働きで、吹きの腕はまだ若い。そのかわり、屋根と板の始末が上手い。
雨が降ると、この男は必ず一度、手の甲を庇の外へ出す。
雨足を測っているのである。
「今日は、横から来ますな」
そう言って、どこかの板を打ち直す。誰に言われたわけでもない。屋の水仕舞いは己の役だと、この男は思っていた。
*
その日の夕である。
雨が、横から来た。
抜け口の一つ——いちばん西寄りの一つに、風がまともに当たった。吹き込んだ雨が壁を伝って落ち、竈の縁で音を立てる。
火が、寝た。
土間の若い者が舌打ちをした。
安蔵は、外へ出た。
出て、手の甲を庇の外へ出し、雨足を測った。それから納屋へ行き、板を一枚提げて戻ってくる。
梯子をかけた。
登って、西寄りの抜け口の前に、その板を当てる。斜めではない。真正面から、塞ぐように当てた。
釘を三本、打つ。
打ってから、下を見た。
彦太が、立っている。
「見とるか」
「……うん」
安蔵は、指を三本立てた。
「三つのうちの、一つでござんす。二つ、開いておりまする」
そう言って、笑った。
悪びれたところは、どこにもない。この男は掟を破ったつもりがなかった。火を守るために、一つだけ融通を利かせたのである。
なぜ三つでなければならぬのかを、この男は知らない。
彦太も、知らなかった。
*
彦太は、口を開きかけた。
開きかけて、閉じた。
その朝、同じ壁の下で三つでは足りぬかと訊いて、決まっとると返されたばかりである。決まっているものについて、もう一度何か言うだけの言葉を、この子は持たない。
そのかわり、帳場へ走った。
*
「佐介さま。柱の紙に、なんぞ、なんでとは書いてありませんのか」
「……なんで、とは」
「風の抜け口が、なんで三つなのか」
佐介が筆を置いたところへ、戸口から安蔵が首を入れた。肩の雨を払っている。
「佐介さま。西の口に、板を一枚当てましてござる。雨が、横から入りますで」
*
佐介は、土間の柱へ行った。
紙を、上から下まで二度読んだ。
風の抜け口を三つ、とある。
なぜ三つかは、書いていない。
塞ぐな、とも書いていない。
「……書いて、ござりませぬ」
彦太に、そう言った。
安蔵には、何も言わなかった。
そして荷の帳へ戻り、板のことは書かなかった。
*
――読むのが仕事の男である。書いていないものは、この男にも読めぬ。
書いていないことは、帳につかぬ。
*
その夜、火はよく立った。
湯の膜も、いつもの時分に出た。夜の組が入り、鞴の音が揃い、藤次が匙を握って湯の面を掻く。
戸は、開けてある。
掟である。
開けてあるのに、天井の低いところに、甘いにおいが溜まりはじめていた。
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■用語解説
・水無月…旧暦六月の異称。梅雨の最中にあたる。田に水を張る月とも、水の涸れる月とも解され、由来は定まらない。
・西宮…摂津の町。西宮神社の門前に町が育ち、有馬へ登る道と西へ下る道の交わるところとして人と荷が集まった。越水城の膝元にあたる。
・湯…溶けた金属を、鋳物や吹きの職人は「湯」と呼ぶ。湯の面に張る膜の色で火の頃合いを読むのが、頭の腕であった。




