表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/53

第9話(一)「片目の軍師」

 ――師走しわす越水こしみず


 熱が引かぬ。


 久秀ひさひでとこの中で書付かきつけを離さなかった。指の節が白い。熱に浮かされた手がそれでも紙の束を胸の上に抱えている。


 障子の外は雪であった。冷えが部屋の底に溜まっている。その冷えの中で久秀のひたいだけが燃えていた。


「お前様まえさま


 声がした。


 しずである。


 妻の手が伸びた。久秀の胸から書付をそっと取り上げる。逆らう間もなかった。細い指であった。だがその指を久秀は払えぬ。


「帳面は、逃げませぬ」


 静はそれだけ言った。


 低い、澄んだ声である。責めるのでもない。案じるのでもない。ただ事実を置くように言った。逃げぬものを追うて逃げるはずの己の命を削っている——そう言うている。


 久秀は目を閉じた。


(……このおなごにだけは、言い返せぬ)


 家中かちゅうの誰に慇懃いんぎんを返そうと上役うわやくの白い目を受け流そうとこの一間ひとまのこの声にだけは返す言葉がない。仮面を掛ける隙がない。


 障子の外に跫音あしおとがあった。


「申し上げまする」


 若い、遠慮がちな声である。三好の小姓こしょうであった。静がふすまの際まで出て応対する。低い遣り取りがしばしあった。


 やがて静が戻ってきた。


「お前様。……あるじより、お使いにございます」


 久秀は薄く目を開けた。


「御見舞いの品とお言葉を。——『松永が臥せっては、下郡が回らぬ。なれど、いまは帳面を忘れよ。役目は、待つ。ただ、養生せよ』と。じきの、お言葉だそうにございます」


 熱の底で久秀は天井を見た。


 主は多忙である。訴えも相論そうろんも朝な夕なに絶えぬ。その主が祐筆ゆうひつひとりの病にわざわざ小姓を寄越し役目は待つと言うてくれる。


 家中には、久秀を氏素性うじすじょうの知れぬ成り上がりと、あなどる者が少なくない。上役の目は冷たい。だがこの若い主だけは、初手しょてから久秀という男の値を正しくはかっていた。


(案じる、ふりではない)


 熱を透かして、久秀にはそれが分かる。人の値踏みを生業なりわいにしてきた男である。世辞とまことの掛け値の違いくらいは、寝ていても聞き分けられた。真であるがゆえにその言葉はかえって深く効いた。


 悪い気はせぬのである。熱の中で久秀の口の端がわずかにゆるんだ。


 熱が久秀を沈めていった。


 沈みながら久秀は思う。


 己の手は二本しかない。


 表の御役目おやくめとて軽くはなかった。あるじ長慶ながよしが越水に腰を据え摂津の下郡しもごおりまことに治めはじめたのがこの一、二年である。村と村の、水争い。寺社領じしゃりょうの、こじれた相論そうろん年貢ねんぐ段銭たんせんの、割り付け。——そのさばきのいちいちが久秀の手を通った。


 誰の訴えを主君の耳に入れ、誰のを退しりぞけるか。裁許さいきょ返紙かえしがみに墨を入れるのも久秀である。取次とりつぎを握る者のもとには人と銭と噂が集まる。御礼と称して品も届いた。——そのなかに時おり久秀の目をふとめる唐物からものが混じっている。がいまはそれをでるいとますらない。


 祐筆ゆうひつであり取次であり奉行ぶぎょうであった。長慶はこの痩せた男を便利に使う。よく気のつく、よく働く。断るということを久秀はせぬ。断れば次の便利が他人ひとの手に渡る。取次のつじを明け渡すことになる。——手放せぬ役目であった。


 その、表の御役目の裏で。


 一千石の施行せぎょうの差配は弟の長頼ながよりに預けてある。猪名川いながわしも坑夫こうふを束ねるのも田に麦を教えて回るのも人を割り振った。久秀とて何もかもを己で抱え込む男ではない。使える手は残らず使うている。


 ——きしむほどに使うている。


 長頼は施行の帳面と間歩まぶの見回りとで寝る間もない。甚内じんないの糸は伊賀いがから東海道とうかいどうまで伸びきっている。書役かきやく下役したやく夜半やはん、交代で机に突っ伏す。彦太ひこたのような十一じゅういちわらべまで余所よその村のあぜに立たせている。飼うている手を一つ残らずかぎりまで使い切っていた。


 それでなお足りぬ。


 抱える絵図が月ごとに増えていく。手をいくら割り振ろうとその割り振りを考える頭は一つきりである。そしていちばん奥の帳面——誰にも見せられぬ、点の絵図を読む者は久秀ひとり。長頼ほどの器量をもう一枚、寄越せる者がこの家中かちゅうにはおらぬ。


 これが二倍になれば。三倍になれば。


 長慶の祝言しゅうげんも済んだばかりである。その段取りのほとんども久秀の手を通った。ふみの山が二日、久秀を眠らせなかった。眠らぬまま雪の道を歩きそうして——倒れた。


(人手が、足りぬ)


 師走の夜にそう独りごちたのがつい先日である。答える者はおらなんだ。


 熱の底で久秀はその独り言に初めて答えを与えた。


 ——人を、買う。


 銭で雇う奉公人ほうこうにんの話ではない。そういう手ならいくらでも打っている。そうではない。己の代わりに絵図の一枚を丸ごと背負える男。買うてもなお釣りが来るほどの才。


 そんなしながこの世にあるか。


(ある。……あの品書きに、載っている)

読点が多すぎるとのご指摘をいただいたので、順次、修正を反映しています。

また、第5話の前後が逆になっていたので修正しました。失礼しました。


■用語解説

小姓こしょう…武家社会において、主君の身近に奉仕し、雑務や給仕、身の回りの世話などを行う若い武士のこと。

相論そうろん…中世社会において、土地の境界や所有権、用水の利害などをめぐって起きた相争い(土地・水権利などの訴訟・抗争)。

段銭たんせん…室町時代から戦国時代にかけて、領主や幕府が農地などの面積(一段あたり)に応じて臨時で徴収した段別課税のこと。

裁許さいきょ返紙かえしがみ…主君や裁判機関が訴えや相論に対して下した裁定(判決)の旨を記して送り返す決裁文書。

取次とりつぎ…主君と家臣、あるいは外部の諸勢力との仲介役を務める窓口・実務担当者のこと。当時の武家政治において絶大な権限を持った。

摂津せっつ下郡しもごおり…摂津国(現在の兵庫県東部および大阪府北部)のうち、西宮・尼崎・伊丹・池田周辺などの平野部・沿海部を指す地域区分。管内には伊丹城の「伊丹氏」、池田城の「池田氏」、一庫城の「塩川氏」、かつて越水城主であった「瓦林氏」などの国人衆が割拠していた。阿波から進出した三好家は越水城を拠点とし、管領・細川晴元のもとで摂津国守護代(下郡筆頭)として、これら複雑な国人衆の抑えとなり実務統治を担う立場にあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ