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第14話(四)「山師の学問」

 ――皐月(五月)の、なかば。越水である。


 宿直とのいの長屋へ戻ったのは、日が落ちてからであった。


 朔が板戸を開けると、もう玄斎が坐っていた。


 朽木くちき玄斎という。総白髪の、ひょろりと背の高い老人である。念流ねんりゅうを遣う。もとは細川高国に仕えた武士であったが、主家が滅んでからは忠義というものを捨てて流れ歩き、いまはこの童の脇にいる。


 越水の城で、このわっぱが素で口をきく相手は、この男ひとりであった。


「遅い」


「山じゃ」


「知っておる」


 玄斎は、竹の皮を膝の前で開いた。焼いた餅が二つ並んでいて、まだ湯気の名残があった。


「食え。腹が減っては、字も曲がる」


 朔は坐って、餅を一つ取った。


 かじる。


 玄斎は朔の顔を見ていた。見ながら、腰のひさごを傾けて己の茶碗に酒を注いだ。


 一口飲んで、それから言った。


「……只で、くれてやったな」


 朔の口が、止まった。


「聞いてもおらんのに、よう分かるな」


「顔じゃ」


 玄斎は、茶碗を置いた。


わしはな、朔。銭の話は苦手じゃが、只でくれてやった男の顔なら、いやというほど見ておる」


 *


 朔は、餅を飲み込んだ。


「……人が、足を挟まれた」


「ふむ」


「彦太が、俺に詰め寄った。分かっとったなら、なんで言わねえ、と」


「……沢西の伜が、な」


 玄斎の口の端が、わずかに動いた。


「言うたか」


「言うた。夜通し、みな言うた」


「そうか」


 玄斎は、それだけ言って、また酒を飲んだ。


 朔は責められるものと思っていたし、責められたら言い返す言葉も道々こしらえてきたのだが、この老人は責めなかった。


 責めずに、別のことを言った。


「城はな」


「……城」


「一度でも門を開けて中を見せると、次からは、門が無いものと思われる」


 朔は、顔を上げた。


「相手が悪いのではない。門が開いておるのが悪いのでもない。開けても何も起こらなんだ、というのが、いちばん悪い」


 玄斎は、指で床を一度突いた。


「一度目が只なら、二度目も只よ。三度目には、只でないほうがとがになる。……そこまで行ったら、もう戻れん」


「……」


「向こうは、覚えたであろうな。今日ので」


 朔は、答えなかった。答えなかったことが、答えであった。


 *


「情を捨てよとは、言わん」


 玄斎が言った。


 朔が目を上げると、老人は餅のほうを見ていた。


「捨てられんじゃろ、お主は。捨てられんものを捨てよと言うのは、腹の足しにもならん説教よ」


「……なら、どうせいと」


「値をつけよ」


 朔は、玄斎を見た。


「情に、値をつけよ。只にするな。安うてもよい。ただし、只にするな」


「……値がつけば、なんじゃ」


「取引になる」


 玄斎は、そこで初めて朔のほうを向いた。


「取引になれば、相手はお主を勘定に入れる。勘定に入っておる者は、そう易々とは捨てられん。……只でくれる者は、勘定に入らんのじゃ。空から降る雨と同じでな」


 朔は、餅の残りを見ていた。


 もう湯気は立っていない。


 玄斎は立ち上がって瓢を腰に戻し、板戸に手をかけてから、思い出したように振り返った。


「あの男はな、朔」


「……」


「手強く、貪欲だ」


 戸が、半分開いた。


「食われぬようにな」


 出ていった。


 *


 朔は、しばらく坐っていた。


 ——只にするな。


 只でなければ、売るのか。だが売れば、点を取ることになる。点を取れば、穴の中の木と土まで「まだ来ぬ世のこと」に見えてくる。それは筋が違う。己で引いた線を、己で崩すことになる。


 売るのでもなく、只でもなく。


 朔は、膝の上の手を見た。


 ——貸す。


 そう思いついたのは、餅の油が指に残っているのに気づいたときであった。


 貸せば、返ってくる。


 返ってくるまでのあいだ、こちらは貸主である。貸主は、勘定に入る。入っているあいだは、捨てられぬ。


 朔は、立ち上がった。


 *


 翌る夜であった。


 帳面の間に通されて、朔は久秀の前に坐った。


 久秀は筆を置かない。置かぬまま、目だけを上げた。


「山は、どうであった」


「殿。あの山に、買うていただきたいものがございます」


「ほう」


「弥生に、西宮で人がひとり死にましてございます」


 久秀の筆が、止まった。


「……あのとき申し上げました。急がせても死なせぬ工夫、と」


「あれは、点をいただかずにお渡ししたものにございます。……いまさら値を申しませぬ。なれど、あの掟は吹屋のものにございました。山には、山の掟が要ります」


「掟」


「掛け目をけば、人は急ぎまする。急げば、死にまする」


 久秀は、筆を置いた。


「三つ、ございます」


 *


「一つ。崩れ止め。四角に木を組んで、掘った跡を埋める工法にございます」


「三点であったな」


「はい」


「二つ目は」


「毒気読み。籠に若鶏を入れて、坑の奥へ提げて参ります。鳥が鳴きやんで落ちましたら、毒気にございます。人より先に、鳥が知らせまする」


「……鳥が」


「一点」


「三つ目」


「指して、声に出す掟」


 久秀の眉が、わずかに動いた。


「留木を組んだら、指をさして、声に出す。四つ留めた、と。風の口を開けたら、指をさして、声に出す。……字の読めぬ者に、間違いを見つけさせる工夫にございます。一点」


 朔は、そこで指を三本、順に折った。


「崩れ止め。毒気読み。指して、声に出す掟。——合わせて、五点にございます」


 *


 久秀は、笑わなかった。


 笑わずに、しばらく朔を見ていた。目を細めるでもなく、値踏みをするでもなく、ただ見ていた。


「買わぬ」


「……殿」


「吹き大工は、惜しい」


 久秀は、机の端の石を指で押した。あの黒ずんだ石が、まだそこに置いてある。


「鉛と炎から銀を絞る技は、覚えるのに十年かかる。宇之吉の代わりは、十年待たねば出てこぬ。ゆえに、あれは惜しい」


「……」


「土を掻くのに、十年は要らぬ」


 石が、机の上で少し動いた。


「荒くれは、惜しくない。この飢饉の世に、人足は湧いて出る。門の外へ出てみよ。飯を食わせると言えば、明日には三十人並ぶ」


「殿」


「並ばぬと思うか」


「……並びまする」


 朔は、それを認めた。認めたうえで、続けた。


「なれど殿。並ぶのは、人足にございます」


「同じであろう」


「違いまする」


 朔は、膝の上で背を伸ばした。


「掘り方を覚えた者は、湧いて出ませぬ」


 *


 久秀は、答えなかった。


 答えぬそのわずかなあいだに、この男の胸のうちを、一つの引っかかりが通り過ぎていった。


 ——湧いて出るものに。


 なぜ、己は飯を食わせている。


 なぜ、九ヶ月前に三点を出し、絵を描かせ、十二の子を寄越し、この夜、山の話でこうして手を止めている。


 湧いて出るものであれば、育てる必要はない。


 久秀は、その引っかかりを、そこで断ち切った。


 断ち切ったのは、認めれば値がつくからであった。認めた途端に、この小僧は「では、その者どもを死なせぬ掟にございます」と言うであろうし、言われてしまえば、五点を払うほかなくなる。


「くどい」


 久秀は、そう言った。


 短く、切るように言った。


 ——撥ねたのは、この小僧が正しいからである。


 そのことを、この男は承知していた。承知したうえで、撥ねた。


 *


 朔は、引かなかった。


 引かずに、少し首を傾げた。それから、静かに言った。


「……ならば、点を貸しまする」


 久秀の顔が、動いた。


 この夜、この男の顔が動いたのは、そこ一度きりである。


 目が細くなって、それから元へ戻った。戻るまでのあいだが、いつもより長かった。


 ——貸せるのか。


 貸せるということは、いま無いものを、この小僧の手心一つで、いま有らしめられるということである。


 ならば。


 ——増やせるのだな。


 久秀は、その考えを口にしなかった。紙にも書かなかった。書かぬと決めたことは、この男は決して書かぬ。


「……貸すと申したか」


「はい」


「幾ら」


「一点。それで、足りまする」


 久秀は、指で机を一つ打った。


「二点、貸せ」


「……殿」


「一点で足りるものを、一点だけ借りる者はおらぬ。足りるところで借りれば、次に足りぬ日が来る」


「……」


「それから、五点の品は、二点にせよ」


 朔は、目を伏せた。


 伏せたまま、息を一つ吐いた。


 長くはない。半分ほど吐いたところで途中で止めたような、短い息であった。


「——二年にて」


 顔を上げて、そう言った。


「二年にて、返していただきまする」


 久秀は、束の間、朔を見た。


「……よかろう」


 *


 証文は、作らなかった。


 どちらも、言い出さなかったのである。


 ——返さねば、次が来ぬ。


 久秀は、そう算えていた。この小僧が持っているものは、蔵にも土にも化けぬ。返さぬ主に、次を出す者はない。ゆえに証文は要らぬ。要らぬどころか、証文を書けば、書いたものが残る。


 残るものは、いつか誰かに読まれる。この春、書役の袖へ紙が一枚入ったことを、この男はまだ知らぬ。知らずとも、そのくらいのことは骨に染みていた。


 久秀は、帳面を引き寄せた。


 *


「殿。もう一つ、申し上げます」


「まだあるか」


「あの山に、四角の組木を入れ、鳥の籠を提げ、指して声を出させれば……見た者は、覚えまする」


 久秀の筆が、止まった。


「山には、他所の者も参ります。木を売りに来る者、塩を売りに来る者。見れば、真似られまする」


「…………」


「富を生む山は、人の目につきまする。前にも、申し上げました」


 久秀は、筆を持ったまま、しばらく動かなかった。


 それから、言った。


「潰す」


 朔が、顔を上げた。


「は」


「試しが済んだら、埋める」


 久秀は、事もなげであった。


「木は焼く。穴は落とす。跡には土を戻して、草を生やす。三年もすれば、誰も、そこに穴があったとは思わぬ」


「……あの山を、でございますか」


「あの山は、山ではない」


 久秀は、そこで初めて筆を置いた。


「稽古場よ」


 朔は、何も言えなかった。


 十四人が飯を食い、指を折り、背を擦り剝いて掘っている、あの穴。掘れば石が出て、その石は西宮へ回って銭になる、あの穴。


 あれを、跡形もなく埋めてしまうと、この人は事もなげに言っている。


「……人は」


 朔が、そこだけを訊いた。


「連れて出る」


 久秀は言った。


「連れて出るは、人ばかりよ」


 そして、この男は最後にこう言った。


「痕が残るのは、物ではない。……人よ」


 *


 廊へ出た。


 夜の風が、袖の中へ入ってくる。


 朔は、二歩ばかり歩いて、立ち止まった。


 膝の脇に垂れていた手が、勝手に握られていた。


 ——なぜ、握った。


 勝ったのではない。値は叩かれ、要らぬ一点まで貸すことになった。


 負けたのでもない。


 二年のあいだ、あの人は己に借りがある。借りのある者は、貸した者を捨てぬ。


 二年、生きる算段がついたということであった。


 朔は、握った手を開いた。


 掌が、温かい。


 なぜ温かいのかは、この子にも分からなかった。



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