第14話(二)「山師の学問」
――同じ日の、夜である。
越水城の帳面の間に、松永久秀がいた。
古間歩の使いが門で水を飲んでいるあいだに、話は次の間まで届いていた。報せを聞いても、この男の顔は動かない。動かぬまま、手のほうが先に動いた。
反故を一枚引き寄せて、筆を執る。
書いたのは、弔い金の額であった。
弥生に、西宮の吹屋で吹き大工の頭を一人死なせている。宇之吉という男であった。あのとき幾ら出したかを、久秀は覚えている。覚えているどころか、渡した銭の紐の色まで覚えていた。人の値を一度でも算えた男は、それを忘れられぬものらしい。
二人ならば、いくら。
指を折らずに算えて、久秀は数字を書いた。
「——死人は、無いと申したか」
「ございませぬ。指の骨が二本と、背の擦り傷のみと」
久秀は、書いた紙を伏せた。
伏せて、そのままにした。破りはしない。この男は、一度書いたものを捨てぬ。
伏せた紙の下から、別の帳面を引き出した。
銅の売り上げの帳面である。西宮で吹き上げた銅は、荒銅より澄む。澄んだ銅は鋳物師がほしがる。ほしがるから、値がつく。その値の入るところが、この帳面であった。
——これは、殿の帳面には載らぬ。
載せていない。三好の蔵を通らぬ銭が、この年から、細く流れはじめている。
久秀は、その細い流れを見た。
見て、指で、一度なぞった。
*
小者が、膝でにじり寄ってきた。
懐から、布に包んだものを出す。開くと、石が一つ出てきた。
拳より少し小さい。黒ずんで、ところどころが赤く錆びたようになっている。手に取ると、思ったよりも重かった。
「山の者が、これをお目にかけよと」
「これは」
「今月の、良いほうにございます」
小者は、そこで言葉を切った。切ってから、言わずにおけばよいことを言った。
「……これで、あの騒ぎでございます」
久秀は、答えなかった。
答えずに、下がれと手で示した。
小者が去ったあと、石は机の上に残った。
*
久秀は、帳面の底へ手を入れた。
底に、束が一つ沈んでいる。
去年の八月に買ったものであった。あのとき卓の上に並んだ品書きの中から、田の実りと、銅の吹き方と、人の名簿と、この一束を選んだ。三点である。
「採掘の奥義目録」という。
紐を解く。
——ほう。
久秀は、めずらしく、声にならぬ息を吐いた。
書いてあるのは、品の名であった。
崩れ止め 四角の組木
毒気の告げ 小鳥
水銀合わせ
水の汲み上げ 螺旋の筒
名が、並んでいる。その下に、二行か三行の口上がついていた。どういうものであるか、何の役に立つか。それだけである。
肝心の、どう組むか、どう掘るかは、どこにも書いていない。
久秀は、束を最後まで繰った。繰って、また初めへ戻した。
——目録である。
目録であった。
あの小僧は、はじめからそう言っていた。奥義の目録、と。目録とは、品の名を並べたものである。呉服屋の見立て帳と同じで、名と値は載っているが、反物そのものは載っていない。
三点で買ったのは、品書きの品書きであった。
久秀は、腹を立てなかった。
——聞き方が、甘い。
そう算えただけである。この男は、他人の売り方を咎めるより先に、己の買い方を咎める。腹を立てるのは、値を取り返せると思っている者のすることであった。
「……買うた日には、紙であった」
声に出してから、続けた。
「今日も、まだ紙よ」
*
各論の値は、束の終いに書き添えてある。
崩れ止め、四角の組木——三点。
久秀は、机の上の石を見た。
黒ずんだ、貧相な石である。あれで人が二人埋まりかけ、指が二本折れた。
石と、三点。
——買える。
残は三点であった。ちょうど、出せる。
だが出せば、八月が崩れる。八月には灰吹きと骨灰を並べて買うと決めてある。あれは銀そのものを絞る技で、遅らせれば、この一年の絵図が丸ごと後ろへずれた。
それに、と久秀は口上を読み返した。
——掘った跡の大きな洞を、木で四角に組み上げて埋める。
洞。
あの穴に、洞などない。人が屈んで進むほどの細い枝坑である。四角に組んで埋めるほどの空は、掘り出しようがなかった。
これは、もっと大きな山のための品である。
そこまで算えて、久秀の指が止まった。
止まって、机の上の石から離れた。
——四角の組木で埋めるほどの、洞。
猪名川をさかのぼった先に、そういう山が一つある。まだ他人のものだが、帳面の上ではもう己の側に寄せてある山であった。
あの山なら。
——木を、何百本呑むか。
久秀は、その勘定を途中でやめた。やめたのは、やめねば朝まで算えていることになるからである。
「買えると、買う時であるとは、別のことよ」
誰にともなく、そう言った。
*
では、どうする。
読める者は、山にいない。十四人と、頭が二人。彦太が仮名と数を追えるだけである。祐筆を一人遣れば読めるが、読んだ者は覚え、覚えた者はいつか他所で口を利く。
久秀は、灯の油皿の芯を見た。
見ながら、去年の弥生の座敷を思い出していた。
山の品書きを買った夜である。あの小僧が、各論を買うたときは山へ同行させてほしいと言った。穴の中は書付では見えませぬ、と。
そのとき、己は何と答えたか。
——わしの馬の届く内にある山にかぎる。
そう答えた。囲うために付けた枷である。この小僧は、城下より外へは久秀の許しがなければ一歩も出られぬ。その縄を少しだけ緩めてやる形にして、実は縄の長さを己で決めたのであった。
久秀は、油皿から目を離した。
——あの枷は、こちらからも引ける。
引けば、小僧は穴の中に立つ。
穴の中に立った小僧が、黙っていられるはずがなかった。あれは人が死ぬのを嫌う。嫌うくせに、嫌う理由を商いの言葉に包む癖がある。包んでも、中身は変わらぬ。
そして——と久秀は算えた。
穴の中の木と土は、まだ来ぬ世のことではない。
いま、そこにある木である。いま、そこにある土である。それを見てあれが何と言おうと、それは目利きであって、書付ではない。
点は、動かぬ。
久秀は、筆を執った。
*
翌朝、表の廊で朔を呼び止めた。
朔は書付の束を抱えて、目礼をした。
「殿」
「明日、古間歩へ参れ」
朔の顔が、動いた。
ほんの少しである。目のあたりが一度だけ開いて、それから、慌ててそれを畳んだ。
「……よろしいので」
「わしの馬の届く内、と言うたのは、わしよ」
朔は、頭を下げた。
下げた背中が、いつもより軽い。あの子は喜んでいる、と久秀は思った。城の内にばかり置かれている者が、外へ出る用を貰ったのである。喜ばぬはずがない。
——喜ぶであろうとは、思うておった。
思うたうえで、遣るのである。
久秀は、廊を先へ歩いた。
歩きながら、己の胸のうちを一度だけ覗いた。覗いて、そこにあったものに、格別の名を付けなかった。
名を付ければ、厭になる。
厭になれば、手が鈍る。
胸のうちに名を付けぬということを、この男はもうずいぶん前から覚えていた。




