第30話(九)「流れ、変る」
久秀は、帳面を出した。
表紙が、湿りを吸って少し反っている。
墨を、下ろす。
一、月々の入り 一点
一、関 三十二――返す
一、荘 一つ、関 一つ――請くる
一、関 いま一つ――東大寺へ、これより
一、米 五百石――出す
一、借入 二点――二年にて返す
残り 六点
書いて、筆を置いた。
行が、六つある。
六つのうち、いちばん大きなものが、一行も無い。
久秀は、帳面を閉じた。閉じて、机の端へ寄せた。
戻った日に一日ぶんを付けるのは、十年あまり続けている習いである。
紙を引き寄せた。
柳田甚内へ宛てるものである。伊賀の出の男で、久秀の手の者を束ねている。
春先、甚内の手の者は飯盛と堺へ置いた。三好政長の陣と、堺の座を見させるためである。あのころ、いちばん危ういのは政長であった。
大和には、置かなかった。
置かなかったので、大和で家来が何をしていたかを、久秀は家来の口からしか知らぬ。旗の紋のことも、二日たってから耳へ入った。
いまは、置くべき先が変わっている。
――一庫。
二千の兵と、大和で勝ち癖のついた者どもが、ひと月のうちにあの城へ入る。入れば、あの山の下を人が通る。通れば、通ったことが目につく。
久秀は、書いた。
一庫へ入れ。城の内ではのうて、麓の道と、山の口を見よ。誰が入り、誰が出るか。数だけでよい。
書いてから、一行を足した。
池田の代官が来たときは、そのまま通せ。数だけ、控えておけ。
筆を止めた。
止めて、その一行をしばらく見ていた。
通せ、と書いた。止めよ、とは書かなかった。
止めれば、隠していることになる。通せば、見せていることになる。
見せておいて、数を控える。
――そういう男であったか。
今夜、坂の途中で己に言うたのと、同じ言葉が出た。
*
夜半に、水之江から文が着いた。
巻いてある。紐は細い。
開くと、三行であった。
――神木は、動き申さず。
なれど、この一行に、値はつけられませぬ。
この夏より前のことは、憶えております。この夏より後のことは、当てになり申さぬ。大和で城が八つ開いたことを、私は知りませんでした。
久秀は、二度読んだ。
値は、いかほどでも、と書いて出した。
その返しに、値がついていない。銭も、点も、書いてない。
あの小僧は、いつも先に値を言う。訊く前に、これは幾らにござりますと、こちらの懐を見ずに言う。
今夜は、言わなかった。
――売る気が、無かったか。
いや、と久秀は思い直した。
売れなかったのだ。
己の知らぬことが起きたと、先に申し立てている。憶えているものを売る商いで、憶えていないと言えば、その一行は売り物にならぬ。売り物にならぬものを、値をつけずに寄越した。
久秀は、その三行をもう一度読んだ。
神木は、動かぬ。動かぬということは、今日この身がやったことは、要らぬ手であったかもしれぬ。
要らぬ手を打って、寺を割り、荘を一つと関を一つ取った。
――要らぬ手であったなら、なぜ取れた。
答えは、出ない。
出ないまま、久秀はその紙を膝の上で平らにした。
平らにして、帳面を引き寄せ、今夜書いた行のところへ挟んだ。
薄い。
一葉を挟んでも、帳の厚みは変わらなかった。
*
灯を持って、立った。
奥へ移った。
静が、灯を引き寄せて縫い物をしている。久秀が入っても、手を止めない。止めずに、糸を切ってから顔を上げた。
顔を上げて、そのまま、しばらく黙っていた。
袴も、袖も、頬も、泥である。
「……転ばれましたか」
「転んだ」
「お怪我は」
「無い」
静は、立って、手拭いを取りに行った。
戻ってきて、久秀の頬へ手を伸ばし、途中で止めた。
止めて、手拭いを久秀の手に持たせた。
久秀は、己で拭いた。
「あの箱は、いつ開けられます」
久秀は、床の前を見た。
二月のあいだ、そこに置いてあった包みが、無い。
「……無い」
静の指が、糸のところで一度、止まった。
止まっただけである。
「殿に、差し上げた」
「二つとも」
「二つとも」
静は、うなずいた。
なぜ、とは訊かなかった。
この人は、二年前に嫁いできてから、なぜと訊いたことが一度も無い。
訊かぬのは、関心が無いからではない。
訊けば、答えねばならぬ。答えれば、答えた側に何かが残る。それを知っている人である。
「中は、御覧になりましたか」
「見ておらぬ」
「……左様でございますか」
それだけであった。
久秀は、その「左様でございますか」を、今夜二度目に聞いた。
一度目は、下の寺の老僧であった。
「――静」
「はい」
「手水を」
静が、顔を上げた。
この刻限に手水を所望したことは、これまでに一度も無い。
「それから、灯をもう一つ」
「もう一つ」
「二つ、要る」
奥の間に灯を二つ点けるのは、この家では正月のほかに無い。
静は、何も訊かずに立った。
立って、盥を運び、手拭いを添え、灯をもう一つ点けて、久秀の右の手前へ置いた。
置いてから、少し下がって座った。
久秀は、指を洗った。
爪の際の墨が、湯の中で、ゆっくりとほどけていく。今朝から、この墨は指にあった。書付を汚し、汗で滲み、老僧に見られた墨である。
洗いきるまでに、時がかかった。
拭いた。
拭いた手を、膝の上で一度、開いて閉じた。
包みを、膝の前へ置いた。
三重の布である。
いちばん上の結びを解いた。
結びは固い。指の腹で押さえて、少しずつ緩めた。急げば、布が裂ける。
一枚目を剥ぐ。
外の布は、雨を吸って重い。
二枚目を剥ぐ。
乾いている。
三枚目に、指をかけた。
かけて、そこで一度、手を止めた。
止めたのは、惜しんだのではない。
この一枚を剥げば、一昨日の座敷で見たものが、今度は己の家の灯の下に出る。
出てしまえば、もう、見なかったことにはできぬ。
久秀は、剥いだ。
鉄が、出た。
低い。裾が張っている。肩が無い。畳の上に、ぺたりと座った。
灯が二つある。二つあると、影が二た方へ出る。裾の張りが、両側から浮いた。
肌は、荒れている。錆は浮いているのではない、内から出てきている。乾いた土の色をして、そのくせ、灯を寄せると鈍く返す。
久秀は、灯を寄せた。
寄せてから、また少し戻した。近すぎると、景色が飛ぶ。
指を、口の作りへ当てた。
冷たい。
一昨日、あの座敷では手を出さなかった。墨がついている、と言って、出さなかった。
いま、当てている。
当てた指の腹に、鋳肌の粒が、細かく引っかかった。
「……よいお道具にござりますね」
静が、言った。
久秀は、顔を上げた。
上げて、はじめて、己が笑っているのに気がついた。
静は、値を訊かなかった。
訊かれれば、答えられぬ。
この釜が幾らであるかを言えば、なぜ幾らのものが我が家にあるのかを言わねばならぬ。言えば、寺の訴えを裁いた男が、その寺から什物を一つ受けた話になる。
訊かれなかった。
訊かれなかったことに、久秀は、たったいま気づいた。
気づいて、妻の顔を見た。
静は、縫い物を膝の上へ戻している。戻して、糸を通しはじめていた。
*
「……湯を」
「はい」
静は、立った。
久秀は、その背を見送らなかった。
釜から、目を離さなかった。
やがて、湯が来た。
炉は無い。奥の間に炉は切っていない。火桶に炭を継がせ、五徳を据え、その上へ据えた。
据えるとき、久秀は両の手を使った。
思ったより、重い。
重いものが、五徳の上で、ぴたりと座った。
水を注いだ。
注ぐ音が、鉄の中で低く回った。
待った。
どれほど待ったか、分からない。
城が八つあることも、二千の口が冬に開くことも、弟のことも、待っているあいだ、一度も浮かばなかった。
浮かばなかったことに、気づいてもいない。
やがて。
鳴った。
低い。広い。腹の底へ落ちてくる音である。
一昨日、布が剥がれた刹那に、この身の耳が勝手に聞いた音であった。
聞いたのは、思い違いではなかった。
久秀は、両の膝の上に手を置いて、それを聞いていた。
背が、まだ濡れている。
濡れた背へ、湯気が届く。
届いたところだけが、温かい。
――今日、何を得たか。
いま、この音である。
――何を、払うたか。
まだ、払うていない。
払っていないものは、いつか払う。それが銭でないことも、この身は知っている。
鳴っている。
鳴りやまぬうちに、久秀は、目を閉じた。
*
書院へ戻った。
湯の音は、襖を二つ隔てても届いた。
久秀は、文箱の蓋を開けた。
上に載せた帳を二冊どけると、下から書きさしが出てきた。
一行しか書いていない。弟へ宛てたものである。半月ほど前に書きかけて、そのままになっていた。
――そなたも、そろそろ。
そこで止まっている。
書いたときは、何を書くつもりであったか。
城を一つ持て、であったかもしれぬ。妻を持て、であったかもしれぬ。
久秀は、筆を執った。
執って、しばらく持っていた。
――城を一つ持て、と書けば、あれは一庫を出る。
――一庫を離れるな、と書けば、あの山を弟に負わせることになる。
どちらを書いても、書いた者の都合である。
今夜、主に訊かれた。
――そなたの弟は、いま何をしておる。
――一庫の城に入れてござる。
――ふむ。
それだけであった。
こちらが迷っておるあいだに、あちらは、もう決めておられるやも知れぬ。
筆先の墨が、乾いた。
乾いた筆を、久秀は硯へ戻した。
奥のほうで、まだ湯が鳴っている。
鳴っているうちは、何も決めずにいられる。
――鳴りやんだら、書く。
久秀は、そう決めた。
決めて、鳴っているのを、聞いていた。




