第30話(六)「流れ、変る」
用が済んでも、長慶は帰れとは言わなかった。
雨は、まだ強い。
それから、四方山の話をした。
嫡子が生まれるかもしれぬこと。越水の井戸がこの夏まで保つかどうか。
「阿波の弟がな」
「は」
「茶の道具を欲しがっておる」
久秀は、膝の上で指を組み替えた。
「何ぞ、送ってやりたいのじゃ」長慶は言った。「……銭を送ると、貸したことになる」
言ってから、少し笑った。
笑って、笑ったことを己で持て余したような顔をした。
「道具ならば、只でやれる」
久秀は、何も言わなかった。
兵を持っているのは、阿波の弟である。
「木沢の蔵からは、何ぞ出なんだのか」
久秀は、白湯を飲んだ。
飲んで、椀を置いた。
昼に、同じことをした。
広間で、勘助の前に包みを一つ置いた。取れと言った。断られた。断られたときに、腹の底が軽くなったのを、己で覚えている。
覚えているから、今度は分かっていた。
差し出すのは、隠しておくより安い。
「城が八つ、蔵が八つ。米と、塩と、縄と、古い具足が幾らか。銭は、都合九十貫と少々にござる」
「道具は」
喉が、一度、鳴りかけた。
鳴らさなかった。
久秀は、椀を持ち替えた。
持ち替えるあいだに、勘定が済んでいた。
箱は二つある。どちらも、まだ開けていない。開けずとも、桐の木目と、紐の掛けようと、蓋の合いようで、どちらが上かはおよそ知れる。十年、そればかり見てきた男である。
およそ、である。
「――二つ、出ましてござる」
言った。
言ってから、次の一句が、すぐには出なかった。
「……一つを、御弟君へ差し上げまする」
言い終えるまでに、間があった。
長慶は、椀を置いた。
置いて、こちらを見ている。
「……兄者」
「は」
「惜しいか」
久秀は、顔を上げた。
上げてしまってから、上げるべきではなかったと思った。
「――惜しゅうござる」
本当のことであった。
本当のことを一つ出しておけば、あとの一つは訊かれぬ。
長慶は、笑った。
今度は、持て余さずに笑った。
「そなたは、道具が好きじゃな」
「……は」
「知らなんだ」
久秀は、頭を下げた。
下げた顔の下で、額の生え際の湿りが、引いていくのが分かった。
「もう一つは」
「某が、預かっておきまする」
「うむ」
長慶は、それ以上訊かなかった。
訊かれなかった一つが、どちらであるかも、訊かなかった。
雨が、屋根を叩いている。
「兄者」
「は」
長慶は、灯のほうを見ていた。
見たまま、言った。
「……儂は、そんなにも頼りない主か」
久秀は、顔を上げた。
山のことか、と思うた。
思うてから、それだけではないと知れた。山のことは、さきほど「よい」と言われている。
言われて、そのうえで「覚えておくぞ」と言われた。
分からぬまま、胸の中で三つのものが順に浮かんだ。
大和に立っている、許しを得ておらぬ紋。
開けていない、いま一つの箱。
一昨日、坊官が包みから出してみせた釜。
どれのことを言われたのか、分からなかった。
分からぬということは、三つとも隠しているということである。
「……滅相も、ござりませぬ」
声が、思ったより低く出た。
長慶は、こちらを見ない。
「そなたは、詫び状を三通も書いて参るような男じゃ」
久秀は、懐へ手をやりかけて、やめた。
「三通書く者は、一通も出さぬ」長慶は言った。「出さずに済むように、先に手を打つゆえな」
「……」
「儂は、兄者が手を打ったあとの座に、座っておるだけじゃ」
言い方に、咎める色はなかった。
咎める色がないぶん、逃げ場がなかった。
「儂は、父が死んだとき、十一であった」
久秀は、息を呑んだ。
十年、この主は、そのことを一度も口に出したことがない。
「――は」
「まわりの者が、皆、儂の見えぬところで手を打った。打ってから、こう決まりましてござる、と申しに来る。……それで儂は、父の仇と同じ屋根の下に座ることになった」
久秀は、動けなかった。
「兄者は、あの者どもとは違う」
長慶は、そこで初めて、こちらを見た。
「違うが、やり方は、同じじゃ」
雨の音だけが、しばらく座を埋めた。
久秀は、畳の目を見ていた。
言うべきことは、三つある。
三つとも、いま申し上げれば、この若い主は眠れぬ。
紋のことを申し上げれば、明日、御前で頭を下げるのはこの人である。
箱のことを申し上げれば、阿波の弟へ贈る一つが、下のほうであると知れる。
釜のことは――申し上げても、詮ないことであった。
久秀は、膝の上で拳を握った。
握って、開いた。
「……一つ、申し上げておきまする」
「うむ」
「大和に立っておりまする旗のうち、十幾つは、管領様の御紋にござる」
長慶の目が、動いた。
「誰が許した」
「誰も、許しておりませぬ」
「――」
「家来どもが、地面へ描いて写しましてござる。歪んでおりまする」
久秀は、頭を下げた。
「昼に、報せを受けましてござる。この座で、一度、申し上げかけて、やめました」
長慶は、しばらく黙っていた。
「明日、儂は、それを知ったうえで御前へ出ることになるな」
「……は」
「知って下げる頭は、知らずに下げるより痛いぞ」
「申し訳もござりませぬ」
「なれど」
長慶は、椀を膝から下ろした。
「あとで倒れぬ」
久秀は、頭を上げられなかった。
「兄者」
「は」
「残りは、いつでもよい」
――残り、と言うた。
一つとは、言わなかった。
「頼りない主か、と訊いた」
「……滅相も」
「そなたは、滅相もない、と申した」長慶は言った。「ならば、相談せい」
「――」
「隠して手を打つな。先に申せ。……申されて困ることであれば、儂が困ればよい」
久秀は、頭を下げたままであった。
「儂も」
長慶が、少し言い淀んだ。
「……儂も、相談される主になろうとする。今日から、と申すわけにもゆかぬが」
畳の目が、にじんで見えた。
久秀は、そのにじみを、灯のせいにした。
「……有難う存じまする」
頭を下げながら、さきほどのことを思い出していた。
筆の者を寄越せ、と言われた。帳を読める者は、儂のところへ置く、と。
あのときは、取り上げられたのだと思うた。
取り上げたのではない。
帳を読ませたければ、この人のところへ来るほかない。来れば、話す。話せば、相談したことになる。
――この主は、情で申されたのではない。
情で申されたのであれば、明日には元へ戻る。
戻らぬように、座のほうを組み替えられた。
「そのうえで、兄者」
「は」
「もう一つの箱を、こちらへ」
久秀は、顔を上げた。
上げた顔を、長慶が見ている。
「……兄者」
「これは、儂を頼らん兄者への罰じゃ」
長慶は、笑った。
この夜、いちばんよく笑った。
「阿波へは、そなたが選んだほうをやる。残る一つは、儂が預かる」
「……いつまで」
「訊くか」
「……」
「訊くのか、兄者」
久秀は、答えられなかった。
膝の上で、指が、勝手に動いた。
動いてから、止めた。
長慶は、それを見ていた。
見て、また笑った。
「……そなた、痩せたな」
「は」
*
久秀は、廊下へ出た。
閉めた襖の向こうで、灯を落とす音がする。
廊下の端に控えていた者が、立ち上がって道を空けた。
二年前、この男は、主と久秀が近すぎることを家中が見ている、と久秀へ直に言った。言ったのは、その一度きりである。
この夜も、何も言わなかった。ただ、閉めたばかりの襖のほうを一度見てから、道を空けた。
雨は、まだ降っていた。
久秀は、懐の紙を五通とも、そのままにして城を出た。
書いてきた六通のうち、出したのは東山内の一通だけである。詫び状は三通とも、遊佐への下書きも、懐にある。
南都への返答を書いた一通も、まだ懐にあった。
手を離れたのは、紙ではなく、桐の箱が二つであった。
二つとも、開けずに手を離れた。
どちらが上であったかは、ついに分からずじまいである。
――分からぬままのほうが、よい。
そう思おうとして、思いきれなかった。
坂を下りる。傘に当たる雨の音が、思ったより高い。
――弟のことを、なぜ訊かれたのか。
半刻のうちに、幾つも取り上げられた。取り上げられたものは、どれも数えられる。
数えられぬのは、訊かれただけで済んだあの一つである。
久秀は、そのことを一度だけ考えて、あとにした。
下の寺に、灯が一つ点いている。
三日目の夜である。あの老僧は、起きて待っているであろう。
三十二か所、ことごとくお返しする、と言う。
あの老僧は、勝ったと思うであろう。
思うておればよい。
――夜が明けたら、東大寺へ文を書く。
言いに行く己の中に、寺の帳のほかに、もう一つ欲しいものがあることを、久秀は知っていた。
知っていて、それは口に出さぬ。
出さぬまま、この雨の中を、下りてゆく。




