第12話(前)「銅の理」
――天文十年(一五四一)、如月(二月)。
矢倉の灯の下に、古い書付が一枚、広げてある。
半年、寝かせておいた紙であった。前年の八月、雌伏を決めたあの日に朔から買うた品の一つ。荒銅から銀を絞る術の口上である。
買うたその日には手をつけなかった。銭の当ても人の手も足りぬ。買うて、寝かせる。使うべき時が来るまで。仕込みとは、そういうものだ。味噌も酒も、寝かせてはじめて味が乗る。
その時が、来た。
久秀は朔を招いた。人は払ってある。
「いよいよ、あれを動かす」
朔は書付を一目見てうなずいた。それから未来の言葉を和語に翻えしながら口を開く。
「いまの荒銅には……銀が眠っておりまする」
「眠っておる、とは」
朔は指を一本立てた。講釈をするときの癖である。
「粗く吹いた銅の塊。あの赤黒い中に、ごく僅か、銀が溶け込んでおります。誰もそれを抜く術を知りませぬ。ゆえに銀を含んだまま銭に鋳られ、海の向こうへ売られていく」
久秀の眉が動いた。
「海の向こう、とな」
「明にございます。日の本の銅は、海を渡って高う売れる。……なぜ高いか、殿はご存じか」
「銅ゆえであろう」
「いいえ」
朔の声が低くなった。
「明の者どもは知っておるのです。この国の銅に、銀が眠っておることを。買うて、己の竈で抜く。日の本の銀は、銅に化けて、そうと知られぬまま、年々、海を渡っておりまする」
久秀はしばらく黙っていた。
――日の本の銀が、気づかれもせず外つ国へ流れ出ている。国じゅうの銅の中に眠ったまま。それを抜く。抜いた銅は、なお銅として売れる。一つの荷から、銀と銅と、二重の利が生まれる。
「その術の、名は」
「竈の理、とでも申しましょうか」
朔は灯の上で指をゆっくり下ろした。
「銀を含んだ銅に、鉛を添えて溶かす。鉛は銀と仲がよい。溶けた湯の中で、銀は銅を離れ、鉛のほうへ寄り添うていく。そこをゆるゆると冷ますのです。銅が先に固まり、鉛と銀はまだ溶けたまま。その頃合いの違いを使うて、鉛と銀だけを絞り出す。あとは灰の皿に載せて焼けば、鉛は灰に吸われて消え、白い銀の玉だけが残りまする」
一間が静まった。
「この術を、そなたは何と呼ぶ」
久秀は前にも聞いた名を、いま一度、聞きたかった。
「南蛮吹き、と」
「南蛮、な」
久秀は口の中で繰った。
「この国には、まだ影も見えぬ名よ」
「はい。後の世に、海の向こうの者どもがこの術をこの国へもたらします。私はそれを幾十年か早うお渡しするだけ。名も、その者らのを借りておきました。……中身より先に、名だけが着いたようなものにて」
久秀はふと笑った。この小僧はいつもこうだ。まだ来ぬ者の名を、先に術へ貼っておく。拾われても辿れぬように。
*
抜いた銀は、松永の蔵には積めぬ。人目が多すぎる。荒銅を買い集める手も、越水の名では動かせぬ。
「堺に、使える手を一人」
朔が言った。
「利吉では、いかぬのか」
利吉は堺を根に、久秀と朔の商いを担う男である。数字に強く、口も堅い。
「利吉は方々に顔が知れすぎておりまする。あれが荒銅を買い漁れば、松永の影とすぐに勘づかれましょう。この荷は、まだ誰の色もついておらぬ若い手で運びとうございます」
「当てが、あるのか」
朔の目の奥に、灯とは違う光がちらと差した。
「堺の納屋衆に、田中与四郎という若者が。歳は十九、二十」
「魚屋を名乗る、納屋の家の伜にございます。この年明け、父を亡くしました。家は傾いておりまする。祖父の法事の銭にも事欠き、墓を掃きながら涙をこぼした、と」
久秀の目が細くなった。
――また、この小僧は躓いた者の名を持ってくる。片目の勘助。近江の光秀。そして今度は、堺の、うら若い納屋の伜。
「……朔。その話は、点に載るのか」
「載せませぬ」
朔は首を振った。
「まだ来ぬ世のことではござりませぬゆえ。堺で耳を澄ませば拾える噂にすぎませぬ。帳面に載せるほどの品ではござりませぬ」
「拾える者が、おらぬのよ」
久秀は低く笑った。
――品書きに載るのは、来ぬ世のことばかりである。いまの世の噂は、どれほど値打ちがあろうと只で出す。それがこの小僧の立てた筋であった。
筋は、筋として正しい。ただ、正しい筋には正しいままの隙間がある。この小僧には、点を払わずに引き出せる口が一つ開いている——久秀はそのことを、頭の隅へ置いた。置いただけで、この日はまだ何にも使わなかった。
「その若者の、何が要る」
「納屋にございます。倉を持っておりまする。荒銅を集め、銀を寝かせるに、これほど都合のよい蔵はござりませぬ。くわえて堺の相場に目が利く。粗銅の手配をあれにさせれば」
「傾いた家に、銭を落としてやる、か」
「恩を、売るのでございます」
朔の声は静かであった。
「苦しいときの一椀は、豊かなときの百椀より深う効きまする。いま手を差し伸べておけば、あの若者は長う松永の手になりましょう」
久秀は笑った。低く、短く。
「そなたも、人を買うことを覚えたな」
「殿に仕込まれましてございます」
朔は頭を垂れた。垂れながら、口の端の奥で、ひとり思う。
(……この若者が、いずれ何になるか。それを知るのは、この世で俺ひとりだ)
堺の、うら若い納屋の伜。いまは銅を運ぶ、ただの商人の手。だがこの与四郎こそ、後の世に、天下の数寄者の頂に立つ男であった。久秀が喉から手の出るほど欲しがる、あの茶の才。
朔はそれを久秀に告げぬ。銅の手として使いながら、茶の札は伏せたまま握っておく。
(売る時は、まだだ。……いまは、ただの銅の商人でよい)
――こうして堺の傾いた納屋の伜は、松永の銅に雇われた。
*
久秀は点の帳面には手をつけなかった。買うたものは点ではない。銭で買う、荒銅と鉛と、竈と、若い商人の手と。地を這う仕込みの費ばかりであった。
西宮の松陰に、吹き所を起こす。神崎の川口から海路で荒銅を運び込む。煙は松の梢に紛れさせ、近郷にはただの鋳物の里と見せておく。
竈に、火が入った。
――半年、寝かせた書付が、いま、芽を吹く。
――――――――――
■用語解説
・如月…旧暦(和風月名)の2月のこと。
・矢倉…城郭や陣中に建てる物見・防衛・資材保管のための高楼建築(櫓)。
・荒銅(粗銅)…鉱石から最初に精錬した段階の、銀や不純物を多く含んだ未精製の銅のこと。
・南蛮吹き…荒銅に鉛を加えて加熱し、銀が鉛に溶け込みやすい性質と銅・鉛の融点の差を利用して、銅の中から銀だけを抽出・分離する高度な精錬技術。
・納屋衆…自由都市・堺において、倉庫業や海外貿易を営む有力商人たちの組織(会合衆)。堺の財政・自治を実質的に主導した。
・明…14世紀末から17世紀半ばまで中国大陸を統治していた王朝(明朝)。当時、日本から多くの銅や銀が輸入されていた。




