第12話(後)「銅の理」
――天文十年(一五四一)弥生(三月)、三日ののちである。
人が死んだ、と聞いて、久秀は西宮へ馬を出した。
吹屋の前の松の下に、莚が敷かれてあった。その上に、宇之吉が寝かされている。
三日、腹を抱えて転げたという。呻きもせず、誰を呼びもせず、明け方に静かになった。空は薄曇りで、松の梢が低く鳴り、莚の四隅を押さえた石が、風のたびに紙のような音をたてた。
戸口の内では、まだ鞴が鳴っていた。
若い吹き大工の一人が、踏み続けている。頭が死んで、止めよと言う者がなく、そもそも止め方を知らぬのである。足だけが、律を守って上下していた。
「止めさせよ」
久秀が言うと、誰かが土間へ駆けた。鞴の音が、途中で切れた。
急に、松の音だけになった。
久秀は莚の前に立った。宇之吉の右の手が、手首から先だけ下がっている。指が開いておらぬ。匙を握る手であった。
「殿」
朔が莚の脇に膝をついていた。膝の上で、両の手を握っている。品書きを売ったあの日と同じ手つきである。あれから半年余り、この小僧のこの癖は少しも直っておらぬ。
「口を」
久秀は屈んだ。
宇之吉の歯は白い。丈夫な歯である。その根の際に、青黒い筋が一本、歯茎を縁取っていた。
「鉛か」
「……はい」
久秀は、しばらく黙っていた。
「なぜ、知っておる」
朔は答えなかった。
戸口のほうで、彦太が手桶を提げて立っている。泣いておらぬ。ただ、手桶を下ろすのを忘れている。
「よい。問うまい」
「……如月に、申し上げるべきでした」
久秀は立ち上がった。莚の上へは、目を戻さぬ。
「申したところで、わしは戸を開けさせなかった」
それだけであった。慰めではない。事実を一つ、置いただけである。
朔はうつむいた。うつむいた顔に、赦されたという色はなかった。
そこへ長頼が馬を降りてきた。莚の上を一目見る。それから兄に向いた。
「人が要るなら、また集めてまいろう」
悪気はない。この弟はいつもこうだ。欠けた数を埋める算段を、欠けた者の顔を見ながら口にする。冷たいのではない。この世が、そういう世なのである。
朔の顔が強張った。
「殿」
朔は立った。懐へ手を入れかけて、いったん止めた。止めて、それから入れ直した。
「品書きに、一つございます」
*
その夜、越水の一間。
灯は一つである。膳が二つ運ばれて、久秀のほうにだけ湯漬が載り、その湯気の中に、飯の焦げた香がわずかに立っていた。
「値を申せ」
「一点にございます」
「安いな」
「安う付けました」
「安いものを、わしは三つしか持たぬ」
久秀は椀を取らぬ。指で膳の縁を撫でた。
「残る三つのうち一つを、吹屋の掟に使う。……朔。それは算用が合うか」
「合いませぬ」
朔は即座に答えた。
「合いませぬゆえ、安う付けました」
「合わぬものは、買わぬ」
「殿。人は替えがききませぬ」
「きくのだ」
久秀の声は乾いていた。
「腕のよい吹き大工一人は、新参の三人ほどの値がある。三人集めればよい。長頼が集めると申しておるであろう」
「三人は、宇之吉の匙を握れませぬ」
「握れるようになる。宇之吉も、いつかは握れなかった」
朔が黙った。
灯の芯が、じじと鳴った。
久秀は膳を少し押した。押して、朔の目を見た。
「では、売らずにおけ」
朔が顔を上げた。
「売らずにおけばよい。掟は立てぬ。戸は閉てたままにする。竈は廻る。銀は出る。荷は続く。……死ぬのは、そなたが名を覚えた男どもよ」
一間が静まった。
外で風が松を渡っていく。膳の湯漬から、細い湯気がまだ立っている。
朔は膝の上の手を握った。握って、それから開いた。
「……お渡しいたします」
「点は」
「頂きませぬ」
「なぜだ」
「……」
「なぜだ、と聞いておる」
「売り物では、なくなりましたゆえ」
久秀は筆を取った。硯を寄せ、紙を引く。
朔が言うことを、久秀は一つずつ書きとめた。
壁の上に風の抜け口を三つ。竈の煙を屋の内に溜めぬこと。飯は外の風の下で食い、食う前に手桶の水と灰で手と口を洗うこと。竈の脇では飲まず食わぬこと。一日を三つに割って人を替え、同じ者を長く竈に付けぬこと。腹を抱える者、手の垂れる者は、その日から竈より離すこと。
「鉛の粉は、目には見えませぬ」
朔が言った。
「匂いも味もなく人を殺します。手についたものを飯と一緒に食い、それで死にまする」
久秀の筆が止まった。
――握り飯であった。あの男は、手を洗わずに、親指で押し込むようにして食っていた。
筆は、また動いた。
書き終えて、久秀は紙を二枚に写させた。一枚は吹屋へ、一枚は帳面の間へ。
朔が退がった。
(……俺は、値をつけられなかったのではない)
戸を閉める手の内で、朔はひとり思う。
(つけたく、なかったのだ)
一間に、久秀が残った。
――これは、効く。
只で取れた。点は一つも減っておらぬ。この小僧には、銭でも点でもない口が一つ開いている。そこへ手を入れて引けば、値をつけぬまま出てくる。
得意にはならなかった。得意になるほど新しい話でもない。ただ——覚えてしまった、という感触があった。覚えたものは、忘れられぬ。
久秀は湯漬の椀を取った。
取って、口へ運ぶ手が、一度止まった。
――この男、勝った日にかぎって、飯の味が分からぬ。
椀を置いた。
朔の去ったあと、久秀は帳面の隅に数を書いた。吹き大工一人、新参三人。書いて、指の腹で擦って消した。
消えきらぬ墨が、紙に灰色の染みを残した。
*
弥生の末である。
吹屋の壁の上に、風の抜け口が三つ開いた。煙は松の梢へ薄く逃げていく。外から色を読ませぬために口の前へ板を斜めに一枚打たせたのは久秀で、掟を立てるついでに、この男は秘密のほうも締め直している。
飯は外で食う。松の根に莚を敷き、手桶の水と灰で手を洗ってから、麦の混じった塩だけの握り飯を、めいめいの膝の上で割る。
彦太は籠を提げてこない。手拭の束を提げてくる。配って、桶に水を汲んで、それから土間へ入らずに帰る。
宇之吉はいない。
誰も、そのことを言わなかった。飯の味が変わったかどうかも、誰も言わなかった。
「殿」
朔が来た。
「掟は、血で買われたものにございます」
「そうだ」
久秀は松の根に腰を下ろしていた。
「血で買うた掟は、安うない。ゆえに、破らせぬ」
堺からは文が来ていた。
吹き上げた銅は、澄んでいるのを鋳物師が喜んで、荒銅の値よりよほど高く捌けたという。売り口は四つに割ってある。銀のほうは一匁も売らせず、そのまま蔵へ積ませた。
――銀は、米にも槍にも化ける。化けようを決めるのは、持っている者だ。
久秀は文を畳んだ。急いで化けさせる気はない。
その日の午すぎ、古間歩からの初荷が届いた。
莚の上にあけられる。石とも土ともつかぬ粉が、袋の底が透けるほどの量しかない。
「これで、幾日の掘りだ」
「ひと月にございます」
使いの者が答えた。
「なれど、坑の掘り方を覚えた者が、十四人になりましたそうで。風の送り方も、水の抜き方も。……頭に立つ者が、二人」
「二人か」
久秀は指で粉をつまみ、掌の上で転がした。日にかざす。
光るものは、何もない。
沢筋のほうから、風が下りてくる。
柵に囲われた土の饅頭が、いくつも並びはじめていた。村々から集めた床下の古土に藁と糞を混ぜて盛ったもので、日の当たる側の肌からは、湯気とも霞ともつかぬものが薄く上がっている。土と糞尿の、生きているにおいがした。
「いつ穫れる」
「三年。土は、急かせませぬ」
朔が言った。
久秀は掌の粉を吹いた。粉は散って、莚に落ちた。
「……のう、朔」
「はい」
「この国のどこかに、もっと太い山があるのであろう」
朔は答えなかった。答えぬまま、少しだけ笑った。
売り物の匂いを、客に嗅がせる商人の顔である。
*
**久秀の帳面**
一、銅 五十荷 鉛 三十駄 買イ入レ 〆テ 二百四十五貫文
一、西宮ノ竈 火ヲ入ル ――灰ノ皿ノ上ニ、白キ露
一、吹キ上ゲノ銅 荒銅ヨリ 澄ム ――値ハ 上ガル。売リ口ハ 四ツニ割ル
一、銀 売ラズ ――蔵ニ 積ム
一、朔ノ品書キニ 一ツ 増ユ ――金ノ色ニ光ル銅
一、吹キ大工 一人 失フ ――宇之吉
一、吹屋ノ掟 定ム ――点ハ、出サズ
一、古間歩 初荷 ――貧シ。ナレド、頭ニ立ツ者 二人
一、沢筋ノ土 三年ト
一、消費なし
残り 三点
■用語解説
・吹屋…採掘された鉱石(銅や銀など)を加熱・熔融し、精錬(吹き分け)を行うための工房・製錬所のこと。
・鞴…吹屋や鍛冶場で、炉の火力を高めるために手動で空気を送り込む送風装置。
・吹き大工…吹屋において、炉の火加減調整や鉱石の溶融・精錬実務を担う熟練職人のこと。
・湯漬…飯に熱い湯をかけて食べる簡便な食事のこと。
・荒銅(粗銅)…鉱石から最初の精錬段階で取り出された、不純物を含む純度の低い銅のこと。
・鋳物師…銅や鉄などの金属を熔解して型に流し込み、鍋・釜・仏具・農具などを製造・加工する技術者・職人のこと。
・古間歩…「間歩」は鉱山で鉱石を採掘するために掘られた坑道(穴)のこと。「古間歩」は以前から存在する坑道や旧坑を指す。
・駄…陸上輸送において、馬1頭の背に積載して運ぶ荷物の重量・容積の単位(1駄=およそ36貫/約135kg)。




