第10話(一)「若鷹の在処」
――天文十年(一五四一)、如月。
越水の朝は、桶の水を汲むことから始まる。
朔は、井戸端でかじかむ手に、息を吹きかけた。掌が荒れている。名主の伜あがりの、器用な小僧――城の者は、朔をそう見ている。よう気がつき、字を書き、算えができる。だが、しょせんは、小僧。使い勝手のよい、下働き。
(それで、よい)
見くびられているうちが、花であった。
十三の齢で、朔は水江の村を名主として束ねた。年嵩の百姓を、田の理で動かした。齢で侮る者は、じきに口をつぐんだ。――だが、この越水では侮られたままでいる。侮られることが、いちばんの隠れ蓑であった。
昼は水を汲み、文を運び、小僧の顔をする。夜は、灯の下で別の顔をする。
拾われても害のない、茶会の覚え。その体裁に擬して、朔は、書付を、綴る。松永久秀に売る、来る年々の品書き。誰に見られても、ただの数寄者の手すさびに映るように。
(……覆うのが得手に、なった)
覆うこと。隠すこと。演じること。ふと、故郷の川の匂いが、恋しくなる。葦の岸の、水と泥の、あの匂いが。田を潤して、ゆるゆると流れる、あの水が。ここには、墨と灯油と、人の思惑の匂いしかない。
昼餉は、下男と同じ冷えた麦飯である。塩気の薄い菜が、少し。――故郷の田では、畦で頬張る握り飯にも、川風と土の匂いがついていた。ここの飯には、それがない。
そして、時おり胸の底で、あの問いが頭をもたげる。
(売る相手を、俺は間違えてはおらぬか)
考えかけて、朔はやめた。詮ない。もう売った。あとは、売り方を誤らぬことだ。
その朝、城から使いが来た。松永様がお呼びである、と。
朔は、小袖の襟を直した。小僧の顔を、いま一度、被り直して、矢倉へ向かう。
*
矢倉に、朔が来た。
久秀は、人を払った。ここから先は、二人きりの話である。
(この小僧の頭にだけ、五年先の絵図が入っている)
久秀は、朔を小僧とは見ていない。城の者が侮る、その顔の裏に、何が詰まっているか――知っているのは、久秀ひとりであった。十三で村を束ねた者を、齢で侮るほど、久秀の目は安くない。だから、二人のときはよそゆきの私を脱ぎ素の声で話す。
「いま一枚割る」
銭ではない。点の帳面の話である。
「人の品書きよ。前に、名だけ見せてもろうた。あの中の、一枚を開いてくれ」
朔は、うなずいた。未来の言葉を、和語に、翻しながら、口を開く。
「明智の一族に、若い者がひとり。土岐の流れを汲む家の……国を経営むに足る才、と」
「国を経営む、か」
城を取る才ではない。人を治め、地を潤し、銭を回す――政の才である。いま、久秀が、喉から手の出るほど、欲しい品であった。
「在処は」
朔の答えが、そこで、止まった。
「……それが。在所、美濃とも、近江とも」
「どちらじゃ」
「分かりませぬ」
朔は、目を伏せた。宗治の一年の帳面を、書き落としまで諳んじてみせた男が、「分からぬ」と言う。
「後の世の書物が、既に忘れておりまする」
久秀は、束の間その言葉の底を量った。後の世の人間ですら、この男の生まれを、二つに書いて、確かめられぬ。ならば、いまこの地で、たしかめに行くよりほかない。
「才は確かか」
「確かにござります。……ただ、在処だけが、霞んで」
「よかろう」
久秀は、点の帳面に、筆を下ろした。この一枚を割る。在処は、足で探す。
*
筆を置いて、久秀は、ふと顔を上げた。
「……のう、朔。名簿には、まだ、あるのだろう。使える者が」
片目の男を買い、いままた、近江の一枚を割る。買い物の味を、久秀は、覚えてしまっている。
「ございます」
「幾人、おる」
「幾人も。……なれど」
朔の声が、一段、低くなった。
「名を挙げるだけなら、ただにございます。値が付くのは、その者が、どこにいて、何に躓いているか――そこからで」
「品書きだけ、聞かせよ。買うかは、後で決める」
朔は、少し、間を置いて、指を、折った。
「――京に、明の医を修めた、若い医者。人の身を、理で診る者。……殿の御身にも、御家中にも、いずれ、要りましょう」
「ほう」
「堺に、海の向こうと商う船を持ち、鋳物をよくする男。銭の道と、金物の道を、併せ持っております」
「――それは、要る」
久秀の声が、はずんだ。銭の道と、鋳物。精錬の先を見据える久秀には、垂涎の品であった。
「播磨には、主を凌ぐ戦略眼の武士も。近江には、城と土木の才も……」
「みな、買おう」
「――殿」
朔が、遮った。穏やかだが、引かぬ声であった。
「お待ちを。……いま、殿に要るのは、政の手と、兵站の手。それは、光秀で、足りまする。城は、勘助が。ほかは――要る日が、来てから」
「要る日を、待てと申すか」
「銭は、月に一つずつしか、実りませぬ。焦って幾人も抱えれば、探索の銭で蔵が痩せまする。……一度に、一枚。順を付けて」
久秀は、鼻を鳴らした。だが、腹は立たぬ。
(……この小僧はいつもこうよ)
堰を握っているのは、朔であった。水をどれだけ流すか、止めるか――決めるのは、いつも、この小僧のほうである。久秀が欲に任せて呑もうとすれば、必ず堰を差し込んでくる。理を立てて。――「理が立てば、引く」。そう言うたのは、久秀のほうであった。その掟に、いま、久秀自身が御されている。
面白くない。だが正しい。
「……ひとつ、訊く」
久秀は、声を落とした。我慢していた欲が、ふと頭をもたげた。
「茶を解する者は、おらぬのか。その名簿に」
朔の目が久秀を見た。何かを測るような目であった。
「……おります」
「堺か」
「堺に。若い茶の才が」
久秀の、目の奥に、灯が、点った。阿波の唐物香合を、袖にしまえなんだ、あの夜の渇きである。
だが、朔は、静かに首を振った。
「なれど――その御方は、いまは売りませぬ」
「なぜ」
「名物も、人も、持つ者を選びまするゆえ。……いまの殿では、まだ値が合いませぬ」
久秀は、朔を見た。朔も、久秀を見返した。引かぬ目であった。
――この一線だけは、この小僧は、何度でも拒む。茶の湯の棚を求めて断られた、あのときと同じ目である。
(……手綱を、握っておるな。わしの、いちばん弱いところに)
久秀は、ふ、と、笑った。腹立たしくも、あり、頼もしくもあった。己の欲の急所を、預けられる相手が、この乱世に、一人でもいるということが。
「よかろう。今日は、近江の一枚だけ、割る」
久秀は、光秀の書付を、繰った。
「あとの品書きは……順を、待つ。そなたの言う通りにな」
朔は、頭を、下げた。小僧の顔で。だが、その目の奥だけは、名主のものであった。
一、人の名簿より一枚(明智光秀) 三点
残り 三点
■用語解説
・如月…旧暦(和風月名)の2月のこと。
・明智光秀…美濃国か近江国出身とされる武将。前半生は謎に包まれている。土岐氏の一族(支流)で、卓越した内政・文書処理・兵站の才を備え、後に織田信長に仕えて重用される人物。
・土岐氏…美濃国の守護大名家。清和源氏の流れを汲む名門で、明智氏をはじめとする美濃国人衆の宗家にあたる。
・経営む…領国や組織、政務を計画的に管理し、円滑に回していくこと。




