第9話(一)「片目の軍師」
――師走の越水。
熱が引かぬ。
久秀は床の中で書付を離さなかった。指の節が白い。熱に浮かされた手がそれでも紙の束を胸の上に抱えている。
障子の外は雪であった。冷えが部屋の底に溜まっている。その冷えの中で久秀の額だけが燃えていた。
「お前様」
声がした。
静である。
妻の手が伸びた。久秀の胸から書付をそっと取り上げる。逆らう間もなかった。細い指であった。だがその指を久秀は払えぬ。
「帳面は、逃げませぬ」
静はそれだけ言った。
低い、澄んだ声である。責めるのでもない。案じるのでもない。ただ事実を置くように言った。逃げぬものを追うて逃げるはずの己の命を削っている——そう言うている。
久秀は目を閉じた。
(……この女にだけは、言い返せぬ)
家中の誰に慇懃を返そうと上役の白い目を受け流そうとこの一間のこの声にだけは返す言葉がない。仮面を掛ける隙がない。
障子の外に跫音があった。
「申し上げまする」
若い、遠慮がちな声である。三好の小姓であった。静が襖の際まで出て応対する。低い遣り取りがしばしあった。
やがて静が戻ってきた。
「お前様。……主より、お使いにございます」
久秀は薄く目を開けた。
「御見舞いの品とお言葉を。——『松永が臥せっては、下郡が回らぬ。なれど、いまは帳面を忘れよ。役目は、待つ。ただ、養生せよ』と。直の、お言葉だそうにございます」
熱の底で久秀は天井を見た。
主は多忙である。訴えも相論も朝な夕なに絶えぬ。その主が祐筆ひとりの病にわざわざ小姓を寄越し役目は待つと言うてくれる。
家中には、久秀を氏素性の知れぬ成り上がりと、侮る者が少なくない。上役の目は冷たい。だがこの若い主だけは、初手から久秀という男の値を正しく量っていた。
(案じる、ふりではない)
熱を透かして、久秀にはそれが分かる。人の値踏みを生業にしてきた男である。世辞と真の掛け値の違いくらいは、寝ていても聞き分けられた。真であるがゆえにその言葉はかえって深く効いた。
悪い気はせぬのである。熱の中で久秀の口の端がわずかにゆるんだ。
熱が久秀を沈めていった。
沈みながら久秀は思う。
己の手は二本しかない。
表の御役目とて軽くはなかった。主・長慶が越水に腰を据え摂津の下郡を真に治めはじめたのがこの一、二年である。村と村の、水争い。寺社領の、こじれた相論。年貢と段銭の、割り付け。——その裁きのいちいちが久秀の手を通った。
誰の訴えを主君の耳に入れ、誰のを退けるか。裁許の返紙に墨を入れるのも久秀である。取次を握る者のもとには人と銭と噂が集まる。御礼と称して品も届いた。——そのなかに時おり久秀の目をふと留める唐物が混じっている。がいまはそれを愛でる暇すらない。
祐筆であり取次であり奉行であった。長慶はこの痩せた男を便利に使う。よく気のつく、よく働く。断るということを久秀はせぬ。断れば次の便利が他人の手に渡る。取次の辻を明け渡すことになる。——手放せぬ役目であった。
その、表の御役目の裏で。
一千石の施行の差配は弟の長頼に預けてある。猪名川の下で坑夫を束ねるのも田に麦を教えて回るのも人を割り振った。久秀とて何もかもを己で抱え込む男ではない。使える手は残らず使うている。
——軋むほどに使うている。
長頼は施行の帳面と間歩の見回りとで寝る間もない。甚内の糸は伊賀から東海道まで伸びきっている。書役の下役は夜半、交代で机に突っ伏す。彦太のような十一の童まで余所の村の畦に立たせている。飼うている手を一つ残らず限りまで使い切っていた。
それでなお足りぬ。
抱える絵図が月ごとに増えていく。手をいくら割り振ろうとその割り振りを考える頭は一つきりである。そしていちばん奥の帳面——誰にも見せられぬ、点の絵図を読む者は久秀ひとり。長頼ほどの器量をもう一枚、寄越せる者がこの家中にはおらぬ。
これが二倍になれば。三倍になれば。
長慶の祝言も済んだばかりである。その段取りのほとんども久秀の手を通った。文の山が二日、久秀を眠らせなかった。眠らぬまま雪の道を歩きそうして——倒れた。
(人手が、足りぬ)
師走の夜にそう独りごちたのがつい先日である。答える者はおらなんだ。
熱の底で久秀はその独り言に初めて答えを与えた。
——人を、買う。
銭で雇う奉公人の話ではない。そういう手ならいくらでも打っている。そうではない。己の代わりに絵図の一枚を丸ごと背負える男。買うてもなお釣りが来るほどの才。
そんな品がこの世にあるか。
(ある。……あの品書きに、載っている)
読点が多すぎるとのご指摘をいただいたので、順次、修正を反映しています。
また、第5話の前後が逆になっていたので修正しました。失礼しました。
■用語解説
・小姓…武家社会において、主君の身近に奉仕し、雑務や給仕、身の回りの世話などを行う若い武士のこと。
・相論…中世社会において、土地の境界や所有権、用水の利害などをめぐって起きた相争い(土地・水権利などの訴訟・抗争)。
・段銭…室町時代から戦国時代にかけて、領主や幕府が農地などの面積(一段あたり)に応じて臨時で徴収した段別課税のこと。
・裁許の返紙…主君や裁判機関が訴えや相論に対して下した裁定(判決)の旨を記して送り返す決裁文書。
・取次…主君と家臣、あるいは外部の諸勢力との仲介役を務める窓口・実務担当者のこと。当時の武家政治において絶大な権限を持った。
・摂津下郡…摂津国(現在の兵庫県東部および大阪府北部)のうち、西宮・尼崎・伊丹・池田周辺などの平野部・沿海部を指す地域区分。管内には伊丹城の「伊丹氏」、池田城の「池田氏」、一庫城の「塩川氏」、かつて越水城主であった「瓦林氏」などの国人衆が割拠していた。阿波から進出した三好家は越水城を拠点とし、管領・細川晴元のもとで摂津国守護代(下郡筆頭)として、これら複雑な国人衆の抑えとなり実務統治を担う立場にあった。




