第13話(二)「山の品書き」
――同じ日の、まだ午にならぬころである。
巻が、板の間に開かれた。
紙の色が、揃っていない。
初めの数枚は日に焼けて薄茶になっており、終わりのほうは白い。糸で綴じ直した跡だけが新しく、糊の匂いがまだ紙の綴じ目に残っていて、半年のあいだ城下の長屋で少しずつ書き溜めたものを、今朝になってようやく一つに束ね直したのだと分かる。
久秀は、それに気づいた。気づいて、何も言わなかった。
国の名と、山の名と、鉱の名。それに、大、中、小の一字。
四つの列が、ただ並んでいる。飾りも前置きもなく、絵も図も一つとして描かれておらぬ、色気のない紙であった。
「大とは何じゃ」
「大きい山にございます」
「それだけか」
「……地の面へよく出ておるものも、大に見えまする」
「では、大は大きいのか、見つけやすいのか」
「両方が混ざっておりまする」
久秀は鼻から息を出した。
「そなたが勝手に割ったのであろう」
「はい」
「水の癖は、どこじゃ」
「載せておりませぬ」
「鉱の走りは」
「載せておりませぬ」
「古い間歩の図は」
「載せておりませぬ」
久秀は、巻の上をゆっくり撫でた。
「——そなたの商い、奥行きだけは名物並みよ」
朔は答えなかった。答えぬのが答えである。
久秀は数えはじめた。
指を折る。国の名を、上から順に押さえていく。指が止まり、また滑り、また止まる。摂津。丹波。但馬。阿波。伊予。土佐。備中——。
「国の名が、十一」
「はい」
「山の名が」
「二十と八にございます」
久秀の指が、摂津の列に戻った。
「摂津に、幾つある」
「四つ」
「阿波に」
「四つ」
「丹波に」
「三つ」
久秀は、指を止めた。
「……のこりは」
「十七」
朔は、そこで言葉を切らなかった。
「のこる十七は、他人の国にございます」
矢倉が、静かになった。松の音が戻ってきて、板の間の日の帯が、話しているあいだに指二本ぶんほど動いている。
久秀は、二十八のうち十一までは指の先にあり、十七は指の先にないという算用を、いま初めて目で見た。買うたものが手のうちに入らぬということが、これほど腹に来るとは思わなかった。
――丹波に、三つ。
そこで、この男の背に妙なものが走った。
丹波である。去年の師走、主の祝言を差配したのは己であった。丹波の波多野から娘を迎えさせ、その縁を錘の代わりに使って、伊丹を併呑して以来ずっと険しくなっていた下郡の国人どもの目を、東西で釣り合わせる——そういう算段であった。
あの縁組は、東の目を西の目で相殺するための錘であった。丹波の山のことなど、一つも考えていなかった。考えていなかったものが、いま、山へ通じる道になっている。
久秀は、指を折っていた手を止めた。
止めて、己の指を見た。この指が去年の師走に何を組んだのか、組んだ本人にもまだ全部は分かっておらぬ。
――謀るというのは、こういうものである。打った手が、打った時には見えぬところへ効いてくる。
「朔」
「はい」
「山の書付は、荒れると申したな」
「はい」
朔は、そこで初めて巻へ手を触れた。指の腹を紙の上へ置いて、押さえるようにした。
「開くまでに、年月を呑みまする。銭も呑みまする。掘って、なお出ぬこともございます」
「幾年じゃ」
「山によりまする。三年。五年」
「幾貫呑む」
「……申し上げても、当たりませぬ」
「当たらぬと申すか」
「当たらぬものを、当たると申すのが商いの毒にございます」
久秀の声が、少し早くなった。
「ならば、こうだ。年月を呑むのはわしよ。銭を呑むのもわしよ。掘って出ぬときに損をするのも、わしよ。……そなたは、紙を渡して終わりであろう」
「はい」
「書付が銭になるのは、わしが山を獲ってからのことだ。獲れねば、そなたの紙は紙のままよ」
「はい」
「ならば、各論を安うせい。先の約束で、いまのうちに」
朔は答えなかった。
一度、久秀の顔を見た。
「危うきは、殿のものではございませぬ」
久秀は、答えなかった。
矢倉の窓から風が入って、開いた紙の端をわずかに持ち上げ、また下ろした。
腹は立たなかった。立てられぬ。半月前、松の下の莚に一人寝かせて、その口を開けさせたのはこの男である。歯の白い、丈夫な歯をした男であった。
朔は、それ以上言わなかった。名も出さなかった。
「……申せ」
久秀が言った。
朔は膝の上で手を組まなかった。組まずに、そのまま言った。
「お獲りになれた山の各論は、一点に引きまする」
久秀は、聞き違えたと思った。
「引くと申したか」
「はい」
「なぜだ。値切られる前に下げる商人が、どこにおる」
「安うすれば、殿は急ぎませぬ」
久秀の指が、止まった。
――この小僧、値の中に掟を混ぜてきた。
安ければ、いくつも買える。いくつも買えるなら、一つの山を無理に急がせる要がない。急がねば支保の板を惜しまず、人を三度に替え、飯は外の風の下で食わせることもできる。
半月前、この小僧は掟を一点で売ろうとして、売り物ではなくなりましたと言って只で渡した。あのとき久秀は勝った。勝って、湯漬の味が分からなかった。
今日は、掟が値の内側に入っている。
——値切ったのはわしであったか。それとも、この小僧に値切らせてもらったのか。
そこが、はっきりせぬ。
「……よい」
久秀はそれ以上を言わなかった。言えば、次からは混ぜ方が巧くなるだけである。
「もう一つ、聞く」
「はい」
「各論を買わずに、この概要だけで掘れるか。掘り方は、もう買うてある。目録も、人も、あるぞ」
朔は、少しだけ笑った。
「できるものなら、どうぞ」
「言うな」
「山師も、育っておりまする。掘る者は十四人、頭に立つ者が二人と聞きました」
「あとは、掘るべき山よ」
「……はい」
朔は、そこで膝を進めた。
「殿。一つ、願いがございます」
「申せ」
「各論をお買い上げのおりは、私も山へ」
「山師を遣わせば済むであろう」
「……穴の中は、書付では見えませぬ」
久秀は、この小僧の顔を見た。
商いの理としては通っている。私が参らねば分からぬ山がある、と朔は先に言った。言ってから、これを言うために言ったのであろう。
だが、それだけではない。この小僧は山へ行って、山の飯の食い方を見たいのである。
「連れて行こう」
朔の目が上がった。
「ただし——わしの馬の届く内にある山にかぎる」
朔は、しばらく黙っていた。
「……ありがたく存じます」
与えて、囲った。餌を投げると同時に、その餌の届く輪の大きさまで決めてしまう——この男は、人に何かを許すとき、いつもそうする。
久秀は帳面を引き寄せた。
紙を送り、三、の字の下へ筆を下ろす。硯へ墨を継いだ。継いでから、一度だけ止まった。
それから書いた。
零。
他の字より、少し大きい字になった。
三点であった。久秀の点は、これで尽きた。
*
一、未発掘鉱山ノ品書キ 三点
――国ノ名 十一。山ノ名 二十八。大中小。水ノ癖ト鉱ノ走リハ 別売リ
一、手ノ届キ得ル山 ――摂津ニ 四。阿波ニ 四。丹波ニ 三。残ル 十七ハ 他人ノ国
一、丹波 ――去年ノ祝言。山ノ為ニ 組ミシモノニ 非ズ
一、獲リタル山ノ各論 一点ニ引カセル ――先約。値ハ 向コウガ 下ゲタ
一、朔 山ヘ 連レ行ク ――但シ 馬ノ届ク内ニ限ル
一、未発掘鉱山の品書き 三点
残り 零
■用語解説
・零…数としての「零」は、この時代の日本にはまだない。帳面で残りが無いことは「無之」「皆無」などと記した。本作では読みやすさを優先し、帳面の残高を「零」と表記している。




