第14話(三)「山師の学問」
――皐月(五月)の、なかばである。
朔が、山へ来た。
馬には乗らず、供も連れず、継ぎの当たった小袖に脚絆をつけただけの姿で、背には何も負わずに歩いてきた。
坑口の前で、荒くれどもがそれを見た。
「……なんじゃ。もう一人、来たか」
六郎が鼻で笑った。十二の子の次は十三の子である。この山へ寄越されるのは、どうやら子ばかりであるらしい。
彦太が駆けた。
「朔殿」
「彦太」
それだけであった。二人はしばらく黙って向かい合って、それから朔が坑口のほうを見た。
「……入っても、よいか」
*
灯の油皿を一つ提げて、朔は穴へ入った。
彦太が後ろについた。
中は暗い。皿の火がまわり一間ほどをぼんやりと照らすだけで、その外はもう何も見えぬ。土と、鉄気の水の匂いがした。
朔は、言葉を出さなかった。
留木のところで立ち止まって、手を当てる。押す。上から下へ、掌の腹で撫でていく。それから顔を寄せて、木と土の合わせ目を見た。
天井の土を、掌でひと撫でする。
指を離して、指の先を見た。
奥へ進む。落ちた枝坑のところで、また止まった。掻き出した土がまだ積んである。その土の斜面を、朔はしゃがんだまま、裾のあたりから天井の落ち口まで、ゆっくりと下から上へ目で追っていった。
彦太は、火を持って立っていた。
朔が何も言わぬので、こちらからも何一つ訊けぬまま、揺れる皿の火が師の横顔を照らしたり陰にしたりするのを、ただ見ていた。
四半刻ほどいて、二人は外へ出た。
*
外の光が、目に痛い。
朔は坑口の脇にしゃがんで、落ちていた枝を一本拾った。
地面の土を、枝の先で均す。
きゅ、と土が鳴った。
「彦太」
「うん」
「見ておれ」
枝が動いた。
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──┴───┴──
「柱が、二本」
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──┴───┴──
「上に、一本」
そこで枝が下へ降り、柱の足の下に、もう一本を引いた。
「下にも、一本」
「……下にも」
「土に足を立てれば、土が沈む。沈めば柱が傾く。傾けば上の木が外れる」
朔は枝の先で、下の一本を二度叩いた。
「四つで、留める」
彦太は、口の中でそれを繰り返した。柱が二本、上に一本、下にも一本、これで四つ。四つ、四つ、と繰り返しているうちに、覚えようとする口のほうが先に走って、勝手に節がついた。
——沢西の、田植唄。
父の節である。
彦太は、絵を見ながら、口の中でその節を探しはじめていた。手順の長い仕事も、節に乗せてしまえば、字の読めぬ者の体に残る。父はそうやって、村の年寄りにも子供にも田を教えたのである。
朔は次に、風の絵を描いた。
穴の口から入って、奥を回って、別の口から出ていく線である。線の先に、矢のかたちをつけた。
「風の道を、一本通す。灯が細るところは、風が死んでおる。死んでおるところへ、人を入れるな」
「うん」
朔は、そこで枝を止めた。
顔を上げて、少し離れたところを見た。
坑から掻き出した石と土を積み上げた山——捨石の山である。雨のあとで、裾のあたりが黒く濡れていた。
朔は、それを見た。
見て、目を伏せた。
枝の先が、地面から浮いたまま、しばらく動かなかった。
それから、また土に降りて、別の絵を描きはじめた。水の絵である。
彦太は気づかなかった。
覚えるのに、いそがしかったからである。
*
その日の、昼過ぎであった。
太一という男が、畚を担いで捨石の山を登った。
上まで運んで、空ける。それだけの仕事である。この男はいつもそうしていたし、他の者もそうしていた。
雨で緩んだ裾が、抜けた。
石が、上から下へ流れた。音は、思ったより小さい。ざあ、と砂の落ちるような音が短くして、それで終わってしまった。
太一は、腰から下を石に埋められて、坐り込んだ形になっていた。
男どもが走った。
石を退けるのに、そう手間はかからなかった。膝から下が挟まれていて、引き出したときには、脛のあたりが黒紫になっていた。
骨は、折れていない。
だが両脇を支えられて立とうとしたところで、太一は膝から崩れて、また土の上へ坐り込んだ。
「……当分は、駄目じゃな」
六郎が言った。
太一は、己の脛を見なかった。
首をめぐらせて、斜面のほうを見ている。
「……こぼれた」
そう言った。
畚のことである。
彦太は、その一言を聞いた。
脛が黒紫になっている男の口から先に出たのが、己の足のことでも痛みのことでもなく、こぼれた石のことであった——それがなぜだか、背中を寒くした。
*
朔が、そばへ来て、脛を見ていた。
見て、立ち上がった。
彦太は、そのとき思い出した。
——朔殿は、あの山を見た。
枝で絵を描いているとき、この人は捨石の山を見た。見て、目を伏せて、枝を止めた。止めてから、水の絵を描いた。
捨石のことは、一言も言わなかった。
彦太は、朔の袖をつかんだ。
「朔殿」
「なんだ」
「……あの山のこと、分かっとったのか」
朔は、答えなかった。
「積み方が、いけんのじゃろう。雨で緩むと、抜けるんじゃろう。分かっとったのか」
「…………」
「なら」
彦太の声が、そこで一度切れた。
切れてから、出た。
「なら、なんで言わねえ」
*
川べりであった。
夕方の風が、川下から上がってくる。二人のほかには誰もいない。
朔は、膝の上の手を見ていた。
その手が、一度、握りかけた。
握りかけて、やめた。
「……いっぺんに、みな言うてしもうたら」
「なんじゃ」
「次に、何を言うたらよいか、分からんようになる」
彦太には、通じなかった。
「分からん」
「……そうじゃろうな」
朔は、それきり黙った。
彦太は待った。待ったが、いつまでも何も出てこないので、しまいに腹を立てて立ち上がった。
「おらは、六郎に言われた」
「……何と」
「なら、なんで言わねえ、と」
朔の顔が、上がった。
上がって、彦太を見た。だが彦太は、もうそっぽを向いている。
「おらは、言えんかった。分からんかったからじゃ」
彦太は、そこまで言って、声を落とした。
「朔殿は、分かっとった」
そして、行ってしまった。
*
朔は、川の面を見ていた。
——出せば、減る。
減るのは、知恵ではない。頭の中のものは、いくら出しても減らぬ。
減るのは、まだ言うていないことである。
まだ言うていないことの分だけ、この身は要る者でいられる。要る者でいるあいだは、殺されぬ。それだけが、この見知らぬ世でこの身が立っている、たった一枚の足場であった。
そして今日、それが一つ、崩れた。
穴の中へ入って、木を押して、土を撫でて、地面に絵を描いた。あれは書付ではない。点にもならぬ。ならぬと承知のうえで、あの人は己を山へ寄越したのである。
——買わずに、済ませられる。
そう気づかれた。
気づかれたということは、これから先も、同じ手を使われるということであった。
朔は、立ち上がった。
*
その晩、飯場の土間で、朔は残らず言った。
捨石は水の抜ける置き方にすること。裾を踏み固めること。雨のあとは登らぬこと。
坑の水は低いほうへ集めて、窪みを掘って溜め、桶で汲み上げること。
風の口を二つ作ること。
灯が細ったら、それより奥へ行かぬこと。
荒くれどもは、はじめは聞かなかった。だが六郎が「おい」と一声出してからは、飯を食う手を止めて、みな黙って聞いた。彦太は、土間の隅で膝を抱えたまま、一言も聞き洩らすまいという顔で聞いていた。
朔は、二刻ばかり喋った。
——ここまで言うたか。
言いながら、朔は己が何を減らしたかを算えていた。算えながら、口だけは動いていた。
そして、紙には一字も書かなかった。
書けば、売り物になるからである。




