第3話(中)「雌伏の買い物」
——極楽は、あったか。
その問いに朔はすぐには答えなかった。
湿った風が二人の間を抜けていった。眼下の列で、粥の椀が一つ次の手に渡った。
「……私の参った先は、極楽ではございませぬでした」
やがて、静かな声が言った。
「ただの別の世で。……ただ」
「ただ?」
「米だけは捨てるほどに余っておりました」
久秀は笑い出した。声を殺した肩だけの笑いである。
「米の余る世か。……坊主の極楽より、よほど極楽ではないか」
「——さて。それが」
朔の声がわずかに翳った。
「飢えぬのに、飢えたような顔をした者がようございました」
笑いが止まった。
(……腹が満ちても、欲は残る、か)
久秀は、その言葉を胸の内で転がした。米が余っても人は足りぬ。ならば飢えの正体は、腹ではない。欲である。欲は極楽にも湧く。
(——ならば坊主の説く「欲を捨てよ」は、人に、人をやめよと説いておるのと同じことよ)
欲こそが人の芯である。芯を抜けば、立って歩く屍が残るだけのこと。
「前の世では、何をしておった」
問いは、自然に口を出た。目利きが、器の高台を検めるような問いである。
「……百姓の、はしくれにございました」
「百姓」
「異国の飢えた村々を回って、田の作りようを教える役目を。……国から扶持をいただいて」
久秀は、胸の内で帳面を繰った。飢饉の二年前からの蓄え。失敗のない田の工夫。——辻褄は、合う。
「田を教える百姓が、火薬を知るか」
「前の世は……知恵が、水のように安い世にございました。書物が誰の手にも届き、読み書きのできぬ者が、おりませぬゆえ」
(知恵が水の世から来た男が——知恵に、値を付けておるのか)
水の国から来た者ほど、水の値を知っている。
「前の世では、どう死んだ」
訊いてから、久秀は、おのれがその答えを聞きたがっていたことに気づいた。
「……道で、物盗りに」
朔の声は平らであった。平らに均すまでに、幾度も撫でた声である。
「教えに参った先の、遠い異国で。……米を作れるようにしてやりたい村の、すぐそばにございました」
久秀は、黙った。
飢えた者に素手で近づいた男が、飢えの刃で死んだ。——善意には、矛がなかったのである。
(……それで、か)
それでこの童は施さぬのだ。売るのだ。村に火薬を置き、おのれの知恵に値札を付け、わしという矛を銭で雇う。——前の世で一度死んだ男の、二度目の店の構えである。
「なぜ、生まれ直した」
「……知りませぬ」
朔は初めて詰まった。
「気づけば、この世に。……なぜかは、いまも」
騙りは詰まらぬものである。どの問いにも、都合の良い答えが糸で吊るしてある。詰まる男の方が、よほど信用できる——人を品定めする商いを長くやると、そういうことが分かってくる。
「書付の先々に、そなた自身は出てくるのか」
「——出て参りませぬ。私は、後の世に名の残らぬ者にございます」
「名の残らぬ者が、名の残る男どもを売り買いするか」
「名は……影に置くと決めておりますれば」
「朔よ。いま一つ、訊く」
「はい」
「そなたの書付があれば、村どころか国も獲れよう。……なぜ、村一つよ」
朔は、間を置かなかった。
「国は、要りませぬ。私の欲は——身内の皆が、己の家の筵の上で、年を取ることにございます」
「それだけか」
「それが、いちばん高うございます」
久秀は、朔の横顔を見た。
童の顔である。日に焼けて、頬のまだ丸い、十三の童の顔である。その顔で、この者は、欲の底を語っている。
(……小さい欲、ではない。これは、浚い終わった者の欲よ)
名を削り、地を削り、栄達を削り、削いで削いで、最後に残ったものだけを言う。わしがいま、この矢倉の上でやっている算用を——この童は、いくつのときに終えたのか。
「小さき欲は、良い盾よ」
久秀は言った。
「だが朔。盾は矛を持たぬ。村を守る矛は誰ぞ」
「——殿にございます」
売り手と買い手。盾と矛。互いの首の縄は、昨日、掛け合うたばかりである。
「——抜かしおるわ」
「時に、朔よ」
久秀は扇子を閉じた。
「そなたが嘘をつかぬという証は——あるか」
風の音だけが、しばらく続いた。
「——ございませぬ」
朔はこちらへ向き直った。目は、逸れなかった。
「証は、ございませぬ。ただ……嘘は、売り手にとって、いちばん高くつく品にございます。私の品には、すべて、いずれ答え合わせが参りまする。一つ偽れば、殿は二度とお買いにならぬ。店が、潰れまする。……潰れた店の主が、どうなるかは」
「首、よな」
「はい」
証はない、と正直に言う。それがいっとう証に近い。——だが、久秀の詰めは、そこで終わらなかった。
「では、騙す気のない嘘はどうじゃ」
扇子の先が、朔の胸を指した。
「覚え違い。思い込み。人の頭は、思い出すたびに話を作り直す。十年前の証文と当人の覚えが食い違うのを、わしは職として、山ほど見てきた。当人に、嘘の気は、ない。——それでも証文とは違うことを言う。そなたの頭の中の書物が、既にそれをやっておらぬという証は」
「——覚え違いは、ございませぬ」
間を、置かなかった。言い切る声であった。
「生まれ直してから、私は……一度得たものを、頁のまま思い返せまする。前の世では、私にも、できませなんだ。なぜかは、これも知りませぬ。ただ、できるのです」
「言うだけなら、ただよ」
「では——お検めを」
朔は、少し考えてから、言った。
「見張りの方の一年の帳面。一昨日、畳の上で一度めくらせていただきました。……弥生三日の頁には、こうございます。『三日、晴。童ら、温床の窖に手入れ。朔、名主の家にて算指南。夕、蔵に灯、亥の刻まで』——几帳面な、楷書にございました」
久秀は、黙った。
胸の内で、頁が開く。開いた頁に、同じ字が並んでいる。一年、繰り返し読んだ帳面である。一字も、違わぬ。
「……続きも、あるか」
「その頁の裏で、日付が一つ飛んでおりまする。四日の次が、六日に。前後の天気から数えれば——五日の、書き落としかと」
久秀は、指を折った。
折って、数えて、止まった。落ちている。わしは一年読んで、気づかなんだ。この童は、一度めくって、拾うた。
(……写しか。人の頭の中に、写しがあるのか)
帳面で見張っていたつもりの男の帳面が、見張られていた当人の頭に、そっくり写し取られている。背筋を、細いものが這った。恐ろしさと、欲しさの、区別のつかぬものであった。
「されど、殿」
朔の声が、一段低くなった。
「写しは、違えませぬ。……ただ、元の板木が誤っておれば、写しも、誤りまする」
「……ほう」
「私は前の世で、都の学問所にて、山と石の学を修めました。されど、学者ではございませぬ。歴史も、茶の道具も——古き名物や書き物を集めて、誰にでも見せる蔵がございまして。それを巡るのが、道楽であっただけの者にて」
「……名物を、誰にでも」
「はい。知恵が水のように安い世、と申し上げました。——ですから、私の書付には、濃淡がございます。深く学んだ山と石は、濃い。道楽で覚えた茶と歴史は、品によっては薄い。後の世の書物が既に諸説に割れて、元の板木からして怪しい品もございます。……薄い品は、薄いと口上に書きまする。私の値は、確かさも込みの値にございますゆえ」
騙りは、おのれの品を薄いとは言わぬものである。
だが久秀は、頷きながら、胸の内の詰めを緩めていない。
(動機は、見えぬ。覚えは、違えぬ。……それでも、井戸は残るわ)
写し損じをせぬ器。器は、検めた。だが器に注がれた水の、元の井戸の濁りまでは——誰にも、検められぬのである。真実九つに、嘘一つ。毒を盛る気のない毒が、いちばん質が悪い。そして先を知ったと思い込んだ目は、見たいものしか見なくなる。
(先を知る者の病は、先しか見ぬようになることじゃ)
ならば、掟を立てる。
書付は、絵図である。絵図は、歩かぬ。歩くのは、わしの足である。買うた品の裏は、別の耳で取る。人を放ち、聞き集め、書付と突き合わせる。それにも銭がかかるが——かけるだけの値打ちがある。
思えば、この童を買うと決めた根も、書付ではなかった。忍びが一年、耳で取った帳面である。……わしは初めから、そうしてきたのだ。これからも、そうするだけのことよ。
(一庫の答え合わせは、品の試金石。……同時に、わしの目の、砥石よ)
では、わしはどうか。
久秀は、おのれの欲の底へ、降りてみる。
名か。名は、的になる。杭の先を、わざわざ研いで見せるようなものである。要らぬ。
地か。地は、奪われる。持てば持つほど、守りに銭を食う。地面は、欲の底に置くものではない。
位か。公方様ですら、やがて近江へ落ちると書付にある世の、位である。紙よ。
削いで、削いで——底に残ったものが、一つ。
土塊の、茶碗である。
(……笑わせるわ。算用ずくで欲の底を浚うて、出てきたのが茶碗一つか)
だが、嘘ではないのだ。あれだけは、値が読めぬ。土くれに城一つの値が付き、分別のある大人が、命懸けでそれを欲しがる。誰がその値を決めた。窯師ではない。持ち主でもない。——誰でもないなら、いずれ決める者が出る。茶の流れの、先の先まで知り尽くした者が。公家の位でもない、武家の刀でもない、もう一つの権が、あの土塊の中に眠っている。
(名は、まだ知らぬ。だが、あることは、知っておる)
美には権が要る。権には武が要る。武には銭が要る。——欲は、捨てぬ。順を付けるだけのことである。坊主が欲を捨てよと説くなら、わしは欲に、番号を振ってやるわ。
「朔よ。そなたの品は、生ものか」
「……魚と、同じにございます」
朔は、こちらの胸の内を見たような答え方をした。
「今朝の魚は、今朝が値の頂。夕には落ち、明日は腐りまする。——されど、焦って朝のうちに食い尽くせば」
「川が、変わる」
「はい」
早く使えば、波紋が立って書付が腐る。遅く使えば、世が追いついて値が消える。片側は波紋の谷、片側は陳腐の谷——先を知る者の道は、広いようでいて、荷を背負うて尾根を渡るように、細い。
(……面白い)
久秀の口の端が、上がった。
細いほど、渡り甲斐がある。数寄者とは、難所を好む者のことである。
武に振れば早い。だが目立ち、減り、史実を割る。割った男の末路なら、いましがた三点で聞いたばかりである。数寄に振れば、欲の本丸だが——いまのわしが名物を抱けば、それは杭の先に灯りを点すことよ。ならば銭。遅く、鈍く、音のせぬ銭。三好の家は、裂けるその日まで概ね良く伸びるという。足跡は、消さぬ。石を投げるなら、川筋の変わらぬ小石を選ぶ。大石は、投げどころを見極めてから。先読みは、潮目の分だけ。裏は、耳で取る——。
眼下で、また椀が一つ、渡った。念仏が、続いている。
「——ならば、極楽は」
久秀は、誰に言うでもなく言った。
「銭で、作れるの」
死んでからの極楽は、坊主の売り物である。生きているうちの極楽は、まだ誰も売っておらぬ。米の余る世を、あの童は見てきたという。ならば、作れぬ道理はないのである。
(まずは、銭よな。……回り回って、童と同じ答えか。——いや)
同じ答えでも、届く先が違う。童の銭は、村ひとつを生かす銭。わしの銭は——極楽の値札を、坊主の手から奪い返す銭よ。
「——雌伏、よな」
「殿の御決めになることにて」
「決めたわ。いま」
久秀は列に背を向けた。
「雌伏とは、寝ておることではないわ。買うた知恵で、何を救い、何を獲るか。……降りるぞ。銭の話じゃ」
値の付かぬ品ほど、高くつくものである。この日の帳面の隅に、久秀は戯れのような一行を残している。
一、極楽の有無 ただにて聞く
残り 十一点
■用語解説
・温床の窖…寒さから野菜などの芽や苗を守るため、堆肥の発酵熱などを利用して温める仕組み(温床)を施した地下・半地下の穴ぐらのこと。
・亥の刻…昔の時刻の表現。現在の午後10時頃(およそ午後9時〜11時)を指す。
・板木…書物を木版印刷する際に文字や絵を刻み込んだ木製の印刷版のこと。転じて「情報の原典・元データ」を意味する。
・数寄者…風流・風雅、特に茶の湯に対して並々ならぬ情熱を傾け、執着する人物のこと。




