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第14話(五)「山師の学問」

 ――皐月(五月)の、なかばである。


 紙が、山へ届いた。


 十二枚あった。


 彦太は坑口の日向にそれを並べて、朝から見ていた。石を四隅に置いて風で飛ばぬようにし、四つん這いになってのぞきこむ。紙は上等のもので、指の腹で触れると、村の帳面に使う紙とは音のたてかたが違った。


 字が、無い。


 書いてあるのは絵と、仮名かなと、数だけであった。仮名と数なら彦太も読める。


 柱が二本。上に横木。下にも横木。傍らに「四つ」とある。


 朔が地面に描いたものと、同じであった。


 ——同じ絵を、こんな紙に。


 彦太は、しばらくそれを見ていた。


 *


 唄にしたのは、その晩である。


 節は、父のものを借りた。


 沢西の田植唄である。父が生きていたころ、田のあぜで、いちばん先に唄いはじめるのが父であった。


 二本立てて 上に一本

 下にも一本 これで四つ


 翌朝、彦太は坑口でそれを唄った。


 誰も、聞かなかった。


 男どもはもっこを担いで、彦太の脇を通り過ぎていく。一人が背中を見もせずに「うるせえ」と言った。それきりであった。


 彦太は、三度唄った。


 三度とも、同じであった。


 *


 昼を過ぎてから、弥助が動いた。


 この男は、朝から彦太の並べた紙の前に立っていた。唄は聞いていない。紙だけを見ていた。それから雑木の山へ行って、細いのを四本選んで戻ってきた。


 一本を、地に寝かせた。


 その上に、二本を立てた。


 上に、一本を渡した。


 言葉は、一つも出さない。


 坑口の前でそれを見た六郎が、足を止めた。


「……なんだ、それは」


 弥助は答えない。


 六郎はしばらく突っ立っていた。それから、彦太のほうを向いた。


「先生。それが、その紙か」


「……うん」


 その日の夕方から、六郎が唄いはじめた。


 唄うというより、怒鳴るのである。


 二本立てて 上に一本ッ

 下にも一本ッ これで四つッ


 穴の中で、それが響いた。男どもがつられて手を動かした。この男の声には、そういうところがある。理は分からぬが、声だけは通るのだ。


 弥助が、彦太の脇を通りながら、一度だけ言った。


「唄は、いらん」


 *


 その唄を、松吉が途中で止めた。


 落盤の朝に掘り出された、あの若い男である。片方無くした草鞋わらじは、いまだに見つかっていない。


「なあ、六郎さん」


「なんだ」


「なぜ四つで留めるんで」


 六郎は、木を担いだまま振り返った。


「……あ」


 言いかけて、そこで止まった。


 止まってから、言った。


「そう決まっとる」


「……はあ」


 松吉は、それで納得したらしい。「はあ」と言ったきり、木を担いで穴へ入っていった。


 彦太は、答えを知っている。土が沈むからである。


 だが、六郎がもう次の唄を怒鳴りはじめていたので、言いそびれた。


 言いそびれた、と思っただけで、追いかけはしなかった。


 *


 木札を配りはじめたのは、そのすぐ後である。


 畚を一荷、坑口の外へ出すたびに、彦太が木の札を一枚渡す。


 札は、彦太が小刀で削った。雑木の枝を寸に切って、皮を落として、掌に納まるほどの平たいものにする。一人ずつ、縁の刻み目を変えてあった。


 六郎は二本。弥助は三本。松吉は一本と、斜めに一本。


 字が書けぬかわりである。


 彦太は札を渡すとき、指の腹で縁を撫でて確かめる癖がついた。二本なら六郎、三本なら弥助。撫でれば分かる。


 削りたての札は湿っていて、握ると掌に木の匂いが残った。


 それが、幾日か男どもの手を回るうちに、汗と土泥を吸って黒くなる。脂ぎって、指がすべる。


 札そのものが、働いた日数を持ちはじめていた。


 *


 最初の夕であった。


 飯場で、飯炊きの女が柄杓ひしゃくを持って立っている。


 男が一人、札を握ったまま、その前へ出た。


 女は、その手の中を指で追った。追ってから、椀に盛った。


 椀の縁が、高くなった。


 いつもの倍とは言わぬ。だが目に見えて、高い。


 列の後ろで、それを見ていた男が、己の懐へ手を入れた。


 入れて、札を出して、数えはじめた。


 ——木の切れ端が、飯になる。


 その夜、飯場は静かであった。誰も何も言わなかったが、翌朝の畚の出方が、前の日と違っていた。


 *


 三日目に、一人が畚を二度数えさせようとした。


 坑口の外へ出して、置いて、また担いで、列の後ろへ回ったのである。


 彦太が「それは、さっきの」と言いかけたところで、後ろから六郎が来た。


 来て、その男の耳をつかんで、引いた。


 男が声を上げた。六郎は放さない。


「札は、先生のものだ」


 それだけであった。


 その男は耳を押さえて、列へ戻った。


 彦太は、掌の札を見た。


 ——算えられねば、払えぬ。


 札を握るのは、彦太である。掘る腕はなく、この山の誰の身内でもなく、己は掘らぬ。掘らぬから、己の札を増やす気の起こしようがない。


 数えることしか、できなかった。


 その数えることが、いま、山を回している。


 はじめ、先生というのは嘲りであった。十二の子が鍬の持ち方を言うのが可笑しくて、男どもはそう呼んだのである。


 いつからそうでなくなったのかは、誰も覚えていない。


 六郎は、なぜ四つで留めるかを知らぬ。だが、札が誤魔化されれば己の分け前が薄くなることは、教えられずとも知っている。


 ——手は、欲で動く。


 ——けれど口から出るのは、決まりのほうじゃ。


 彦太は、そう思った。思ってから、それを言う相手がいないことに気づいた。


 *


 飯は、坑口から少し下りた飯場で出た。


 麦飯である。菜は塩と、川で採れたしじみの汁。夕になると、その汁の湯気と、男どもの汗のえた匂いとが、狭い小屋の中でひとつになった。


 女が、柄杓で盛る。右手の親指の爪が、縦に割れていた。


 盛る量が、男によって違う。


 多く出した者の椀は山になり、少ない者の椀は縁が見える。


 太一の椀は、いちばん低い。


 足を痛めてからは、坑口の外で縄をうくらいしかできぬ。縄では、札は出ない。


 女は、太一に盛るとき、目を合わせなかった。


 合わせないが、量は増やさない。一粒も、増やさない。


 太一も、何も言わなかった。


 *


 六郎は、誰よりも早く食う。食い終わると、椀の底を指でぬぐって、舐めた。


「先生よ」


「なんだ」


「おれは、字は覚えねえ」


「……うん」


「けど、この山に金気かなけの良い筋があると聞いた。当てりゃ、褒美が出るとよ」


 六郎は、そこで笑った。


「学問より、銭よ」


 彦太は、言い返さなかった。


 言い返す言葉が、なかったのである。唄も絵も、この男らの手を動かしはした。だが手を速くしているのは、椀の縁の高さと、まだ見ぬ褒美のほうであった。


 正しいことが、そのまま人を動かすのではない。


 欲に載って、はじめて土に着く。


 松吉が、麦を口へ運びながら言った。


「おら、当てたら村へ帰るだ」


「帰って、どうする」


「田を買う」


 彦太の椀は、いちばん小さい。


 札を持たぬからであった。彦太はそれを当たり前の顔で食う。


「先生の椀は、小さいのう」


 松吉が言った。


 六郎が、己の椀から麦をひとすくい、彦太の椀へ移した。


「食え」


 理は分からぬが、情は分かる男であった。


 *


 坑口の脇に、籠が一つ吊るされた。


 中に、若鶏わかどりが一羽入っている。


 奥の枝坑へ行く者が、その籠を提げて入り、出るときに連れて出る。掟である。


「鳴きやんで落ちたら、みな出よ」


 彦太はそう教えた。


 なぜ鳥が落ちると出ねばならぬのかは、彦太も知らぬ。教えられたとおりに言っただけである。


 男どもも、訊かなかった。


 *


 皐月の末は、雨が続いた。


 坑の中の水が増える。低いほうへ流れる水を一つのくぼみに集めて、桶で汲み上げる。


 水は低きへ 窪みに溜めて

 溜めたら汲め 汲んだら捨てよ


 その唄も、六郎が怒鳴った。


 雨のあいだに、留木を一組ぶん省いた者が出た。


 太一である。


 足を庇いながら、それでも穴へ入るようになっていた。木を伐って、運んで、組むあいだは畚が出ない。畚が出なければ、札が増えぬ。


 彦太は、その前へ行った。


 行って、太一を見た。


 痛む足を庇うために、この男は立つ前に必ず膝を一度叩く。その癖がついたのは、この半月のことである。飯場での椀の縁も、彦太は毎晩見ている。


 ——おらの札が、この人を痩せさせとる。


 そう思った。


 声が、一度、鈍った。


 それでも、唄った。


 二本立てて 上に一本

 下にも一本 これで四つ


 太一は、彦太を見た。


 見て、舌打ちをして、雑木を伐りに行った。


 叱ったのではない。叱れば、この子の言うことなど誰も聞かぬ。だから唄ったのである。


 ——欲は、掘らせる。


 ——けれど、欲は、掟も削る。


 彦太は、掌の札を握った。


 *


 皐月の晦日みそか


 坑口の前に、その月の袋が並んだ。


 底が、透けていない。


 先月まで、袋を持ち上げて日にかざせば、底のあたりから向こうの光が見えた。それが、見えなくなっている。ただ、それだけの違いであった。


 袋は、荷駄に積まれて西宮へ回る。あちらの吹屋で炉に入り、銅になり、銭になる。貧しい山ではあるが、掘った分だけは、ちゃんと銭に化けていた。


 だが、それだけの違いのために、天井が一つ落ちて、越水から人が来て、紙が十二枚来て、田植唄が穴の中で鳴ったのである。


 学問が、石を掘った。


 *


 夕日が、猪名川の水面を割っている。


 六郎が、掘り出した石の粉を掌で吹きながら、隣に座った。


「……なあ、先生よ」


「なんだ」


「俺たちゃ、どこの山へ行くために、仕込まれてるんだ」


 彦太は、答えなかった。


 答えられなかったのである。


 川のほうから、風が上がってきた。皐月の風は、まだ湿っている。


 *


 その夜、越水では、久秀がともしの下で紙を繰っていた。


 墨を下ろす。


 描いているのは、柱の絵であった。


 彦太の口上を、使いの者が覚えて帰ってきた。それを聞き取って、久秀が己の手で紙に移している。祐筆を遣えば早い。早いが、遣らぬ。


 線が、曲がる。


 字を書くときの筆は紙の上を滑るが、絵を引くときの筆は引っかかる。同じ筆で、同じ紙で、こうも手ざわりが違うということを、この男はこの夜はじめて知った。


 指の腹が、墨で黒くなっていく。


 拭かない。


 一行の乱れも許さぬと言われた祐筆の指である。その指が、山の穴に嚙ませる木の絵を引いて、汚れていく。


 久秀は、拭わずに次の紙を引いた。


 *


 引きながら、この男は一度、口の端を歪めた。


 使いの者が、山の様子を話していったのである。


 木の札を配ったら男どもが競って掘りはじめた。掘った数だけ飯の椀が高くなる。頭の一人が言うには、学問より銭よ、と。


 ——学問より、銭よ、と申したか。


 久秀は、筆を止めなかった。


 止めずに、そう思った。


 極楽は銭で作れると言ったのは、この男である。座敷でそれを言ったときには、聞いていたのは小僧一人であった。それが、いま、猪名川の下の穴の底で、名も知らぬ荒くれの口から同じことが出ている。


 ——同じ理屈で、動いておるわ。


 歪んだのは、それきりである。


 久秀は、あかつきまで描いた。


 十二枚。


 字は、一つもない。


 *


 書き終えて、久秀は帳面を引き寄せた。


 一、古間歩 枝坑一ツ 落ツ  ――死人 無シ。指ノ骨 二本

 ――後日、捨石ニテ 一人 足ヲ 挟ム

 一、採掘ノ奥義目録  ――去年八月ニ 三点ニテ

 ――開ケバ 品ノ名バカリ。中身ハ 別売リ

 ――買ウタ日ニハ 紙デアッタ。今日モ マダ 紙デアッタ

 一、小僧ヲ 山ヘ遣ル  ――去年ノ約ニ従イ、我ガ馬ノ届ク内

 ――穴ノ中ノ木ト土ハ、マダ来ヌ世ノ事ニ 非ズ。点ハ 動カズ

 一、写シ 十二枚  ――我ガ手ニテ。字ハ 書カズ

 一、木札 布ク  ――畚一荷ニ 一枚。刻ミ目ヲ 印トス

 ――算エルハ 掘ラヌ者ニ 限ル

 一、掛ケ目 布ク  ――椀ノ数ト、褒美ノ銭。銭ハ 銅ノ売上ヨリ

 一、出鉱  ――袋ノ底、透ケズ。西宮ヘ 回ス

 一、山師 育チツツアリ  ――サレド、掘ル山ハ 未ダ 無シ

 一、古間歩  ――試シ済ミ次第 埋メル。木ハ焼キ、穴ハ落トス

 ――連レテ出ルハ 人バカリ


 一、崩落防止「枠組壁」工法・毒気検知「小鳥の炭鉱夫」・事故防止の作法

 〆て 二点  ――正価 五点

 一、借入 二点  ――二年にて返す

 残り 三点


■用語解説

木札きふだ…掘り出した荷の数を算えるために渡す木の札。字の読めぬ者が多い現場では、札に刻んだ切れ込みの数や形が持ち主の印を兼ねた。紙の帳面が行き渡らぬ場では、こうした物そのものが台帳の役をつとめた。

山師やまし…鉱山の見立てと採掘を業とする者。石の色や草木の生え方から鉱脈を読む目利きを指したが、当たれば巨富、外れれば無一文という博打の色が濃く、のちに「山師」が投機家や詐欺師の意で使われるようになったのはこのためである。

田植唄たうえうた…田植えの手順と拍子を揃えるために歌われた作業唄。節に乗せることで、字の読めぬ者にも長い手順が覚えられる。農以外の作業に転用されることもあった。


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