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第30話(五)「流れ、変る」

雨が、また強くなった。


 「――なれど、垂水は」


 長慶が言った。


 「は」


 「池田へは、儂から先に申す」


 久秀は、顔を上げた。


 「そなたが持ってゆけば、家人が使いに立った形になる」長慶は、椀を持ち上げて、そのまま口をつけずに戻した。「摂津の下郡を長う束ねてきた家の膝元へ、あとから来た家の祐筆が、書付を一枚持って参る。……銭のことより先に、そこで気を悪うされる」


 「……は」


 「儂が座を作る。そなたは、そのあとで数を詰めよ」


 この主は、二十一である。


 「――一つ、申し添えまする」


 「うむ」


 「寺からいただく書付には、幾ら納めよ、とは書きませぬ」


 「書かぬのか」


 「年ごとに、当家が申しまする」


 長慶は、動かない。


 「池田様と当家は、いま睦まじゅうござる。一庫では兵を出していただきました。……なれど、いつまでも睦まじいとは限り申さぬ」


 「うむ」


 「違うことになりましたときに、その紙が要りまする。垂水は当家のもの、池田様は代官。……代官は、いつでも替えられまする」


 長慶は、しばらく黙っていた。


 「兄者」


 「は」


 「そなた、そういうことを、白湯を飲みながら申すな」


 「……は」


 「――座を作っていただきますなら、手土産が要りまする」


 「何を出す」


 「一庫を」


 長慶が、動きを止めた。


 止めたまま、しばらくこちらを見ていた。


 「一庫は、そなたの家人が獲った城じゃ」


 「獲りましてござる」


 「あの城の下に、そなたの家人が幾人も埋まっておろう。土が、まだ乾いてはおるまい」


 「……乾いてはおりませぬ」


 久秀は、膝の上の手を、動かさなかった。


 「されば、城は渡しませぬ」


 長慶が、眉を寄せた。


 「渡さぬのか。手土産と申したであろう」


 「渡しますのは、獲ったという名にござる」


 「――名」


 「この春、一庫へ兵を出されたのは池田様にござる。当家と一手に働いていただきました。……その働きを、上へは池田様のものとして申し上げる。城下の市の役銭も、あちらへ回しまする」


 「城は」


 「当家が持ちまする」


 長慶は、しばらく答えなかった。


 「兄者」


 「は」


 「それは、獲った城を人に譲るより、たちが悪いぞ」長慶は言った。「名だけくれてやって、実は放さぬ。……気づかれたら、どうする」


 「気づかれるころには、市の役銭が入っておりまする」


 「入っておれば、怒らぬか」


 「入っておるものを返せとは、人は申しませぬ」


 長慶は、笑わなかった。


 笑わずに、こちらを見ていた。


 「なぜ、城は放さぬ」


 「――弟が、あの城におりまする」


 「長頼か」


 「は」


 長慶は、首をわずかにかしげた。


 「弟なら、余所へ移せばよい。城を持たずとも、そなたの弟はそなたの弟じゃ」


 久秀は、答えられなかった。


 答えないでいると、長慶が続けた。


 「あれは越水から遠い。人を詰めきりにせねば持てぬ。池田の膝元じゃ。……そなたの申しようからすれば、真っ先に放す城であろう」


 そのとおりであった。


 垂水では、名を取って実を置いた。一庫では、名を置いて実を取る。理屈が、逆になっている。


 逆になっている訳を、いま言うわけにはいかなかった。


 「……あの山を、手放しとうござりませぬ」


 「山」


 「は」


 「山に、何がある」


 久秀は、そこで一つ、息を入れた。


 どこまで申し上げるかを、その息のあいだに決めた。


 「多田に、古い間歩まぶがござる」


 「間歩」


 「銅を掘った穴にござる。……源氏の御代から掘っておったと申しまする」


 「いまは」


 「掘り尽くして、水が溜まっておりまする。三十年、誰も入っておりませぬ」


 長慶は、椀へ手を伸ばしかけて、やめた。


 「枯れた穴か」


 「枯れておりまする」


 「――枯れた穴を、それほど惜しむか」


 「惜しみまする」


 久秀は言った。


 言ってしまってから、言い過ぎたかどうかを、また測った。


 「枯れておりますのは、上のほうにござる」


 「下は」


 「……掘ってみねば、分かり申さぬ」


 長慶は、答えなかった。


 答えるかわりに、しばらくこちらを見ていた。


 「兄者」


 「は」


 「そなたが分からぬと申すときは」


 「――」


 「たいてい、分かっておる」


 久秀は、何も言えなかった。


 雨が、屋根を叩いている。


 「……よい」


 「は」


 「掘れ。銭は、そなたが出せ」長慶は言った。「何ぞ出たら、まっさきに申せ」


 「……は」


 「覚えておくぞ」


 「――は」


 久秀は、頭を下げたままであった。


 枯れた穴の下に何が眠っているかを、この世でただ二人しか知らぬ。


 一人は、水之江の村にいる。


 「勘助には」


 「某から、申しまする」


 「痛むか」


 「痛みまする」


 久秀は言った。


 「なれど、痛みますのはそれがしではござりませぬ。あの者どもにござる。獲った城の名が、他家のものになりまする」


 長慶は、しばらく黙っていた。


 「名を出すなら」


 「は」


 「代わりに、何ぞあの者どもに残せ」


 「……は」


 「城でのうてよい。銭でのうてもよい」長慶は言った。「何も残らぬと、人は、次に働かぬぞ」


 「……は」


    


 「兄者」


 「は」


 「木沢の兵は、いま幾人おる」


 「もとは三千にござる。……在所へ帰る者と、降らぬ者とを除きまして、旗の下に残りましたのが二千ほど」


 「二千」


 長慶は、膝の上で指を一度、折るように動かした。


 「飯は」


 「大和で食わせておりまする。木沢の蔵の米にて、冬までは保ちまする」


 「冬から先は」


 「……まだ、考えておりませぬ」


 正直に言った。


 言ってから、言ってよかったのかどうか、すぐには測りかねた。


 「二千は、そなたが持て」


 「――は」


 「持って、大和から出せ」


 久秀は、顔を上げた。


 「大和から、にござりまするか」


 「一庫へ入れよ」長慶は言った。「今度の大和で暴れた者どもも、まとめてそこへ」


 「――」


 「大和に置いておけば、また城が増える」


 長慶は、白湯の椀へ手を伸ばした。


 「あの者どもは、勝ち癖がついておる。勝ち癖のついた兵を、獲るものだらけの国に置いておくな。……これ以上引っ掻き回されては、収拾がつかぬ」


 久秀は、答えられなかった。


 言い返す筋が、どこにも無い。


 「米は」


 「木沢の蔵から、運べるだけ運べ。笠置の四千石には手を付けるな。あれは三好の帳に載る」


 「……は」


 五つ目である。


 これは、渡されたほうであった。


 渡されたが、軽くはない。二千の口が、冬に開く。


 「城が要るな」


 「は」


 「二千を入れる城じゃ」長慶は言った。「……そなたの弟一人では、荷が勝つ」


 久秀は、顔を上げた。


 上げた顔に、長慶は何も足さなかった。


 足さぬまま、白湯を飲んだ。


 ――笠置。


 さきほど、この人は笠置へ三十人を入れると言うた。そのあとで、弟の名を訊いた。


 いま、その弟の座っている城に、二千を入れよと言うている。


 三つの話が、今夜のうちに一本の線でつながった。


 つながったことに、久秀は、いま気づいた。


 気づいたが、まだ何も起きてはいない。


 起きてはいないから、抗う筋も無い。


 「そのうえで」


 長慶は言った。


 「筆の者は、寄越せ」


 久秀は、顔を上げた。


 「木沢に仕えておりました右筆と、代官衆にござりまするか」


 「うむ」


 「――」


 「帳は、そなたが持てばよい」長慶は言った。「なれど、帳を読める者は、儂のところへ置く」


 久秀は、答えなかった。


 答えないうちに、次が来た。


 「侍のほうも、二千を束ねるに要るだけ残して、あとは寄越せ」


 「……お待ちくださりませ」


 久秀は、そこで初めて、抗った。


 「帳を頂戴つかまつると申し上げました。……帳を読む者を取られましては、帳が読めませぬ」


 長慶は、こちらを見た。


 見て、少し笑った。


 「読ませたいときは、儂に申せ」


 「――」


 「そういうことじゃ、兄者」


 久秀は、口を開いて、閉じた。


 筆の者を取られる。侍も取られる。二千だけが、手に残る。


 残るのは、飯を食う口ばかりである。


 ――なぜ、そのようになさいます。


 訊けなかった。


 訊けば、疑ったことになる。


    


 「兄者」


 「は」


 「近いうちに、上から論功の沙汰が下る」


 長慶は、椀を膝へ置いた。


 「下りてから申されても、動かせぬ。……その前に、聞いておく」


 「は」


 「そなた、何を望む」


 久秀は、すぐには答えなかった。


 答えれば、望みを一つ、この座に置くことになる。


 置いた望みは、いつでも取り上げられる。


 それでも、言わねば下りてこない。


 「……一庫を」


 長慶は、笑わなかった。


 「城は、もうそなたが持っておるではないか」


 「持っておりまする。……なれど、持っておるだけにござる。上から下されて、初めて当家のものになりまする」


 「押さえておるだけでは、押さえておらぬ、か」


 「さようにござる」


 長慶は、しばらく久秀を見ていた。


 「一庫を望むのか」


 「は」


 「――ふむ」


 それだけであった。


 この夜、二度目の「ふむ」である。


 一度目は、弟の名を訊いたときであった。


    


 久秀は、頭を下げた。


 下げた顔の下で、指を折っていた。


 笠置は、三好の人が入る。河内へは、殿が返される。管領様への言上も、殿がなさる。そして一庫を獲ったという名は、池田様へ。


 四つとも、家来が獲ったものである。


 四つとも、獲った者の名は、どこにも残らぬ。


 ――何ぞ残せ、と主は言うた。


 残せるものが、いま、己の手にあるかどうか。


 久秀は、そこまで考えて、考えるのをやめた。


 考えつめれば、奥の一間に置いてある桐の箱に行き着く。


 「なれど、兄者」


 「は」


 「寺と喧嘩はするな」


 「……は」


 「三好は、寺と喧嘩ができぬ」長慶は言った。「神木を担がれる」


 久秀は、頭を下げた。


 下げたまま、言った。


 「その神木にて、一つ」


 「うむ」


 「担ぐには、南都が一つにならねばなりませぬ」


 長慶は、答えなかった。


 「神木を担ぎまするのは興福寺と春日社にござる。なれど都までの道は遠うござる。南都七大寺がこぞって肯かねば、あれは奈良坂を越えられませぬ。……二つの寺は、二百年、田の水と、山の木と、道の関で争うてまいりました。なれど神木のときだけは、東大寺も後ろで肯きまする」


 「割るか」


 「割れておりまする」久秀は言った。「割れておるものを、割れたままにしておくだけにござる」


 長慶は、椀を置いた。


 「三十二のうち、三か所は、添上そうのかみの郡にござる」


 「東大寺の荘か」


 「もとは。二百年のうちに、興福寺が押さえておりまする」久秀は言った。「その三か所は、そちらへ返しまする」


 雨の音が、しばらく座を埋めた。


 「東大寺は、何を出す」


 「北の関を」


 長慶が、こちらを見た。


 「――こちらも、丸ごとか」


 「丸ごとにござる」


 「兵庫津が、そっくり当家のものになるぞ」


 「なりまする」


 「……そなた、いま、儂の言うたことを、そのまま使うたな」


 「使いましてござる」


 久秀は、そこで初めて、少し笑った。


 「興福寺は、呑むか」


 「呑みまする」


 「三か所、取られてもか」


 「三か所ゆえ、呑みまする」


 久秀は、膝の上で指を組んだ。


 「呑まねば、三十二とも管領様の御裁きにかかりまする。その場に東大寺が座れば、二百年ぶんの帳が出て参りまする。どの荘がもとはどちらのものであったか、一つずつ数え直すことになりまする。……あの寺がいちばん恐れておりますのは、当家ではござりませぬ」


 「隣か」


 「隣にござる」


 言ってしまってから、久秀は、口を閉じた。


 ――申し上げませぬ、と申した。


 半刻前に、この座で、たしかにそう申し上げた。


 その半刻のうちに、いちばん深いところを、己から出している。


 出させたのは、神木を担がれる、という一言であった。


 この人は、勘定をしておらぬ。ただ、いちばん怖いものを口に出しただけである。


 それだけで、こちらの底が抜けた。


 長慶は、長く息を吐いた。


 吐いてから、白湯を飲み干した。


 「兄者」


 「は」


 「そなた、南都で坊主をしておればよかったの」


 「向いておりませぬ」


 「向いておる」


 長慶は、空の椀を膝から下ろした。


 「寺は、松永」


 そこだけ、呼び方が変わった。


 「そなたが、やれ」


 久秀は、頭を下げた。


 「は」


 この夜、いちばん短い「は」であった。


 短くしたのは、長くすれば声が変わるからである。


 一昨日に聞いた釜の名が、喉の奥へ浮いた。


 浮いたのを、白湯で流した。


 南都と付き合う役を、いま、主が己のほうから渡した。頼んでもいない。断る筋も無い。取り上げられてばかりであった半刻の終いに、一つだけ、渡された。


 顔を上げると、長慶はもう椀を戻している。呼び方は、そこで兄者へ戻っていた。

■用語解説


南都七大寺なんとしちだいじ…東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺。奈良の大寺の総称である。朝廷へ訴えを起こすときや神木を動かすときは、この七寺が足並みを揃えるのが建前であった。裏を返せば、一寺でも肯かねば、南都は動けない。

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