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第8話(後)「妻」

 ――同じ日の夜。


 うたげはたけなわであった。


 阿波あわから進物が届いていた。三好実休みよし じっきゅう——長慶の弟である。四国にあって兄の留守を支えている。その実休が兄の婚礼に寄越した祝いの品。


 久秀ひさひでは目録を繰る手を止めた。


 唐物からもの香合こうごうであった。


 小さな蓋物ふたものである。てのひらに載る。だがそのうわぐすりの深いみどり——久秀はそれを一目で値を見た。


(……これは)


 二日眠らぬ目がその一点にだけ覚めた。喉が鳴った。欲しいと体が先に言うた。


 人の欲を品書きのように読む男が己の欲にだけは正直であった。——数寄すきとはそういうものである。


 添えの文が、一枚。実休の筆であった。


「兄のき日に。……久秀殿の、あの飢えたような目を、少しは楽しませられればと存ずる」


 久秀はふと笑った。


 四国に居る(あるじ)の弟が久秀の何を見抜いているのか。婚礼の祝いによりにもよって茶の道具を選んで寄越すあたり——同じ穴の、と言いかけて久秀はその先を胸にしまった。いずれ、また会うこともあろう。


 香合は掌に冷たく重い。久秀はそれを袖にしまわなかった。しまえば己のものにしたくなる。見るだけにした。


(一見のみ。……買わぬ。今日は)


 *


 宴は、続く。久秀は動き続けた。


 使者を見送る。膳の下がりをあらためる。明日の返礼の目録を繰る。——祐筆の仕事に果てはない。長慶の家で筆を執れる者は久秀のほかにいない。


 目の奥の重さが増している。座敷のが、二重ににじむ。


(あと、ひと息。……あと、ひと息で今日が終わる)


 宴の果てであった。客が去り灯が落とされ婚礼の座に静けさが戻る。その静けさの中で久秀は立ち上がろうとして——


 膝が畳を掴めなかった。


 ずるりと崩れる。手にした目録が散った。畳が頬に冷たい。遠くで誰かの声がする。「松永様」——遠い。


 ——二日ぶんの闇がいちどきに来た。


 *


 気がつくとしとねであった。


 夜着よぎの匂い。枕元に火桶ひおけが一つ。……そして末座に小さな影が控えている。


 さくであった。


 いつ呼ばれたものか。宿直とのいの長屋から連れてこられたらしい。継ぎ当ての小袖のまま久秀の枕元に座っている。


 久秀は熱のある目でその影を見た。


 そして——枕元へ手を伸ばした。帳面を探す手であった。


 その手を朔が見ていた。


「殿」


 低い声であった。


「知恵は、売れまする」


 朔は久秀の伸ばした手を見たまま言うた。


「なれど——殿の代わりは、品書きにございませぬ」


 久秀の手が止まった。


 火桶の炭が、小さくぜた。


 *


 久秀は天井を見た。


 ——代わりが、ない。


 飢饉を撒くのも山へ人を送るのも婚礼を組むのも丹波の血を片づけるのもみな、この二本の手がしてきた。二本しかない手が。


 朔の言うことは正しい。正しくて腹立たしい。この小僧はいつも痛いところを損得の顔で突いてくる。


(……人を、買うか)


 その一言が熱の底から浮かんだ。


 知恵は点で買うた。伊丹いたみの領は偽書ぎしょ一通で買うた。丹波の縁はこの婚礼で買うた。——買えぬものはそうあるまい。ならば人ひとり買えぬ道理もない。己の代わりになる手を。筆を執れる頭を。


 熱に浮かされた思案ではなかった。むしろ熱が余計なものを焼き払ったあとの澄んだ思案であった。


「……朔」


 久秀はかすれた声で言うた。


「使える者を、ひとり。……書付に挙げておけ」


 朔は答えなかった。ただ深く頭を下げた。


 *


 その夜から久秀は幾日か熱にせった。


 枕元に絶えずいたのは妻のしずであった。


 言葉は多くない。汗を拭く。薬湯やくとうを口へ運ぶ。夜半、うなされる夫の手をそっと押さえる。——ただそれを繰り返した。


 久秀は熱の底でふと思うた。


 ——同じ屋根の下に二つの夫婦がある。


 奥の間の夫婦は今日結ばれたばかりでもう氷のように冷えている。口もきかぬ縁。理で結んだその縁を組んだのはほかならぬ己であった。


 そしてここにいま一つ。己と、静である。


 冷えた夫婦を一組こしらえておきながら己の枕元にだけはこうしてぬくもりがある。


(……ごうの深いことよ)


 静の手が額に冷たく心地よい。久秀は目を閉じた。


 *


 熱が、引いた。


 床の上で久秀は帳面を引き寄せた。静はそれを止めなかった。ただ火桶ひおけに炭を足した。


 婚礼の費え。引出物。返礼。膳。その末尾に久秀は二行書き足す。


 一、唐物香合(阿波ヨリ) 一見ノミ 一、波多野 銭ト怯エニテ靡ク 使ヘル ――ナレド、靡ク者ハ、マタ靡ク


 筆の字がいつもの久秀の字ではなかった。線が揺れている。まだ指に熱の名残があった。


 書いて久秀は筆を置いた。


 婚礼は済んだ。丹波の血は雪が覆った。三好の力はまた一枚厚くなった。奥の間の若い夫婦は生涯目を合わせぬままかもしれぬ。


 ——だがこの部屋にだけは火がある。


 久秀はその火を見た。それから炭を足す静の手を見た。なんの計算もない手であった。


(この妻にだけは、報いてやらねばなるまい)


 雪はまだ降っている。


 奥の間の花嫁の上にも、丹波の若い男のまだ新しい土の上にも、このあたたかな部屋の屋根の上にも——雪は等しく静かに降り積もっていた。


 一、消費なし 残り 七点

■用語解説

三好実休みよし じっきゅう…三好長慶の弟(当時14歳前後、当時の名は三好之虎。本作では一般に知られた「三好実休」として記載)。阿波国(徳島県)を拠点に本国の統治と兵站を支える。兄・長慶を支える優秀な武将であり、茶の湯を愛する数寄者としても知られる。

唐物からもの…中国(宋・元・明など)から日本へ輸入された工芸品や茶道具のこと。当時の武家や豪商の間で権威の象徴として絶大な価値を持った。

香合こうごう…茶の湯において、炉や風炉で焚くおこうを入れておく小さな蓋付きの容器。

しとね…身体を休めるために、畳や床の上に敷く敷物・布団(寝具)のこと。

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