第30話(七)「流れ、変る」
下の寺の門は、開いていた。
閉め忘れたのではない。閂が外してある。誰かが来ると分かっている者の、開けかたであった。
久秀は傘を畳み、雨だれの落ちる軒で、袴の裾を絞った。絞っても、絞りきれるものではない。
庫裡の一間に、灯が一つ。
春覚は、起きていた。
荷は、もう括ってある。行李が二つ、部屋の隅に寄せてあって、その脇に、布をかけた包みが一つ置いてあった。
三重の布である。
久秀は、そちらを見なかった。
見ないでいるのに、部屋のどのあたりにそれが在るかは、入った刹那に分かっていた。
「――夜半に、御無礼を」
「いえ」
春覚は、火桶の縁へ手をやった。灰しか入っていない。
「三日目にございますな」
*
「関の儀にござる」
久秀は、懐から書付を出した。
膝の前へ置いた。
置いただけで、開かなかった。
「一乗院直務の分に限り、関を停め申す」
春覚の指が、火桶の縁で止まった。
「……直務の分」
「二十に、足り申さぬ」
「三十二か所と、申し上げました」
「伺い申した」
「寺門の評定にて決したことにございます」
「伺い申した」
久秀は、それだけ言った。
言って、黙った。
黙るのは、一昨日にこの老人がやったことである。やられて、こちらの喉が一度動いた。同じものを、返した。
「……残る十幾つは」
「上裁が下りまするまで、手を付け申さぬ」
「手を付けぬ、とは」春覚の声が、少し高くなった。「返すとも、返さぬとも、仰せられませぬな」
「さようにござる」
「それでは、評定へ持ち帰れませぬ」
「持ち帰れませぬのは、御寺の御都合にござる」
灯の芯が、じじ、と鳴った。
老僧は、そこで初めて、久秀の目を見た。
一昨日、関の名を並べていたときと同じ目である。柔らかい。柔らかいのに、底のところで一度も緩まない。
「松永どの。……一昨日にも申し上げました。南都には、南都のやりようもございます」
「伺い申した」
「お返事が遅うなれば、と」
「伺い申した」
久秀は、椀に手を伸ばした。
白湯は出ていない。伸ばした手は、行き場を失って膝へ戻った。
戻したことに、この老人は気づいたはずである。
気づかれてよい。今夜は、その一つだけ見せておく。
「――担がれますか」
春覚は、答えなかった。
「神木を」
「……愚僧は、そのようなことは申しておりませぬ」
「申されておりませぬ」
久秀は言った。
「なれど、担ぐには、南都が一つにならねばなりませぬ」
春覚の頬が、動かなくなった。
動かない、という動き方をした。一昨日にも見た。
久秀は、それ以上言わなかった。
言えば、脅しになる。言わねば、勘定になる。
勘定は、相手が己で済ませてくれる。
雨が、屋根を叩いている。
どれほど経ったか、老僧は火桶の灰を、指の先で少しならした。
「……松永どの」
「は」
「何を、お求めでございます」
来た、と久秀は思った。
一昨日、この老人が「御目利きを一つ」と言ったときと、同じ形である。
求められて出すのと、こちらから出すのとでは、値が違う。
久秀は、膝の前の書付を、そこで初めて開いた。
「三十二か所、ことごとくお返し申す」
春覚の手が、火桶の縁から離れた。
「……ことごとく」
「ことごとく」
「直務の分だけ、ではのうて」
「三十二か所にござる」
「――何と、引き換えに」
「三つ、頂戴いたしたいものがござる」
「三つ」
「大和では、一つも頂戴いたしませぬ」
春覚の眉が、わずかに動いた。
「まず、摂津国豊島郡、垂水西牧」
老僧の右手が、袂へ入りかけた。
入りかけて、止まった。
止まったが、久秀は見ていた。一昨日、この人が四枚のうち三枚だけを置いて、最後の一枚を袂へ戻したのを、見ていた。
迷ってから戻した。迷ったということは、出すつもりで持ってきていたということである。
持ってきて、出さなかった。
出さなかったものは、出したくないものである。
「……よう、御存じで」
「本家が近衛様、領家が春日社。……領家の分を、三好が丸ごと請け負い申す。請所の形にて」
「あれは」
春覚の声が、そこで初めて、老人の声になった。
「あれは、この十年、一文も上がって参りませぬ」
「存じております」
「池田が」
「存じております」
久秀は、書付を一枚、押しやった。
「当家が請け負いまする。年に幾ら、と定めて、その額を、豊作でも凶作でも、必ずお納め申す」
「……定めて」
「いまは、零にござる」
春覚は、答えなかった。
答えるかわりに、袂へ入れかけた右手を、そのまま膝へ戻した。
戻した手が、少し震えていた。年のせいだと、久秀は思うことにした。
「摂津の御荘は、いまや誰の物とも知れませぬ」久秀は言った。「本家が近衛様、領家が御寺、現地を押さえておりますのが池田様。三つに分かれておりますゆえ、誰も責めを負いませぬ。負う者がおらぬゆえ、一文も上がらぬのでござる」
「……一つにする、と」
「一つにいたしまする。責めは、当家が負い申す」
春覚は、灰をならしていた指を止めた。
止めて、低く言った。
「定めた額は――増えませぬな」
久秀は、答えなかった。
「田が増えても、増えませぬな」
「……増えませぬ」
「左様でございましょうなあ」
老僧は、それ以上言わなかった。
零と、動かぬ幾らかと。どちらを取るかは、言うまでもない。
言うまでもないことを言わせぬのが、この老人の作法であった。
「二つ目は」
「兵庫津の、南の関を」
春覚は、久秀の顔を見た。
見て、それから、笑った。
声を立てずに、頬だけで笑った。
「あれを、お取りになりますか」
「取りまする」
「関守の小屋は、屋根が落ちております。船は、応仁このかた、堺でございます」
「存じております」
「……変わった御方でございますなあ」
この夜、二人が同じ側で笑ったのは、そこだけであった。
「三つ目は」
久秀は、書付をもう一枚、置いた。
「三十二か所のうち、添上の郡の三か所を、東大寺へお返し申す」
灯の芯が、じじ、と鳴った。
春覚は、動かない。
「……今、何と」
「添上の三か所は、もとは東大寺の荘の道にござる。二百年のうちに、御寺が押さえられた。……そちらへお返し申す」
「返す先は、南都にございます」
「南都のどこへ、とは、まだ誰も決めておられませぬ」
春覚は、灯のほうへ顔を向けた。
向けたまま、しばらく黙っていた。
「……松永どの」
「は」
「それは、寺門の評定へは持ち帰れませぬ」
「持ち帰っていただかねば、困りまする」
「持ち帰れば、割れます」
老僧は、そこで顔を戻した。
「二百年、割らずに参りました。……年貢で争い、水で争い、山の木で争うて、それでも、割らずに参りました。割れておらぬということにして、参りました」
「存じております」
「存じておって、指されますか」
久秀は、頭を下げた。
下げて、上げた。
「持ち帰られませぬのであれば、三十二か所とも、管領様の御裁きにかけまする」
春覚の頬が、一度、こわばった。
「その場には、東大寺も座りまする。座れば、どの荘がもとはどちらのものであったか、一つずつ数え直すことになりまする。……二百年ぶん」
「――」
「三か所で済ませるか、二百年を数え直すか。……御寺のお決めになることにござる」
雨が、屋根を叩いている。
春覚は、長いあいだ、何も言わなかった。
久秀も、言わなかった。言えば、勝った側の言葉になる。
やがて、老僧は火桶の灰を、指の先で少しならした。
「……愚僧は、坊官でございます」
「は」
「決める者ではございませぬ。持ち帰る者にございます」
「存じております」
「持ち帰りまする」
春覚は言った。
言ってから、少しだけ、背を伸ばした。
「……評定では、こう申し上げることになりましょうなあ。松永どのに掛け合い、三十二か所、ことごとく返させましてございます、と」
「そう申されよ」
「愚僧の手柄になりまする」
「なりましょう」
「――それも、御手のうちでございましょうな」
久秀は、答えなかった。
「持ち帰って、割れましょう。割れたところで、愚僧は生きておりませぬ。……三年か、五年か。そのころには、灯明の油くらいは買えるようになっておりましょうなあ」
言い方に、恨みは無かった。
恨みが無いのが、久秀にはこたえた。
「いま一つ」
「まだ、ございますか」
「頂戴するのではござりませぬ。返さぬものを、一つ」
久秀は言った。
「木沢の帳は、当家にござる。なれど木沢の帳には、関の名しか書いてござりませぬ。……御寺の帳を、当家へお預けいただきたい」
「御寺の帳を」
「写しで結構にござる」
「――」
「関はお返し申す。国は、返しませぬ」
春覚は、そのとき、はじめて久秀から目を逸らした。
逸らして、部屋の隅を見た。
行李が二つ。その脇に、布をかけた包みが一つ。
「……関を返して、国を取られましたか」
「さようにござる」
「三日で、そこまで」
「三日、いただきましてござる」
春覚は、うなずいた。
うなずいてから、腰を浮かせ、部屋の隅へ手を伸ばした。
包みを引き寄せた。
久秀の膝が、動かなかった。
動かさなかったのではない。動かなかったのである。
「明日の朝、堺へ発ちまする」
「……左様か」
「一昨日、御目利きを頂戴いたしました」
春覚は、包みの結びに手をかけた。
かけて、解かなかった。
「地味に過ぎる、と。いまの数寄の座は華やぎを好む、と。……値も、頂戴いたしました」
「――申した」
「堺の衆にも、そのように申しましょう」
久秀は、答えなかった。
答えれば、声が変わる。
「愚僧は、道具のことは分かりませぬ」春覚は言った。「なれど、値を申される御方の顔は、五十年、見て参りました」
布の上に置かれた老人の手が、動かない。
「安う申される御方は、二た通りございます。買うつもりのない御方と、……買いたい御方と」
灯が、一度、揺れた。
「松永どのは、どちらでございましょうな」
久秀は、そこで顔を上げた。
上げて、老僧の目を見た。
見て、言った。
「――買えぬ者にござる」
言ってしまってから、己で驚いた。
嘘ではなかった。嘘ではないが、言うつもりのなかったことであった。
春覚は、しばらく久秀を見ていた。
それから、包みの結びから手を離した。
解かずに、荷の脇へ戻した。
「……左様でございますか」




