第30話(三)「流れ、変る」
天文十一年、水無月朔日。
昼になっても風がなかった。広間の障子はみな開け放してあるのに、庭の松の葉先ひとつ動かぬ。越水の城は西宮の海に近く、常なら潮の匂いを含んだ風が座敷を抜けてゆくのだが、この日は抜けるものがなかった。
久秀は上座に膝を据え、二人が土間から板の間へ上がってくるのを見ていた。
山本勘助は脚を庇いながら上がる。二月ぶりだが、その庇いかたが以前より深い。明智光秀は勘助の半歩うしろに控え、風呂敷に包んだ帳の束を胸の前で捧げ持っていた。二人とも埃をかぶっている。着替えて来いとは言わなかった。言えば、この二月が、ひと呼吸ぶん遠のく。
「ご苦労」
久秀はそれだけ言った。
言いながら、腹の底で別の刻を数えている。三日目である。今日の暮れまでに、あの坊官へ返事をせねばならぬ。関三十二か所を只で返すか、分けるか——いや、そんなことはどうでもよい。あの包みの中にあった、肌のざらついた古い釜のことである。堺へ売りに行く途中だと春覚は言った。今日、あれは越水を出る。
手は、何も打てておらぬ。
「まずは、数から申せ」
光秀が帳を膝の前にひらいた。声は低いが、澱まない。
「城、八つにござります。卯月の初めに信貴山、二上山、平群の谷の口の三つ。皐月に五つ加わりまして、都合八つ。うち葛下、広瀬、笠置の三つは、こちらから兵を寄せる前に門が開きました」
「開いたのか」
「開き申した」
勘助が横から、短く言った。濁った左の目が上座を見ていない。見ているのは久秀の顔ではなく、その少し下、胸のあたりである。
「兵、三千。名と役の分かりました者、四百に届きまする。庄は三十九。札の立ちましたもの二十六、返事の無いもの十三」
「返事の無いのは、返事をせぬということか」
「まだ、分かりませぬ。返事の無い庄には、こちらの札も立てておりませぬ。立てれば、立てたことになりますゆえ」
久秀は小さく頷いた。この男は数字を作らぬ。作れる位置にいて、作らぬ。
「三好の御家中から入った人数は」
「二百三十。開けました城の、主だったところには、残らず入っておりまする」
障子の外で、蝉が一度だけ鳴いて、やんだ。
開けたのはこちらである。門を叩き、飯を遣わし、庄の年寄を呼んで札を立てさせたのは、この二人と、その下についた者どもだ。
中にいるのは、向こうの者である。
「大和の内は」
「静かにござります」光秀は言った。「静かでござりまするが、静かすぎまする」
「申せ」
「筒井が、動いており申した」
久秀は、指を止めた。
大和には守護がない。二百年、あの国を持ってきたのは興福寺である。寺の荘を預かって土地に根を張った侍を、衆徒、国民と呼ぶ。筒井、越智、十市、箸尾——大和で名の通った家は、みなその出である。いまは己の田を持ち、己の名で戦をするが、もとは寺の下人であった。
その筆頭が、筒井である。当主は順昭、二十になる。動かせる兵、一千五百。
そして——太平寺まで、筒井は木沢と結んでいた。天文六年からこのかた、あの家は木沢と組んで越智を圧し、大和を分けてきたのである。
「木沢の遺した庄へ、手の者を入れておりまする。……入れました先が、ことごとくこちらの札の下にござりました」
「刃を交えたか」
「交えており申さぬ。筒井は、まだ勝った側に数えられておりませぬゆえ」
そうであろう。組んでいた相手が三月に討たれ、結んでいた側は宙に浮いた。浮いたまま木沢の遺領を取りに出て、行く先々で三好の札にぶつかっている。寺に叱られ、他国者に先を越され、勝った側にも入れてもらえぬ。
二十の当主が、それを飲み込めるかどうか。
「では、何をしておる」
「道にござります」
光秀は帳をめくった。
「柳生から笠置へ荷を出しましたるとき、東山内の道で二度、荷留に遭い申した。関ではござりませぬ。木が倒れてあるとか、橋の板が抜けてあるとか。……人足も、東山内では雇えぬようになりました。値が三倍に上がりまして、それでも出て参りませぬ」
「筒井の手か」
「そうとは、書けませぬ。書けぬように、やっておりまする」
久秀は舌の裏で、小さく唸った。
刃を交えてくれれば、咎める先がある。木が倒れているだけなら、咎める先が無い。
「柳生は」
「当座の預かりのままにござります。上裁は、まだ下り申さぬ。……柳生の庄へ、月に二度、筒井の使いが参るようになったと」
東山内の口である。あそこを押さえられたということは、筒井から見れば伊賀へ抜ける道の入口を、他国者に塞がれたということであった。しかも上裁が下らぬ限り、こちらは返しも取りもできぬ。塞いだまま、動かぬ。いちばん腹の立つ塞ぎかたである。
「越智と十市は」
「様子を見ており申す。越智は、木沢に押さえられておった側にござりますれば、いまは息を吹き返しつつあるようで。……箸尾からは、庄を二つ、こちらへ寄せたいと申して参りました」
「受けたか」
「受けており申さぬ。受ければ、筒井と境を接しまする」
久秀は、頷いた。頷いてしまってから、頷いた己に気がついた。
この男は、受けなかったことを報せに来ている。受けなかったのは正しい。正しいことを、誰にも訊かずに決めている。
「三好の御家中は」
「三好長逸様が、人を入れてくださりました。二百三十」光秀の声が、そこで平らになった。「入れてくださった、と書くほかござりませぬ」
「榎並は」
「二度、人が参りました。旗の数を数えて、帰られました」
久秀は、扇を膝の上に置いた。
置いてから、しばらく黙っていた。
黙っているあいだに、勘助が、板の間を指の腹で二度、叩いた。
「殿。八つ、開き申したが——一度も、攻めており申さぬ」
「聞いておる」
「門は、いつも先に開いており申した。某が着きましたる時にはもう、庄の年寄が筵を敷いて待っておる。飯を炊いて待っておる者もござった。……某は、飯を食うて帰って参りました。八度」
言い終えて、勘助は右の手を膝の上で握った。指の節が白くなるほど強く握って、それから、思い出したように緩めた。
「堀切を、どこで切るか」
「うむ」
「信貴山の北の尾根は、あれは三筋ござる。真ん中の一筋を落とせば、東の谷からの道が死に申す。二上山は逆で、水の手を抑えれば石垣は要らぬ。葛下は——」
そこで、勘助は止めた。
久秀が止めたのではない。誰も止めていない。勘助が己で、喉の途中で切った。
「……どなたも、お訊きになりませなんだ」
板の間に、蝉の声がまた入ってきた。
久秀は、扇を取った。
取って、畳へ置いた。音が、思ったより高く鳴った。
「そなたたちに、大和を切り取り自由と申したか」
勘助が顔を上げた。光秀の指が、帳の上で止まった。
「わしも、殿より、さような下知は受けておらぬ」
久秀は膝を立てた。
「よいか。畿内は、出た杭が討たれる国じゃ。応仁より七十年、公方様も、管領様も、誰ひとり畿内を押さえきれなんだ。押さえきる者がおらぬゆえ、誰もが上を目指す。目指しながら、己より先へ出た者の足を、皆で引く」
声が、抑えきれずに高くなった。
「木沢を見よ。あと一歩であったのだぞ。河内の守護代を下から取り、山城の南を掌に載せ、大和では寺の関を三十二か所まで押さえた。あと一歩で、あの男は畿内の主になっておった。……そのあと一歩のところで、皆で寄ってたかって潰した。潰した中には、当家もおるわ」
「……」
「出た杭であったからじゃ。それだけの理由で、あの男は死んだ」
久秀は、そこで一度、息を吸った。
吸って、吐いた息のほうが、震えた。
「そなたら、先代様を存じておるか」
勘助は答えぬ。二年前に買われた男である。光秀は去年の暮れに来た。知るはずがない。
「三好元長様じゃ。大殿の父御にあたられる。……十年前、堺の顕本寺で腹を召された。三十二であられた」
「……」
「あの御方も、あと一歩であった。管領様を担ぎ上げ、畿内を平らげ、これからという時にな。味方であったはずの者どもが、足を引いた。門徒を煽って堺を囲ませ、逃げ場を塞いだ」
久秀は、二人を見た。
「煽った男の名を、申そうか」
勘助の白い目が、動いた。
「木沢長政じゃ」
風のない座敷に、その名が落ちた。
「そなたらが八つ取ってきた城の、もとの主じゃ。大殿は、父御を死に追うた男の遺した城を、家来の家来が拾うて旗を立てた家中の主として、いま管領様の御前に座っておられる。……分かるか」
「……」
「貴様ら、大殿を、先代様と同じ目に遭わせるつもりか」
久秀は、そこで畳を打った。
打ってから、己の掌が痺れているのに気がついた。
勘助が、額を板へつけた。
「……申し訳も、ござりませぬ」
光秀が帳を脇へ置き、両手をついた。何も言わずに、頭を下げた。
二人の背が、しばらく上がらなかった。
久秀は、その二つの背を見ていた。
見ながら、指を三本立てた。
「わしが申しつけたのは、三つじゃ。木沢の帳面を、兵より先に押さえよ。蔵の箱を取れ。木沢の名で書付を出しておった庄を、散る前に見ておけ。……その三つで、国が一つ、こちらの帳に載った」
「は」
「楽毅を知っておるか」
「……存じませぬ」
勘助が言った。光秀は答えない。答えぬということは、知っているのであろう。
「燕の将じゃ。斉の七十余城を下した。下したところで王が代わり、疑われて、逐われた。……城を七十取ったゆえに、逐われたのじゃ」
久秀は座り直した。
「そなたらは、八つじゃ。八つでよかった。八つのうちなら、わしが叱っておけば済む」
顔を上げよ、とは言わなかった。
言わずに、続けた。
「次は、無い」
声を、平らに戻した。
「城を取るな、とは申さぬ。取る前に、一言、寄越せ。それだけじゃ。飛脚は三日で越水へ着く。三日待てぬ城なら、取るな」
「……は」
「よい。面を上げよ」
二人が身を起こした。勘助の額に、板の目が赤く残っている。
久秀は、そこで少しだけ、声を緩めた。
「そのうえで、申しておく」
「は」
「よう、やった」
勘助の顎が、わずかに動いた。
「二月で城を八つ、兵を三千。刃を交えずにじゃ。……わしにはできぬ。大殿にもできぬ。畿内に、これができる者は幾人もおらぬわ」
久秀は扇を取り、膝の上で開いた。開いて、すぐ閉じた。
「そなたらの働きは、当家の帳には載らぬ。載らぬようにしたのは、わしじゃ。……なれど、わしは覚えておる」
「……」
「そのうえで、手放す」
勘助の顔が、上がった。
「手放す、と仰せられまするか」
「足を引かれぬためには、こちらから先に置いてゆくほかない」
久秀は指を折った。
「笠置は、三好の人が入る。河内の遊佐へは、大殿から返していただく。管領様への言上も、大殿がなさる。……松永の名は、どこにも出ぬ」
「それでは、当家には何も残り申さぬ」
「残らぬ」
久秀は言った。
「残らぬが、生きる。……出た杭にならぬためには、己で己の頭を削るほかないのじゃ」
勘助は、何か言おうとして、やめた。
やめて、板の間を見た。
「坊主どもも、早速陳情に来おった」
「南都から、にござりまするか」
「一昨日じゃ。関を三十二か所、返せと。……寺門の評定で決したそうな」
「返されまするので」
「返さねばなるまい。返して、そのうえで分ける」
久秀は、扇の要のところを指の腹で撫でた。
「今夜、大殿へ取り次ぐ」
言いながら、腹の底が一度、疼いた。
今夜、この一件を殿の前へ持ってゆく。持ってゆく己の声に、堺へ発つ釜のことが、必ず一分は混じる。混じっていることを、己で知りながら喋ることになる。
「勘助」
「は」
「そなた、わざとであろう」
白い目が、動いた。
「一庫が落ちたあと、そなたは次を申した。わしは、止めた。……あれを、不満に思うておったか」
座が、静まった。
光秀が帳を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。
「答えよ」
「……不満は」勘助は、ゆっくり言った。「不満は、ござりませぬ」
「では」
「ただ、覚えており申す」
勘助は、濁った目のほうを久秀へ向けた。そちらでは何も見えぬはずなのに、そうした。
「牢人が九年ござりました。九年のあいだに覚えたことは、忘れませぬ。……止められたことも、同じにござる」
久秀は、それ以上訊かなかった。
訊けば、この老人は答える。答えたことは、消せぬ。
そして、城が八つある。八つの城が、この老人の背後に立っている。詰めた先で「では、返しまする」と言われたら、返される先が無い。
「……よい」
自分で、そう言った。
言ってしまってから、これで終いになったと分かった。終いにしたのは、久秀である。
「蔵は」
次に出たのは、その一言であった。
自分でも、思いのほか早く出た。この二月、久秀が己から発した問いは、これが初めてである。ここまで、すべて向こうが差し出したものを受け取っていただけであった。
だが目録には、蔵の欄がない。
城が八つ開いたのなら、蔵も八つ開いたはずである。米、銭、布、そして——
光秀の指が、帳の上でとまった。
とまったのは一瞬である。ふつうなら見過ごす。だが久秀は、人が息を継ぐ位置で嘘をつくのを、祐筆として十年見てきた。
「米は、葛下にて千二百石、広瀬にて八百。笠置は、木沢の米を運び込んでおりまする最中にて、四千石余。銭は都合、九十貫と少々。布は嵩がありますゆえ、庄へ配って、札の代わりに——」
「うむ」
「——道具の類は、一つもござりませなんだ」
久秀は、動かなかった。
動かぬように、腹に力を入れた。喉のあたりで何かが鳴りそうになるのを、唾を飲んで押さえた。汗が、うなじから襟へ落ちてゆくのが分かる。
訊いておらぬ。
蔵は、と訊いた。米は、と訊いてはおらぬ。道具は、とは、訊いておらぬ。訊かぬように、蔵と言った。この二月、茶の湯の道具などという語を、己の口から一度も出していない。帳にも書いていない。誰にも言うていない。
この男は、米と銭と布を先に並べ、最後に、まるで付け足すように置いた。
三月十九日の暁。信貴山から運び出させた桐の箱が二つ。塩の俵に紛れさせて、いま、この城の奥にある。どの帳にも載っていない。まだ開けてもいない。
——見られていた。
いつからかは分からぬ。柳田の手の者の口が緩んだか、それとも俵の目方が合わなんだか。どちらでもよい。この男は、それを帳に書かなかった。書かず、消しもせず、いま、口で、久秀ひとりに向けて置いた。
咎めているのではない。
測っておる。
「……さようか」
「さようにござります」
それきり、光秀は帳へ目を戻した。
久秀は、いましがた己が何を言ったかを思い返した。殿を先代様と同じ目に遭わせるつもりか、と怒鳴った。その同じ口で、蔵の中の道具を訊いた。
この男には、両方が見えている。
「……明智」
「は」
「東山内の荷留の件、書付にして出せ。三好の御家中へ回す」
「畏まりました」
光秀は、そこで帳をめくった。めくった先に、一行だけ書いてある。久秀の位置からは字は見えぬ。だが、そこに一行あることは見えた。
「いま一つ、申し上げておくことがござります」
「申せ」
「平群の谷にて、二軒、焼けており申した。門を開けさせるときの手違いにて。……銭を二貫、その庄へ置いて参りました。松永の銭ではござりませぬ。それがしの銭にござります」
「なにゆえ、わしの銭で置かぬ」
「松永の銭であれば、施しになりまする」
光秀は、顔を上げずに言った。
「明智の銭であれば、貸しにござる」
久秀は、しばらく黙った。
「……返させるか」
「返しまする。銭ではなく、人で。あの庄は、次に人足を出すとき、値を三倍にはいたしませぬ」
私費の二貫を己の帳に書く男が、桐の箱二つを、どの帳にも書かなかった。
書かぬものと、書くものとを、この男は分けている。分ける物差しを、己で持っているということである。
久秀は立った。立って、開け放した障子の外を見た。松は動かぬ。海のほうは白く霞んでいる。あの霞の向こうに堺がある。
背を向けたまま、言った。
「二人とも、湯を使え。飯を食え。……それから——」
言いかけて、やめた。
蔵をもう一度見て参れ、とは言えなかった。
「……いや。よい」
勘助が先に立った。脚を引く音が、板を擦る。
光秀は、帳を三冊、抱え直した。抱え直して、立ちかけて、そこで一度、足を止めた。
「殿」
「なんじゃ」
「……堺の道は、三筋ござりまする」
久秀は、答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
二人が下がってゆく足音を、久秀は背中で聞いていた。勘助の、脚を引く音が半拍おくれる。その半拍が板の間を渡りきるまで、久秀は動かなかった。
風が、来ない。
汗が、また一筋、うなじを落ちた。
目を閉じると、瞼の裏に、あの日、坊官が包みからそっと出した釜の肌が浮かんだ。鉄が古びて、ざらついて、指を当てれば冷たかろうと思わせる肌である。あれが今日、この城を出る。
そして今夜、己は殿の前で、寺の関のことを申し上げる。
私心が混じった声で。
奥の一間には、開けていない桐の箱が二つある。
塩の匂いが、まだ抜けきっておらぬはずであった。




