第30話(八)「流れ、変る」
膝の前の書付を、久秀は畳んだ。
畳んで、懐へ入れなかった。
「いま一つ」
久秀は言った。
「こちらから、差し上げたいものがござる」
春覚の手が、止まった。
「……差し上げる」
「米を」
老僧は、久秀の顔を見た。
「木沢の蔵に、米がござる。城が八つ、蔵が八つ。運びきるだけで、ふた月かかりまする。……そのうちから、まず五百石」
「五百」
「今月のうちに、南都へ入れまする」
春覚は、答えなかった。
答えられなかったのだと、久秀には分かった。
灯明の油、斎の膳、修理の材木。一昨日、この老人がぽつり、ぽつりと並べたものが、五百石で、そっくり片づく。
「……なぜ」
「請の額は、御寺の評定が済むまで動きませぬ。評定は、ひと冬かかりましょう」久秀は言った。「冬を越せねば、額を定めましても、意味がござりませぬ」
筋は、通っている。
通っているところが、いちばん危ない。
「……頂戴いたします」
春覚は、頭を下げた。
六十を越えた坊官が、三十五の陪臣に、深く下げた。
「貸しにはいたしませぬ」
下がっていた頭が、上がった。
「……何と」
「帳には載せませぬ。利も、返済も、期日も、書き申さぬ」久秀は言った。「差し上げまする」
灯の芯が、じじ、と鳴った。
春覚は、動かない。
久秀は、待った。
待つあいだ、腹の底が、静かであった。今日一日、あれほど騒いでいたものが、いまは何も言わぬ。
言わぬのが、いちばん悪い兆しである。
「……松永どの」
「は」
「それは、施しでございます」
「施しにござる」
久秀は、そう言った。
やわらげなかった。やわらげれば、逃げ道ができる。
春覚の頬が、こわばった。
「南都は、二百年、施す側にございました」
「存じております」
「その南都が、摂津の御家中から、只で米を頂戴いたす」
「さようにござる」
老僧は、火桶の縁を握った。
握った指の節が、白い。
「……何ぞ、御礼を」
来た、と久秀は思った。
思ったことを、顔に出さぬようにした。
「要り申さぬ」
「経を、あげさせていただきます。御家中の物故の方々に」
「有難きことにござる。なれど、それは御礼ではござりませぬ。寺のなさることにござる」
「……祈祷を」
「当家は、祈祷では城を取っており申さぬ」
「では、寺領を幾らか」
「今日、三十二か所をお返し申したばかりにござる。返した先から取り返しては、当家の書付が笑い物になりまする」
春覚は、口をつぐんだ。
つぐんで、部屋の中を見た。
行李が二つ。
その脇に、布をかけた包みが一つ。
久秀は、そちらを見なかった。
見ずに、灯の芯を見ていた。
「……あれを」
老僧の声が、少しかすれた。
「なりませぬ」
久秀は、間を置かずに言った。
「――なりませぬ、と」
「あれは、堺で銭に替えられるものにござる。売って、油をお買いなされ。……当家が米を出しますのは、御寺に物を売らせぬためにござる。物を売らせぬための米で、物を頂戴しては、話が逆さまになりまする」
通しながら、久秀は、己の声が落ち着いているのを聞いていた。
春覚は、しばらく黙っていた。
黙ってから、低く言った。
「……売れませぬ」
「――」
「地味に過ぎる、と伺いました。いまの数寄の座は華やぎを好む、と。……値も、伺いました」
老僧は、顔を上げた。
「あの値では、油は買えませぬ」
久秀は、答えなかった。
答えようとしたが、口の中に何も無かった。
一昨日、この身が閉めた戸である。
安く言えば寺を欺くことになる、と思いながら、それでも安く言った。安く言ったのは、欲しかったからである。
そのとき閉めた戸が、いま、この老人の逃げ道を一つ残らず塞いでいる。
塞ぐつもりで閉めたのではない。
――なかった、と言い切れるか。
「松永どの」
「……は」
「一昨日、あれをお目にかけましたのは」
春覚は言った。
「愚僧の欲でございます」
久秀は、老僧の目を見た。
「関を返していただきたい一心で、寺の什物を持ち出しました。道すがら、ふと出したような顔をして、出しました。……六十を越えて、あのような真似をいたしました」
「――」
「出した以上、あれを寺の物として持ち帰ることは、愚僧にはできませぬ」
雨が、屋根を叩いている。
「持ち帰れば、三蔵院に返さねばなりませぬ。返すときに、何と申しまする。松永どのに見せて値を訊きましたが、安うござりましたゆえ持って帰りました、と」
春覚は、腰を上げた。
部屋の隅まで、三歩である。
包みを両の手で抱えて、戻ってきた。
久秀の膝の前へ、置いた。
「南都興福寺一乗院、三蔵院什物、釜一口」
老僧は、そこで一度、息を整えた。
「松永どのへ、進上つかまつりまする」
久秀は、手を出さなかった。
「……頂戴いたしかねまする」
「三度目でございます」
春覚は言った。
「三度、お断りになりました。もう、よろしゅうございましょう」
「……御寺には、何と」
「道中で失いましたと、申します」
老僧は、事もなげに言った。
「六十を越えておりますと、物を失くしても、さほど疑われませぬ」
布に、指が触れた。
思ったより、乾いている。
乾いた布の下に、あの肌がある。
久秀は、そこで初めて、包みを引き寄せた。
引き寄せた両の手が、どこにも震えていないことを、己で確かめた。
確かめてしまったことのほうが、こたえた。
「――謹んで」
声は、関の話と同じ声で出た。
出たはずであった。
春覚は、うなずいた。
うなずいて、それきり、包みのほうを見なかった。
*
書付は、二枚書いた。
一枚を春覚に渡し、一枚を懐へ入れた。米五百石、南都へ差し遣わす旨の一枚である。
釜のことは、どちらにも書かなかった。
門を出るとき、雨は小降りになっていた。
春覚が、軒まで送りに出た。老人を雨の中に立たせておくわけにもゆかず、久秀は早々に一礼した。
「松永どの」
「は」
「一昨日、道具の見える御目をお持ちでございましょうなあ、と申し上げました」
「……伺い申した」
「あれは、褒めたのではございませぬ」
春覚は言った。
「見える目は、難儀でございます。見えねば、欲しゅうもならぬ」
「……堺へは」
「参りませぬ」春覚は言った。「明日は、奈良へ戻りまする。……持ち帰る者にございますゆえ」
久秀は、頭を下げた。
下げたまま、しばらく上げられなかった。
上げたときには、老僧は庫裡へ戻っていた。
*
持ってみると、思うたより重かった。
両の腕で抱えると、傘が差せぬ。
久秀は、傘を軒へ置いたまま、坂を登った。
登りである。下りるときより、雨の音が近い。
肩から背へ、水が入ってくる。
布は三重である。濡らすまいと胸のほうへ寄せると、腕の中の鉄が、こちらの熱をゆっくり吸うていくのが分かった。
――今日、何を得たか。
三十二か所を返し、垂水と兵庫を取り、南都の帳を取り、南都を割った。
主は、上機嫌であった。家中の誰に問われても、この始末を恥じる筋は無い。
――今日、何を失うたか。
箱が二つ。
開けもせぬうちに、二つとも手を離れた。どちらが上であったかも、ついに分からずじまいである。
その代わりに、腕の中に、一つある。
己の物である。
その一言が、腹の底へ落ちてくるまでに、坂を半分登った。
久秀は、足を止めた。
振り返る。寺の灯は、木立に隠れて見えぬ。
見上げる。坂の上にも、人影は無い。
雨だけである。
笑いが、出た。
こらえようとして、こらえられなかった。喉の奥から、腹の底から、押し上げられるように出てきた。
声である。
三十五にもなって、雨の中で、声を立てて笑った。
笑いながら、坂を駆け上がった。
草履が滑る。滑ったところで、片手が出せぬ。両の腕は塞がっている。
肩から、落ちた。
泥である。袴も、袖も、頬も、泥であった。
泥の中で、久秀は、包みを見た。
濡れていない。
三重の布の、いちばん上が濡れただけである。中は、乾いている。
それが分かった刹那、また笑いが出た。
仰向けのまま、笑った。
雨が、顔に落ちてくる。目を開けていられぬ。開けていられぬまま、笑っていた。
――買えぬ者にござる。
言うた。あの老人の前で、たしかに言うた。
買えなんだ。
買えなんだが、いま、腕の中にある。
銭は一文も出しておらぬ。木沢の米で、木沢の蔵の米で、誰の腹も痛まぬ米で。
――取ったぞ。
起き上がる。膝が笑って、一度、つく。
ついた手が泥をつかんだ。つかんだまま、また立った。
「……鳴るか」
声に出して、訊いていた。
返事は無い。当たり前である。
当たり前のことが、可笑しかった。
「鳴るであろう」
久秀は言った。
「あれは、鳴る」
包みを胸へ抱え直す。抱え直して、額を、布の上へ一度つけた。
布ごしに、硬いものが額へ当たった。
冷たい。雨より冷たい。
その冷たさが、額から首筋へ、背へ落ちていった。
「――平蜘蛛」
言うた。
一昨日、帳に書かなかった名である。今夜も、書かぬつもりの名である。
書かぬ名を、雨の中で、声に出した。
言うてから、あたりを見た。
誰もおらぬ。
もう一度、言うた。
風が、坂を上ってきた。
濡れた背が、はじめて寒い。
寒いと感じたところで、頭のほうが、そろりと戻ってきた。
――誰に、見せる。
主には、見せられぬ。今日、道具が好きだと知られたばかりである。
勘助には、見せられぬ。あの者どもは、名も帳に載らずに城を八つ開けた。
静には――
そこで、止まった。
止まって、久秀は、泥のついた頬を手の甲で拭った。
拭ったところで、泥が伸びただけであった。
米は要る。只で渡せば、礼が要る。礼になる物は、あの部屋に一つしかなかった。
一つ一つは、どこにも嘘が無い。
なれば、はじめに動いたのは、どこであったか。
一昨日、布が三重に剥がれて、鉄が出たときである。
あのときから、今夜のこの坂まで、一本の道が通っていた。
道を敷いたのは、この身である。
敷いたことを、いま、はっきりと知った。
知って、なお、腕の中のものが惜しくない。
惜しくないどころか、いま、この世でいちばん嬉しい。
――そういう男であったか。
久秀は、歩き出した。
歩き出しながら、口の端が、まだ下りきらぬのが分かった。
下ろそうとして、やめた。
城まで、あと少しある。門をくぐるまでに、下りればよい。
*
書院の灯は、まだ落としていなかった。
久秀は泥のまま座り、包みを膝の前へ置いた。
布は、三重のままである。
いちばん上の結びへ、手をかけた。
かけて、止めた。
手が、泥である。
灯も、一つでは足りぬ。
――こういうものは、支度をして見るものじゃ。
十年あまり、他人の座敷でそう教わってきた。教わってきた作法が、こんなときに出た。
久秀は、結びから指を離した。
離した指が、少し惜しがった。
硯へ手を伸ばし、今日の帳の末を書いた。
――米五百石、南都興福寺へ差し遣わす。返済を求めず。
そこで、筆が止まった。
次の一行を書けば、こうなる。
――南都より、釜一口を献ぜらる。
書けば、載る。
載れば、いつか誰かが読む。読んだ者は、こう読む。寺の訴えを裁いた男が、その寺から什物を一つ受けている、と。
筋は、通っている。
通っている筋ほど、書いてしまえば、通らなくなる。
久秀は、筆を置いた。
書かなかった。
一昨日も、書かなかった。
二度書かずに済んだものが、いま、膝の前にある。
筆を置いて、久秀は、しばらく布を見ていた。
見ているだけである。
見ているだけで、湯の鳴る音が、聞こえた。




