第12話(中)「銅の理」
――天文十年(一五四一)如月(二月)、まだ暗いうちである。
鞴の音が、腹に響いた。
西宮の吹屋は松林の窪みへ埋めるように建ててある。屋根は低く、壁は厚く、煙を出す口のほかに開いたところがない。その中に炭火の色だけが満ちて、土間に据えた竈の口から吹き出す熱が久秀の頬をあぶった。
金気の匂いがする。それに混じって、どこか甘いにおいがあった。
「湯が廻りませぬ」
吹き大工の頭が言った。宇之吉という四十がらみの男である。堺から呼んだ。腕は確かで、口が悪い。
「鉛が足りぬのではないか」
朔が言うと、宇之吉は鼻で笑った。
「足りねえのじゃねえ。急きすぎだ」
長い鉄の匙で湯の面を掻く。赤いものの上に灰色の膜が張っていた。宇之吉はその膜を寄せ、炭を足し、若い者に鞴を踏ませる。足の音が速くなった。
久秀は土間の隅に床几を据えさせ、そこから見ていた。何も言わぬ。祐筆の仕事は紙の上にあって、この土間には一つもない。
「殿」
朔が小声で言った。
「銅は先に固まりまする。鉛は、まだ湯のまま」
「その頃合いを、あの男は何で知る」
「腕のよい者は、色で」
宇之吉が匙を止めた。膜の下の色が変わったらしい。若い者に何かを短く命じ、湯の縁から灰色のものを掻き寄せて、それを脇に用意した浅い皿へ移していく。
灰をつき固めた皿である。その上で、また火が入った。
はじめは何も変わらぬ。しばらくして塊が縮みはじめ、縁から染みるように灰へ吸われて、皿の白がじわりと灰色に濁っていった。
久秀は膝を立てた。
皿の中に、白いものが残っている。
粟粒ほどの、丸い露であった。
「……これが」
「銀にございます」
久秀は指を伸ばした。まだ熱い。熱いのを承知で、指の腹で触れた。名物の茶碗に触れるときの手つきである。美しいものにしか使わぬその手を、この男は生まれて初めて、粟粒ほどの鉄物に使った。
――この男、こういうところがある。値打ちのあるものには、必ず一度、指で触れる。
「宇之吉。一荷から、これがどれほど出る」
「思うたほどでは、ござんせんな」
宇之吉は皿を覗いて顎を掻いた。
「竈がまだ寝ておりますで。三度、四度と吹くうちに増えましょう。……このぶんでは、鉛のほうが銭を食いまする」
「食わせておけ」
「殿」
朔が竈の脇へ寄った。先に固まった銅の塊を、手拭で掴んで持ち上げる。
「こちらも、ご覧じませ」
塊は赤い。買うた荒銅の赤黒さとは違う。割れ口の色が澄んでいて、灯を当てると縁に薄く光の筋が走った。
「鉛は、銀だけを連れて出るのではござりませぬ。銅に混じった鉄も、硫黄の気も、いっしょに抱えて出ていきまする。あとに残るのは……澄んだ銅で」
「値は」
「荒銅より、上がりまする」
久秀の指が、また伸びた。
割れ口に触れる。冷えかけた面は滑らかで、爪を立てても粉が来ない。荒銅は爪で掻けば黒い粉が落ちるものである。
――一つの荷から、銀が出る。そのうえ、銅そのものが良うなって出てくる。買うた値より、売る値が上がる。
「……朔。二重ではないな」
「はい」
「三重よ」
朔はうなずいた。うなずいて、それから少し間を置いた。
売り手が間を置くときは、次に値のつくものが控えている。久秀はそれを知っている。
「この澄んだ銅でなければ、作れぬ物がいくつかございます」
「何だ」
「……品書きに、載せておきまする」
久秀は笑わなかった。笑わぬまま、指の腹で塊の縁を撫でた。
「一つだけ、匂いを申せ」
朔は竈の火を見た。
「金の色に光る銅を、ご存じでございましょう。唐物の香炉や、花入の、あの色」
久秀の指が止まった。
「あれは銅に、ほんの少し別の物を添えて作りまする。澄んだ銅でなければ、色が濁りまする」
鞴の音は鳴っていた。ただ、しばらく久秀の耳に入らなかった。
――唐物の、あの色。銭を積んで人から買うほかないと思うていたものが、この土間から出るのか。
喉の奥が鳴りそうになった。久秀はそれを飲み込んだ。数寄者の顔は出さぬ。この土間で出してよい顔ではない。
「……載せておけ」
「はい」
「されど、殿」
朔が声を落とした。
「澄みすぎた銅は、目利きの手に渡れば目立ちまする」
「売り口を、幾つかに割れ。同じ湊へ二度続けて出すな」
久秀は立った。戸口の隙から、外の暗さが一筋、入っている。
その隙の向こうに、誰も知らぬ世があった。この国のどこにも、銅の中に銀が眠っていると知る者はない。海の向こうの者どもを除けば、この世でただ一人、そこの十三の小僧だけが知っている。ゆえに荒銅はただの荒銅として売られ、ただの荒銅として買える。
「戸を閉てよ」
久秀は言った。
「昼も夜も閉てておけ。煙の色を、外から読ませるな」
「へえ」
宇之吉は、それだけ答えた。
戸は、その日から閉てられたままになった。
*
如月の末である。
越水の文書部屋は紙の匂いがする。堺からの文が届いていた。利吉の手である。数字の並びは細かく、書き損じの一つもなく、余分な世辞が一行も混じっていない。
――荒銅、五十荷。鉛、三十駄。相場は先月より一割二分の増し。
――若い者を寄越しまする。目は確かにございます。
――これ以上は、買い口が目立ちまする。
久秀は最後の一行を二度読んだ。
商人の勘というものは、秘めた中身より先に、その輪郭に触る。利吉はなぜ荒銅なのかを知らされておらぬ。知らされておらぬことに、そろそろ勘づいている。
その日の午すぎ、若い商人が越水へ上がった。
二十歳になるかならぬかである。麻の小袖に、あたらしくもない帯。膝を折り、名を告げた。
「堺、魚屋の田中与四郎と申します」
名は朔から聞いていたはずである。久秀は思い出せなかった。
「荷の首尾を」
「荒銅は月のうちに五十荷、集まりまする。鉛は堺では細うござりますゆえ、播磨と若狭の口から回しまする」
口数が少ない。声を張らぬ。数を言うときだけ、わずかに間を置く。
「相場が跳ねておるな。なぜだ」
「唐の船が、欲しがっておりまする」
それだけ言って、与四郎は口を閉じた。
――値を吊り上げぬ、と久秀は見た。跳ねている相場を前にして、この若造は跳ねた分だけを買い手に告げ、己の分を乗せなかった。正直というより、商いの下手である。
光秀が帳面から目を上げた。
「買い口を三つに割り、湊を変えてはいかがでしょう。同じ手が同じ湊で買い続ければ、帳面のほうが先に喋りまする」
「よい。そう組め」
――西宮で売り口に敷いた掟を、この男は買い口のほうから先に言い当てた。
この男もまた、なぜ荒銅なのかを問わぬ。近江から買うてまだ日の浅い新参が、問うべきところを的しく飛ばして、問うてよいところだけを詰めてくる。
――この光秀という男の値は、そこにある。
「下がってよい」
与四郎は膝を立てた。立ちぎわに、床の掛物へ目を向けた。
軸は古い唐物の墨蹟である。字は掠れ、紙は茶に焼けている。久秀が銭で買った物のうちでは、安いほうであった。
与四郎はそれを、長く見ていた。
やがて礼をして、退がった。
「あの若造、名は何と申した」
「田中与四郎、と」
「そうか」
久秀は文の束に目を戻した。
「覚えずともよい。荷が続けば、それでよい」
*
弥生(三月)に入った。
昼の八つ、鞴が止まる。
「先生の弟子は、飯まで運ぶか」
宇之吉が笑った。莚の上に胡座をかいている。彦太という十二の小僧が、握り飯の籠を提げて土間に立っていた。麦の混じった、塩だけの飯である。
「おら、弟子じゃねえ。教え役だ」
「ほう。教え役が飯を提げるか」
宇之吉は籠から一つ取った。手は洗わぬ。指に灰と粉が吹いている。親指で押し込むようにして食う癖があって、飯の白い肌に指のあとが残った。
「うまい」
「塩ばっかりだが」
「塩がうまいのよ」
歯を見せて笑う。この男は歯が丈夫なのを自慢にしていた。
飯を持つ手が、ふと震えた。
「……歳よ」
宇之吉は笑って、その手を膝で押さえた。押さえて、また食った。
戸は閉っている。鞴の風は竈へ入るばかりで外へ抜ける道がなく、甘いにおいが、天井の低いところに溜まっていた。
――宇之吉という男は、歯が丈夫なのを自慢にしていた。その歯茎の縁がいつから青黒く沈んでいたか、誰も覚えていない。本人さえ、覚えていない。
■用語解説
・鞴…吹屋や鍛冶場において、炉に空気を送り込んで火力を強めるための送風装置。
・床几…陣中や屋外、土間などで持ち運んで用いられた折りたたみ式の簡易な腰掛け。
・墨蹟…高僧(特に禅僧)が認めた筆跡・書のこと。茶の湯において最高格の掛け軸として重用された。




