第9話(四)「片目の軍師」
縄張図はまだ二人の間に広げられたままである。手合わせの火照りが一間に残っていた。
その熱の鎮まらぬうちに久秀は絵図から目を上げた。
「山本勘助」
久秀は名を呼んだ。
「そなた、なぜ今川に九年もこだわった」
勘助の片目が翳った。それを問われるのがいちばん痛い。
「……今川ほどの、大身は東海道にござらぬ」
低い声に戻っている。
「駿河、遠江、三河。国を呑み広げておられる。広げる家には城取りが要る。名門の、足利一門。京へ上る道の、上に、おられる。……城取りを売るなら、あの家しか、ない。拙者の、読みは、間違うており申さぬ」
「読みは正しい。だが、容れられなんだ」
「――義元公は」
勘助はそこで初めて声を震わせた。
「拙者の太刀筋を、異形と嫌われた。この、面を嫌われた。……策は一度も聞かれなんだ。九年絵図の一枚すら広げさせていただけなんだ」
一間が静まった。雪が庇を打っている。
久秀はその静けさの中で口を開いた。
もはやよそゆきの私ではなかった。素の声である。
「わしも成り上がりよ」
勘助が顔を上げた。
「血筋も見目も、ここでは値が付かぬ。付くのは――働きだけだ」
片目の男が久秀を見た。
まっすぐに見た。値踏みではなかった。九年、渇いてついぞ与えられなんだ一杯を目の前に差し出された男の目であった。
久秀は続けなかった。
売り込む言葉を重ねれば品は安くなる。要るのは一杯であった。渇いた者に一杯。それで足りる。
*
勘助はしばらく動かなかった。
やがて膝の前に両手を突いた。指の欠けた手を。深く頭を下げた。
だが受諾の言葉の代わりに勘助はこう言った。
「一つだけ」
「申せ」
「拙者を――飼い殺しになさるな」
顔を伏せたまま。
「九年、待ち申した。もう四十八にござる。城取りは坂を上る齢では、ない。……使うていただきたい。飾りにしないでいただきたい。それが、叶わぬなら」
「使う」
久秀は遮った。
「飾る暇なぞ、わしにはない。人手が、足りぬのだ。――そなたを、遊ばせておく余裕はこの松永にはない」
勘助の伏せた肩が震えた。
九年待った男にいちばん応える言葉であった。「使ってやろう」ではない。「使わねば、こちらが、困る」――必要とされること。それが施しよりも世辞よりもこの男の渇きを癒やした。
*
勘助は長頼に付けられた。軍を率いるのは久秀ではない。この弟である。
長頼は勘助の身なりをひと目で値踏みした。そして余計なことは言わなかった。
「片目が、七つ欠陥を数えたと聞いた」
「……数えすぎ申した」
「いや」
長頼は簡潔であった。
「数えられぬ者ばかりだ。ここは。……よろしく頼む」
勘助はまたうつむいた。今度は別の理由で。
*
その夜、久秀は灯の下で帳面を繰った。
米の帳面。銭の帳面。そのいちばん奥の点の帳面。
この師走、残高の回復をようやっと待って割った一枚。人の、品書きの一枚である。それから片目の在処を突き止め越水まで下らせるのにふた月あまり。
久秀は筆を下ろした。
一、駿河ノ牢人 山本勘助 召シ抱ヘ 一、片目片足 当代無双ノ城取リ 一、長頼ニ付ク 一、点ノ品書キヨリ 一枚 購ヒ了ル
書いて久秀は筆を止めた。
(人を買うた。……初めてな)
知恵でも道具でもない。人ひとりを点で買うた。己の代わりに絵図を背負える手を一組。
――が点の帳面の残りは心細い。一枚割ればそれだけ薄くなる。
品書きにはまだ欲しいものが幾つも並んでいた。人も。技も。来る年への備えも。だが点は月に一つずつしか実らぬ。勘助を買うたいま残りであれもこれもと手は出せぬ。
――どれから、割るかだ。
いちばん欲しい一枚に手が届くのは点の実りをいま幾月か待ってからか。焦って安い一枚で間に合わせては値を見誤る。買うべき時に買うべきものを。
(欲は捨てぬ。順を付けるだけよ)
外では雪が降っている。
久秀は灯芯を掻き立てた。目の奥の重さがいつもより軽い。
――手が、もう一組増えた。
まだ足りぬ。だか一組増えた。
一、人の名簿より一枚(山本勘助) 三点 残り 四点
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■用語解説
・今川義元…駿河国・遠江国などを治める今川氏の第11代当主。名門・足利一門として東海道に勢力を広げていた。史実(伝承)では、山本勘助の異形の容姿(片目・片足など)を嫌って登用しなかったとされる。
・東海道…畿内(京都)から鈴鹿を越え、三河・遠江・駿河などを通って東国へと伸びる主要街道および地域区分。
・大身…武家社会において、広大な領地や多くの家臣、豊かな経済力を有する大領主・大名のこと。
・足利一門…室町幕府将軍家である足利氏と同族・血縁関係にある家格の高い一族のこと。今川氏は足利一門である吉良氏の分家にあたり、絶大な家格を誇った。




