第30話(二)「流れ、変る」
同じ日の夜、摂津の水之江荘は雨であった。
雨脚は細い。水江朔は、板間に油皿を一つ置き、その脇に文を広げていた。
十六になる。この村の生まれで、いまは荘の差配をしている。松永久秀とは二年前からの付き合いで、久秀の家来ではない。売り買いの相手である。
朔が売っているのは、まだ来ぬ世のことであった。
どこで戦が起き、誰が死に、どの家が伸びるか。銭では受け取らない。点という数で払ってもらう約定にしてある。銭で受ければ、いつか払いきれなくなった側が、払うかわりに売り手を消す。点なら、そうはならない。
その約定そのものが、松永の家中のほとんどの者に知られていない。
だから文には、書けない。
越水から来る文には、差出の名も無い。ここへ名の無い文が来るのは、久秀からのときだけである。
文は、短かった。
久秀の文は、いつも長い。訊きたいことを紙に書けないので、遠回りにしか書けず、遠回りにしても中身が無いから、行数だけが増える。
今夜のは、四行しかない。
――南都の神木は、動き申すか。動けば、三好はいかがなる。値は、いかほどでも。三日のうちに。
朔は、三度読んだ。
一度読めば覚える。この身は、一度目を通したものを忘れない。忘れないのに、三度読んだ。
値は、いかほどでも——この人が、そう書いたことはない。二年のあいだ、一度も無い。値を切るのが商いだと信じている男である。それが、値を捨てた。
余程のことが、あったのだ。
*
答えは、知っている。
天文十一年、春日の神木は都へ入らない。文亀の昔からこのかた入っておらず、この先も、朔の憶えている限りでは入らない。三好は太平寺の勝ちで畿内の重石になっていき、寺と喧嘩をして潰れる、などということは、起こらない。
書けば、一行で済む。
――動き申さず。
朔は硯を引き寄せた。
墨を磨り、筆を取り、書き出しの一字を置いて――止まった。
大和で城が八つ開いたと、村へ入る荷とともに聞いた。兵は三千とも、それ以上とも言う。
松永の家来が二人で国を一つ算え上げた、という話は、朔の頭のどこを探しても出てこない。無いということは、変わったということである。
変わった世で、変わる前の答えを売ってよいのか。
石を置いたのは、己である。置いた石で水の道が変わったことも、己が知っている。それでいて、変わる前の絵図を広げて、ここに岩がありまする、と指差す。
――それは、まだ商いか。
筆先の墨が、紙へ落ちた。
朔はその紙を破った。
二度目は五行書いて、破った。三度目は、書き出しだけで止まった。
四度目を破ったところで、板間の隅で声がした。
「……また、あの御方からか」
朽木玄斎が、いつのまにか框に腰を下ろしている。
いつから、そこにいたのか。
五十七になる老人で、朔の剣と世事の師である。もとは細川高国の直臣であった。高国が滅んでから流れて、この村へ来た。いまは朔の傍にいる。
雨に濡れた肩を拭きもせずに、破られた紙のほうを見ていた。
「はい」
「読んで、書いて、破っておるな。さっきから四度」
玄斎は手を伸ばして、破った紙を一枚拾った。拾って、油皿の火へ近づける。
朔は、口を開いた。
「――」
返せ、と言いかけた。
言わなかった。言えば、憶えているのに惜しんでいることになる。書き損じの紙を惜しむ理由が、この身にはどこにも無い。無いはずである。
紙は、端から縮れて燃えた。
「書けぬのか」
と、玄斎が言った。
「それとも、書きとうないのか」
朔は答えなかった。
「どちらでもよいがな。……ただ、そのふたつは、まるで違う」
老人は燃え残りを草履の裏で踏み、そのまま踏んだ足を退けずにいた。
「書けぬなら、書けぬと出せばよい。売り物の無い日に、無いと言うのは商人の正しさじゃ。……書きとうないのは、別じゃ。それは、当たる自信があるということじゃ」
図星であった。
朔は膝の上で指を組み、それから解いた。
*
当たる、と思っている。
なぜそう思うのかを、朔は己で知っていた。
この人は、いま死なない。
三十五年ほど先に、大和の山に籠って死ぬ。焼く寺のことも、降る先のことも、その最後に懐へ抱えている釜の名まで、この身は憶えている。
三十五年先まで名の残る男が、天文十一年の皐月に、神木ひとつで潰れるわけがない。
だから、動かぬと書ける。
――この人が、どうやって死ぬかを知っているから。
書ける根拠が、それであった。
「……平蜘蛛」
声に、出ていた。
出してから、気がついた。
雨の音がそれを消してくれたかどうかは、分からない。
「なんじゃ、それは」
玄斎が、框から訊いた。
朔は答えなかった。答えれば、その先を訊かれる。誰の物か。いつのことか。なぜ知っておるのか。
訊かれて答えられることが、この身には一つも無い。
「……いえ」
玄斎は、それ以上訊かなかった。
訊かずに、しばらく雨の音を聞いていた。それから、思い出したような調子で言った。
「わしはな」
「はい」
「享禄四年に、主を亡くしておる」
朔は、顔を上げた。玄斎が己から高国の名を出したことは、これまで一度も無い。
「摂津の大物じゃ。押されて、押されて、最後は尼崎の町屋に隠れておられた」
老人の声は、平らであった。
「その前の晩に、わしは申し上げた。持ちまする、と。……堺の衆はまだ動きませぬ、阿波の兵は海を渡り申さぬ、あと十日は持ちまする、と。そう読んだのじゃ。読んで、そう申し上げた」
「……」
「三日で、落ちた」
燃え残りの灰を、老人は爪先でならした。
「読み違えたことを恥じておるのではない。人は読み違える。……わしが恥じておるのは、あの晩、己の読みを、口に出すときに、少しも迷わなかったことじゃ」
朔は、何も言えなかった。
「主は、わしの顔を見て安堵なされた。安堵して、その顔のまま死なれた。……迷わずに申し上げたゆえ、あの御方は逃げる支度をなさらなんだ」
玄斎は、そこで朔を見た。
「そなたの言葉は、よう当たる。当たるゆえ、聞いた者は支度をやめる」
*
朔は、五度目の紙を引き寄せた。
書くべきことは、決まっている。書きかたが、決まっていない。
しばらく筆を持ったまま座っていた。それから、一行書いた。
――神木は、動き申さず。
書いてから、行を空けて、もう一行書いた。
――なれど、この一行に、値はつけられませぬ。
朔は、その二行を見た。
値のつかぬものを渡すのは、商いではない。二年、そうやって身を守ってきた。値をつけるから、この身は道具であって、道具は捨てられない。只でやれば、只の子供になる。
それでも、書いた。
三度目に、また行を空けた。
――この夏より前のことは、憶えております。この夏より後のことは、当てになり申さぬ。大和で城が八つ開いたことを、私は知りませんでした。
筆を置いた。
これで、値は決まらない。値の決まらぬ答えを、あの人がどう使うかも、決まらない。
――それでよい。
支度をする余地を、四行目に残した。玄斎の主が、持たなかった余地である。
朔は文を巻き、紐をかけた。
かけてから、火を吹き消さずに、しばらくそこに座っていた。
破った紙が、机の端に四枚たまっている。玄斎が一枚くべたので、三枚である。
三枚を、朔は片づけなかった。
「渡すのか」
と、玄斎が言った。
「渡します」
「銭は」
「もらいません」
老人は、少しのあいだ黙っていた。
「……高うついたな」
朔は、答えなかった。
高くついた。売れば一点、月々の入りの一月ぶんである。二年かけて積んだ帳の、その一行を、今夜は書かない。
それでも、三十五年先の山の話を知っている者が、今夜、この人に「大丈夫でございます」と言い切ってしまえば――玄斎が言ったとおりのことが起きる。
言い切らずに渡す。それが、この身に払える精一杯の代であった。
雨脚が、少しだけ強くなっている。
玄斎は、燃え残りの灰の上に、まだ足を置いたままでいた。




