第10話(三)「若鷹の在処」
――弥生。越水に、桜が散りはじめている。
近江から、若い牢人が下ってきた。
明智光秀。久秀は、その姿を一目見て――報告の紙の人となりを、目の前の男に重ねた。
歳は、二十五、六。継ぎこそ当ててあるが、身なりは清潔であった。牢人の窮を纏いながら、それを恥じる色が、ない。継ぎ当てを、恥じぬ。――矜持である。背筋が、伸びている。
(学があると聞いたが……なるほど、坐り方に出るものよ)
礼式を、身に着けた者の坐り方であった。久秀は報告の一行を、目の前で確かめる。武家の故実に通じるという評は、まことである、と。
光秀は、静かに久秀を見ている。澄んだ油断のない目であった。値踏みする目である。――噂の通り。
久秀は、勘助のときのように、城の絵図を広げようとした。
その手を、光秀の声が止めた。
「――お尋ね、してよろしゅうござりますか」
(……来たな)
久秀は、内心、笑った。招かれた牢人が座るなり、問う。世辞でも、売り込みでもない。値踏みの、問いであった。報告の通り、この男は主を検分しに来た。
「申されよ」
「松永様は、三好の御家中にて、祐筆を務めておられると伺いました。……三好の御台所は、いかほどにござりますか」
久秀の、片眉が上がった。
台所――身代の、実。仕官を望む者が、真っ先に主家の懐を問うてきた。
(禄を問わず、家の台所を問うか。……己の身の値ではなく、乗る船の沈み具合を先に測る男よ)
一つ、報告の裏が取れた。禄の多寡では動かぬ、という評の意味が、これで知れた。この男が量っているのは、己が高く売れるかどうかでは、ない。乗るに足る船かどうかである。
久秀は、答えた。面白がって。内政の数字は久秀の庭であった。石高も、年貢の実入りも、この二年の飢饉で村がどれだけ痩せたかも、諳んじている。
「下郡、ならしておよそ――」
数字を、並べる。ただし久秀は、並べながら一つ、罠を混ぜた。飢饉の被害を、わずかに重く。実際より悪く。――この男が、聞き流すか、気づくかを見るためである。
光秀は、聞きながら、時おり短く問いを挟んだ。そして、その手が止まった。
「……お待ちください」
来た。
「いまの、下郡の痩せよう。過ぐる年の、段銭の帳と合いませぬ。それでは、村が、もう、二つ三つ潰れておりましょう。……松永様は、少し、悪るう仰せられた」
久秀は、扇子の手を止めた。
(――見抜きおった)
投げた数字の、わずかな歪みを、この若造は、頭の中の帳面と突き合わせて正した。数を諳んじる男である。そして、主が、なぜ悪く言うたのか――試された、と、気づいた顔であった。
久秀は笑った。今度は心から。
「……ようこそ、見抜かれた。試すような真似を、許されよ」
「いえ」
光秀は、表情を変えぬ。
「試されぬ主のほうが、恐ろしゅうござります」
(――ほう)
久秀の中で、この男の値がまた一つ上がった。報告には、なかった一行である。噂は、気位と、几帳面と、筋の通りようを、伝えてきた。だが、この、試されることを、むしろ好む胆の太さは――会うてみねば、知れなんだ。
――報告は輪郭を描く。中身は会うて掴む。
久秀が遠い近江からこの男を呼んだのは、そのためであった。
*
久秀は手を打った。膳を運ばせる。
「近江から、ひと月の道であろう。……食うてから聞こう」
運ばれたのは、質素な膳であった。麦の混じった飯。菜の汁。小魚の、煮浸し。湯気が細く立っている。
光秀は、一礼して箸を取った。
久秀はその手元を見る。――人を量るに、食い方ほど正直なものはない。
飢えた道中を来た男である。がつくかと思えば、そうではなかった。飯を、ゆっくりと噛む。汁を音も立てずすする。小魚の骨を、丁寧に外す。急いではいない。だが、一粒も残さぬ。
(……食い方に育ちが出る。牢人の窮を、卑しくは食わぬ男よ)
貧を恥じぬ、と見た通りであった。飢えても崩れぬ。その一事だけでも、久秀には値打ちに見えた。
光秀は、膳をきれいに下げさせた。
「馳走に、なり申した」
*
それからの問いは、深くなった。
「その種籾は、村にどう行き渡らせましたか。……ただ配れば、その場で食まれましょう」
久秀は答えた。実る田を先にこしらえて見せ、欲しくば己で選べとした、と。
光秀はちいさく頷いた。
「――なるほど。人は与えられた物より、己で選んだ物を惜しみまする」
(憐れみとして、聞いておらぬ。仕組みとして聞いておる。……どこが要で、どこが崩れるか。骨だけを拾う男よ)
久秀は、この若い男の聞き方に、己と同じ乾いた目を見た。人の情を勘定には入れる。だが、情に溺れぬ。飢饉の地獄を、憐れみでなく仕組みで見る。――久秀が近郷の惨状を、乾いた目で刻んだのと、同じ目であった。
(……似ておる。この男、わしに似ておる)
それは、頼もしくもあり、どこか薄ら寒くもあった。
摂津の国人の色分け。晴元と三好の間合い。丹波の波多野との縁組の意味。――光秀は、この家の勢いと綻びとを、隅々まで検めていく。久秀は、隠さず答えた。隠せば、この目はいずれ見抜く。見せて、値踏みさせるほうが早い。
やがて、光秀は問いを一つ残すのみとなった。
「……失礼ながら」
若い牢人は、居住まいを正した。
「松永様は、何をお望みにござりますか」
久秀は、その問いを待っていた。船の沈み具合を測り、内政の数字を検分し、最後に主の腹の底を問う。仕えるに値する主か、否か。それを見極めてから、膝を屈める――報告の通り。いや、報告より上等の男であった。
久秀は、扇子を置いた。よそゆきの、私を脱いだ。
「成り上がるぞ、わしは」
素の声であった。
「血筋なしで、な」
光秀の澄んだ目が、久秀を見た。
「見ておるだけで、よいのか。――明智殿」
一間が、静まった。桜の散る音さえ聞こえそうな、静けさである。
理知の若者のその口の端が――ふと、ほどけた。
初めて、光秀が笑った。
「いえ」
若い声に、初めて温もりが差した。
「……お手伝い、いたしましょう」
*
光秀は、久秀に付けられた。兵站と文書。久秀の、いちばん手薄で、痛いところである。
久秀は、ふと訊いた。
「近江の家は、よいのか。……傍流とはいえ、土岐の血じゃ。捨てて惜しゅうはないか」
光秀は、少しの間も置かなかった。
「沈む家に、しがみつくは、賢しゅうござりませぬ。……血筋は田を実らせませぬ」
未練の欠片も見せぬ。
久秀はその返しに口の端を動かした。見事な、割り切りであった。見事すぎて――どこか、寒い。沈む家を、これほどあっさり見限れる男である。ならば、いつかこの松永とて。
(……見切られる日が来るやもしれぬ)
その思いを、久秀は腹の底にしまった。いまはこの才が要る。忠の揺らぎは、後の話であった。買うた者の器量で、繋ぎ止めればよい。
■用語解説
・御台所(台所)…武家や公家における家計・財務状況、財政の懐具合のこと。
・段銭の帳…農地などの面積に応じて課される臨時税(段銭)の徴収・割当を記録した台帳。
・馳走…食事を用意してもてなすこと。
・傍流…家系や血統において、本家・宗家(本流)から分かれた支流・分家のこと。




