第14話「山師の学問」(一)
――天文十年(一五四一)皐月(五月)。
猪名川の水は、朝のうちだけ白い。
その川から少し上がった山の腹に、古間歩の坑口がある。細く、貧しい、古い穴であった。掘り尽くされたと言われて久しく、二十年ほどは誰も入らずに口が草へ埋もれていたのが、去年の冬から人の出入りするようになった穴である。
十四人。
彦太は毎朝、その数を口の中で数える。朝に数えて、日の落ちてからもう一度数える。数が合えば、それでよい。合わぬ日のことは、まだ考えたことがなかった。
穴の口から、風が出てくる。土と、灯の油と、鉄気の水のまじった風で、外を吹いている風とは匂いがまるで違う。彦太はこの匂いを、嫌いではない。
「先生よ。今日は東を伸ばすで」
六郎が言った。もと足軽くずれの男で、左の耳が潰れている。先生、というのは嘲りである。十二の子が村から寄越されて、鍬の持ち方だの土の返し方だのを男どもに言うのだから、そう呼ばれるのが道理であった。
「東は、どこまで」
「石の色が変わるまでよ」
彦太は返事をしなかった。返事のしようが、なかったのである。
東の枝坑は、先月から掘りはじめたものであった。鉱の筋を探して、本坑から横へ細く伸ばしていく。急ぐから細い。細いから早い。早いから、また伸ばす。留木は、その日に伐ってきた雑木を、寸法も見ずにその場で嚙ませてあるきりであった。
彦太はそれを、危ういと思っていた。
思っていたが、何がどう危ういのかを言えなかった。
坑口から、弥助が出てきた。
四十がらみの、痩せて背の高い男である。もとは石切り場にいたというが、その頃のことをこの男が喋るのを、彦太はまだ一度も聞いたことがない。
出てくる前に、坑口の縁で一度、足を止めた。
指先で、壁の土に触れる。それから掌を当てて、しばらくそのままでいた。
何も言わずに、外へ出てきた。
手の石を、いつものように爪で一度弾いて、音を聞く。それから坑口の脇の日向へ寄って、腰を下ろした。
「弥助。掘らんのか」
彦太が訊いたが、返事はない。この男は、めったに口をきかなかった。
*
音は、木からした。
きい、と鳴った。子が笑うような、細い音である。
彦太は坑口の外で畚の縄を結んでいた。手が止まった。次に鳴ったのは、もっと低い音であった。木が、たわむ音。
穴の中で、誰かが何か叫んだ。
その声のしまいまで、彦太は聞いていない。
どう、と土が落ちた。
坑口から土埃が噴き出して、日の光が白く濁った。
*
「東だ、東の奥ッ」
六郎が怒鳴った。
怒鳴りながら、男どもを三つに割った。
「五人は前を掻け。あとの五人、後ろへ土を送れ。おい、そこの三人は板だ、板を持って来い」
語尾が短い。切って、投げるような言い方である。この男が陣で覚えたのは、たぶんこの声の出し方だけであった。
男どもは走った。走って、穴へ入って、手で土を掻いた。鍬は二丁しかなく畚は四つしかないから、あとは掌であった。爪が割れ、指の腹から血の滲むのを、誰も見ずに掻いている。
土埃は、外よりも中のほうが濃い。
掻けば掻くほど舞い上がって、口の中へ入った。噛むと、じゃりと鳴る。唾を吐いても、しばらくすると、また鳴った。
出てくる男が、みな同じように口の脇を拭っていた。
彦太は入れなかった。
入っても掻く力がない。十二の子の手では、土は動かぬ。だから外に立って、出てくる者と入っていく者を数えた。
穴の中から、土を積んだ畚が出てくる。出てくるたびに外の者がそれを受けて、斜面まで運んで空けにいく。空けて戻ってくるまでのあいだ、坑口には誰もいなくなった。
その、誰もいない短いあいだが、彦太にはいちばん長かった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
口の中で数えた。父が死んでからの癖である。何をしてよいか分からぬときに数を数えていれば、手の空いていることだけは忘れていられた。
六郎の声は、途中から嗄れた。嗄れても、切り方は変わらなかった。
四半刻であった。
*
先に松吉が出てきた。
若い男である。背中の皮が擦り剝けて、土と血とで泥のようになっているのを二人がかりに抱えられ、日の下へ出てくるなり、まず、あたりを見回した。
「……片方が、無え」
草鞋を探しているのであった。
もう一人は、そのあとに出た。左の手の指が二本、あらぬほうを向いていた。
彦太は、その指を見た。
見て、己の手を握って、開いた。
もう一度、握って、開いた。
*
死人は、無かった。
指の骨が二本と、背中の擦り傷。それだけである。
助かったのは、運であった。
坑口から噴き出した土埃は、日が中天へ寄ってもまだ沈みきらず、光の筋の中でこまかいものがゆっくりと回っていた。男どもは坑口の前に座り込んで、誰も口をきかない。水を飲む音だけがした。
六郎が、彦太の前に来た。
「先生」
「……なんだ」
「お前、危ねえと思うてたのか」
彦太は、六郎の顔を見た。土だらけで、潰れた耳のところにだけ、汗の筋が通っている。
「……思うてた」
「なら」
六郎は、そこで言葉を切った。
「なら、なんで言わねえ」
彦太は、答えられなかった。
危ういとは思っていた。だが、なぜ危ういのかを言えなかった。あの留木のどこがいけないのか、どう組めばよいのか、一つも知らぬ。知らぬ者が「やめろ」と言ったところで、荒くれが鍬を置くはずがなかった。
言えなかったのではない。
説けなかったのである。
六郎は舌打ちをして、行った。
*
日が傾いてから、彦太は弥助のそばへ行った。
この男は、落ちる少し前に穴を出ている。
「弥助」
「…………」
「なぜ、分かった」
弥助は掌の石を見ていた。爪で、一度、弾いた。
「石が言うた」
それだけであった。
彦太はしばらく待った。待ったが、この男の口からは、あとは何も出てこなかった。
——言うたところで、誰が信じたろう。
石が言うた、では、六郎は鍬を置くまい。
——この男は、知っている。
知っていて、言葉を持たぬ。
彦太は、己と弥助のあいだに何の違いもないような気がして、それが厭であった。
*
使いの小者が、越水へ走った。
馬に乗れぬ男である。走って、走って、城下へ着いて、門のところで柄杓の水を先に飲んだ。飲んでから、報せを言った。
その夜、彦太は眠れなかった。
飯場の隅の筵の上に仰むけて、暗がりに沈んでいる梁のあたりを、いつまでも見ていた。
握って、開いた。
もう一度、握って、開いた。
■用語解説
・支保…坑道が崩れぬように、天井と壁を木で支える仕組み。柱二本に梁と敷を組んだ「四つ留め」が基本で、木が軋んで鳴るのは崩れの前触れとされた。木材の確保と組み方の巧拙が、そのまま坑夫の生死を分けた。
・枝坑…主となる坑道から横へ枝分かれさせて掘り進む細い穴。鉱脈を探るために方々へ伸ばすが、細く急ごしらえになりがちで、崩落はここで起きやすい。
・畚…縄や藁で編んだ運搬具。四隅に縄をつけ、二人で棒を通して担ぐか、背に負って土や鉱石を運ぶ。坑内から荷を出す単位が、そのまま人の働きを算える単位になった。




