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第13話(五)「山の品書き」

 ――夜は、まだ更けきらぬ。


 去年の師走にも、同じことがあった。


 主の婚礼の日、阿波から進物が届いた。唐物の香合であった。掌に載るほどの小さな蓋物で、釉の深いみどりが、宴の灯の下でぬるりと濡れて見えた。


 袖にしまわなかった。しまえば、己のものにしたくなる。だから見るだけにして、その夜の帳面には、一見のみ、と四つの字だけを書き添えた。


(買わぬ。今日は)


 そう己に言い置いてから、三つの月が過ぎている。


 ——今日は、まだ来ておらぬ。


 香合は掌に載った。壺は両手で抱えた。どちらも、己の手の熱がわずかに移るところまでは持って、それから返した。


 ——この男はまだ、何一つ己のものにしておらぬ。


 久秀は、書き終えたばかりの二枚を、灯を少し引き寄せて見た。乾ききらぬ墨が、光の向きによって鈍く照る。これがいつか銀を生む。銀がいつか壺を買う。壺がいつか座を生む。


 順は、そうなっている。


 去年の八月、この城の矢倉で、この男は己の欲の底をさらった。名を削ぎ、地を削ぎ、位を削いだ。削いだあとに、茶碗が一つ残った。あれが底であった。底に残るものが、いちばん欲しいものである。


 そのうえで、こう決めたのだ。


 ——欲は捨てぬ。順を付ける。


 順は、正しい。


 名物は、銭で買える。銭は、山から出る。山は——まだ、他人のものである。


 三つ遠い。三つ遠いから、いちばん遠いところから手を付けた。それが今日の三点であって、いちばん遠いところに三つとも注いだために、いちばん近いところが空になった。


 正しい。


 正しいことは、これほど手のうちをからにするものであったか。順を付けるというのは、いちばん欲しいものをいちばん後ろへ回すということであって、それを己で決めたのだから、誰に文句の言いようもない。


 *


 同じ矢倉で、この男は朔に茶の湯の棚を求めたことがある。


 小僧は売らなかった。いまは売りませぬ、と言った。名物は、持つ者を選びまするゆえ、と。


 ——持つ者。


 堺の四畳半で、紹鷗も似たことを言った。無いままで済ませられる眼をこしらえなはれ、と。あの言い方は優しかったが、中身は小僧のと同じである。おまえはまだ持つ者ではない、と二人ながらに言っている。


 久秀は膝の上の手を見た。


 いつのまにか、右の指が丸くなっている。掌には、何もない。何もない掌が、あの壺の肩を抱えるかたちになっていた。


 久秀は、その手を握った。


 握ってから、己のしていることに気づいた。


 ——飢えたような目を、と実休は文に書いた。


 目だけではない。手も飢えている。


 久秀は息を一つ吐いた。火桶から立った紙の灰の匂いが、油の匂いに混じって、まだ部屋の低いところに残っている。


 腹を立てる相手がおらぬ。小僧は正しい値を付け、堺の目利きは礼を尽くして壺を見せ、師と呼びたい男は道理を説いた。誰も間違えておらぬのに、掌が空である。こういう夜には、腹を立てる先がないのがいちばん難儀であった。


 ――この男の欲は、ここにある。


 山でも銀でもない。銭でもない。抱えた掌に残る、あの丸みであった。ゆえにこそ、この男は山を買い、その山を獲るための日取りを算え、獲れぬあいだの月を指で折って数える。回り道の遠さを、自分でよく分かっていて買うのである。


 分かっていることが、辛抱を楽にはしてくれぬ。理が通っているぶん、逃げ場がないというだけである。


 *


 久秀は膝の手を開いた。


 そして、算えなおした。


 月に一つ、入る。それは待てば来る。急いても来ぬし、頼んでも増えぬ。この小僧は成果に応じて増やす気がないし、そこを崩す気配もない。


 ならば、増やす道は一つしかない。


 ——この小僧を、死なせぬこと。


 久秀は火桶の火を見た。


 そして、もう一つのことを考えた。考えたが、口にも出さず、紙にも書かなかった。


 ——月に一つ、という蛇口の開き幅は、あの小僧が己で決めたことである。


 己で決めたのなら、決め直させることもできる。値さえ積めば。


 この男は、いちばん大事な考えだけは紙に載せぬ。


 *


 ——そういえば。


 あの小僧は今日、一度も膝の上で手を握らなかった。


 品書きを売った日から、値の話になるたびに握っていた手である。握らずに、己のほうから値を下げた。


 いつ覚えたのだ、と久秀は思った。


 灯を消す前に、ひつの底の紙のことを思った。


 思って、開けなかった。開けば、また川辺郡を見る。


 そのかわりに、今夜書いた一字が浮かんだ。


 灰。


 ——炉の灰の字である。


 隠すための名を、あれだけ並べた道具の名の中から選んだつもりでいて、いちばん欲しいもののほうから借りていた。


 久秀は、笑わなかった。


 灯を消した。


 *


 ――翌朝である。


 書役の詰所は、表の廊の突き当たりにある。朝のうちは日が入らず、紙の束の匂いがする。埃と、乾いた墨の匂いであった。


 紙は高い。書き損じは、裏を使う。ゆえに毎朝、小者が各所の屑籠をまわって紙屑を集めてくるのを、書役が一枚ずつ選り分けて、裏の使えるものは束にし、使えぬものは貼り合わせて包み紙や下敷きの用に立てる。佐介さすけの役目である。


 佐介は、字が上手いだけの男である。二十五、六になる。左の袖口にいつも墨がついていて、洗っても落ちぬので、そこだけ色が濃い。


 小者が籠を抱えて入ってきた。


 この男は字が読めぬ。読めぬから、束の枚数を口の中で数えながら運ぶ。数えることだけが、この男の仕事の確かさであった。


 籠の中から一枚を抜いて、佐介へ差し出した。


「これは、裏が使えますか」


 焦げていない紙である。二つに折られていて、折り目がまだ新しく、角のどこにも手擦れの跡がなかった。


 佐介は受け取って、日にかざした。


 手筋を、知っている。


 祐筆の松永の手であった。ただし、清書に回る字ではない。急いで書いて、急いで捨てた字である。


 ——己の手で書くものは、人に写させぬものだ。


 書役なら、それを知っている。


 読めたのは、地名が二つであった。


 石見。但馬。


 どちらも、摂津の侍には縁のない遠国である。行ったこともなく、行く用もない。何の紙かは分からなかった。分からぬからこそ、佐介の頭からいつまでも出ていかなかった。


 ——読むのが仕事の男に、読むなと言うのは無理な話である。悪気のない者のほうが、たいてい多くを覚えている。


 佐介は、この紙をどうすべきかを考えた。考えているうちに、指が紙の折り目をなぞっていて、なぞるほどに折り目が浅くなっていくのが分かった。


 返せば、読んだと知られる。焼けば、紙を無駄にしたとがめを受ける。裏を使わせれば、いつか誰かが表を読む。


 三つとも、塞がっている。塞がっていることが分かるまでに、この男は三つを順に一度ずつ思い浮かべて、そのたびに己の袖口の墨を見た。


 小者が、次の束を数えはじめた。ひとつ、ふたつ、みっつ、と口の中で。


 ——どうにもならぬので、佐介は袖へ入れた。


 袖の内で、紙は昨夜の折り目のまま、ゆっくりと開いていく。


 *

 一、唐物香合(阿波ヨリ)  ――去年師走、一見ノミ

 一、唐物茶壺「松花」  ――如月、拝見ノミ

 ――いずレモ 返シタ

 一、名物ハ 銭デ買エル  ――銭ハ 山カラ出ル。山ハ 未ダ 他人ノモノ

 一、名ノ無キ石 数多  ――今ハ 石。後ニ 宝

 一、掘ル者 十四人 頭 二人  ――掘ル山ガ、無イ

 一、増ヤス道 一ツ  ――此ノ小僧ヲ 死ナセヌコト


 一、未発掘鉱山の品書き 三点

 残り 零


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■用語解説

反故紙はんごがみ…書き損じや不要になった紙。当時の紙は高価であったため捨てず、裏面を再利用したり、貼り合わせて別の用に立てたりした。書き損じを集めて選り分けるのは、下級の文筆役の実務のひとつであった。

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