第11話(前)「兄者」
――時は戻り、天文十年(一五四一)睦月。
越水の広間に、諸士が居並んでいた。
炭櫃の火はあるが、広間は冷える。久秀は末座の近くに控えていた。摂津下郡の村々の帳を膝の前に積んで。
上座に若い主がいた。
三好長慶。この年、数えて二十歳。白い面に齢に合わぬ憂いを湛えている。
久秀は、村々の作柄を順に言上した。麦の裏作、施行の首尾、下郡の死人の減り。
――旧き伊丹の村々も、と久秀は続けた。あの併呑して間もなき地は、去年までの飢饉をようやく脱した。今年はわずかながら実りが戻る。ゆえに例年より気持ち多めに納めさせておりまする。搾るのではございませぬ。立ち直った村からほんの少し多く預かり、それを元手にまだ飢える村々へ麦種と田の手立てを回す。……施しを施しで終わらせぬための繰り回しにて。
よそゆきの私の声である。仮面は掛けたまま。並みいる譜代の白い目が、久秀の痩せた背に幾筋も刺さっている。氏素性の知れぬ成り上がりの祐筆が、主の前でよどみなく数字を並べる——それを面白う思わぬ者は多い。
久秀はそれを承知していた。承知の上であくまで末座の慎ましい家臣の顔を崩さぬ。
言上が済んだ。
長慶は諸士を見渡した。
「……皆、大儀であった。下がってよい」
静かな声である。だが、有無を言わせぬ。諸士が順に退がっていく。衣ずれの音が遠ざかり——やがて広間には二人だけが残った。
否。
上座の若主の斜め後ろ。柱の陰に一つ、動かぬ影があった。
海老名三郎兵衛。長慶の近習であり、護り役である。四十がらみの、いかつい肩をした男であった。人払いの下知にも退がらぬ。退がらぬのが役目であった。主の身から半歩と離れぬ。
その三郎兵衛の目の前で。
長慶の背筋が、ふとゆるんだ。
「——松永」
声の色が変わっていた。さきほどまでの削いだ静けさが解けている。
「麦の話は、もうよい。……久しいな。こうして二人で話すのは」
久秀の口元も、わずかにほどけた。
「殿。……お顔の色が優れませぬな。また夜更けまで連歌の紙を繰っておいででしたか」
「そなたには隠しごとができぬ」
長慶はちいさく笑った。二十歳の素顔の笑いであった。広間に諸士のあるうちは決して見せぬ顔である。
――ここから先は、主従の話ではない。
■用語解説
・睦月…旧暦(和風月名)の1月のこと。
・炭櫃…室内を暖めるために床の一部を四角く切り抜いて作った、炭火を熾す暖房具(囲炉裏の一種)。
・裏作…主作物(稲など)の収穫が終わった後の田畑で、次の作付けまでの間に別の作物(麦など)を栽培すること。
・連歌…複数の詠み手が和歌の上の句(5・7・5)と下の句(7・7)を交互に詠み連ねていく伝統的な和歌文芸。三好長慶は当代有数の連歌の達人・愛好家としても知られる。




