第29話(六)「柳生の庄」
幔幕を出て、馬を引いた。
順昭が、途中までついてきた。送るというより、幔幕の内に居たくなかった、という歩き方であった。供はいない。布施は残った。河原の石を踏む音が、しばらく二人ぶんだけ続いた。
光秀は、そこで足を止めた。
「――お返し申す物が、ござります」
懐から、木沢の帳の一枚を出した。写しではない。抜いてきたそのものを、両手で差し出した。
「木沢様の帳に、細川氏綱様の御名にて出た銭がござった。……受け方の名は、当家の帳合いには要り申さぬ」
順昭は、受け取らなかった。
しばらく、受け取らなかった。
やがて、手が出た。出るまでに、間があった。
受け取って、開かなかった。開かずに、袖へ入れた。
「……写しは」
言いかけて、口を閉じた。
訊けば、答えは返る。返った答えを、確かめようがない。訊かぬほうが、まだましであった。
川の音だけが、しばらく続いた。
「苗代は」
順昭が言った。
声が、それまでと違っていた。低くもなく、高くもない。ただの、十九の声であった。
「……まだ、蒔き直せるか」
焼いた本人が、訊いている。
「卯月の内なれば、間に合い申す」
「五月に入れば」
「半分にござる」
順昭は、それを聞いて、うなずいた。
「明朝、退く」
言って、背を向けた。
馬を引いて戻っていく音が、河原の石の上で、しばらく続いていた。
*
翌日の昼過ぎ、宗厳が笠置へ着いた。
荷は、太刀が一振りだけである。
板の間へ上がると、包みを解いて、それを前へ置いた。
「父より、これを」
「……」
「名のある物では、ござりませぬ」
言い方が、まっすぐであった。値打ちのある物を出すときに人が使う言い方ではなく、値打ちの無い物を、値打ちが無いと言って出す言い方である。
光秀は、受け取った。受け取って帳を出し、峠から持ち帰った笠を、その端へ置いた。
平三の物である。縁が破れて、内側の紐が擦り切れている。二十年、同じ被り方をした者の擦れ方であった。
開いた頁に、三十三という数字がある。その隣の欄は、まだ空いていた。
光秀は一文字も書かず、帳を閉じた。
*
長逸は、蔵の前にいた。
着いた日に一度も腰を下ろさなかった老人が、今日は框に座っている。柳生へ出した申し付けの控を文箱へ入れ、紐を結んでいるところであった。
結びながら、言った。
「兵糧の警固じゃ。掃討の妨げではないぞ」
「はい」
「これは、河内へ聞こえる。聞こえたときに、そういう話になっておらねばならぬ」
結び終えると、顔を上げた。
「明智殿」
「はい」
「儂は、三十年、人の顔を覚えて参った」
「……」
「そなたは、会うたこともない国を、櫃三つで覚えたな」
「……」
「よい家人は、いずれ、人が欲しがる」
光秀は、頭を下げた。
下げたところで、老人はもう見ていなかった。
*
越水である。
夜であった。
久秀は、笠置から上がってきた書付を読んでいた。詫びが、一行も無い。
筋は通っている。宿老の名が立ち、主家の名が立ち、道が開き、米が着く。庄が一つ、三好家の預かりになった。
――松永の名が、どこにも無い。
久秀は、灯を横へ回した。
脇に、半月前の受取が置いてある。法隆寺のものである。あれにも、松永の名は無かった。
二つを並べてみた。並べて、何も言わなかった。
わしは、この男に、こういうことを教えた覚えが無い。
読み返して、最後の一行で、手が止まった。
――木沢の帳に、細川氏綱様の御名にて出た銭がござった。受け方の名が帳合いに要りませぬゆえ、返し申した。
久秀は、その一行を三度読んだ。あの名が動くのは、年の暮れである。買うた書付に、そう書いてあった。年の暮れまで置いておけば、あの一枚は、一国に値した。
八か月、早い。
しかも、返している。返された側には、八か月ある。証文を焼くことも、先に詫びに行くことも、腹を括ることもできる。
久秀は、書付を膝へ下ろした。
――間違うてはおらぬ。
どこを取っても、正しい。
正しいことを、わしの相場を知らぬ者が、わしの物でやった。
あの岩山に、誰を置くか。
考えかけて、久秀は、そこで考えるのをやめた。
帳面を出した。墨を、下ろす。
一、柳生ノ庄 当座ノ預カリ――三好長逸様御名ニテ
一、人 十七
残り 五点
書いて、筆を止めた。
止めてから、もう一行、書き足した。
一、剣 百年分
値が書けなかったから、年を書いた。
*
脇に、包みが一つ置いてある。
笠置から、書付と一緒に届いたものであった。柳生の庄より当座の礼として、とある。名のある物ではない、と添え書きがしてあった。
久秀は、それを抜いた。灯を近づけた。
見えない。
地が沈んでいる。刃文も、鍛えも、灯の下では浮いてこなかった。手入れが悪いのではない。研ぎ減っているのでもない。ただ、見せるようにできていないのである。
灯をもう一つ持ってこさせた。二つにしても、同じであった。
久秀は、値の分かるものを、値の分かるうちに買うてきた。分からぬ物には、手を出さぬことにしていた。
「……百年分とは、どれほどのものか」
誰にともなく言って、久秀は、それを納めた。
鞘の鳴る音が、思うたより高かった。
■用語解説
・小柳生荘…大和国添上郡の谷あいの荘園。元弘元年(1331年)、柳生永珍が六波羅探題方と戦った功により、後醍醐天皇から賜ったと伝わる。以来、柳生を名字として二百年、同じ谷に続いた。菅原姓を称する。石高でいえば小さく、単独で領地を守れるほどの家ではないが、由緒だけは古い——戦国の大和には、この種の家がいくつもあった。
・大和の無事…「無事」とは、この時代、和平・停戦・私闘の停止を指す語である。天文9年(1540年)10月、幕府の斡旋により、木沢長政と筒井順昭の二人に大和の無事が申し付けられた。争いをやめさせる役を、争っている当人二人に負わせるやり方であり、幕府に大和を抑える力がもう無いことの裏返しでもあった。『大館常興日記』に見える。
・上裁…上位の権威に判断を仰ぐこと。またその裁定。中世の相論では、当事者の力が拮抗すると、勝ち負けを決めるより「上へ上げて、下りるまで双方手を出さない」形に持ち込むほうが実利のあることが多かった。下りるのが遅いほど、現状のまま押さえている側が得をする。
・東山内…大和国の東部、添上郡の山間一帯を指す呼称。柳生・簀川などの小領主が谷ごとに割拠し、この地を抜けると伊賀へ出る。奈良から見れば辺境だが、伊賀・山城への通路として、大和の国人にとっては値打ちのある方面であった。
・安堵状…所領の領有を上位者が公に認め、保障した文書。中世の武家にとって「土地を持つ」とは、この一通を持つことであった。ただしその効力は、発行した者の力に支えられている——書いた者が死ねば、誰もその一通を履行しない。反故になった安堵状を、それでも捨てられずにしまい込んでいる家は、戦国の畿内にいくつもあった。
・細川氏綱…細川高国の跡を継ぐと称し、当時の管領・細川晴元と家督を争っていた人物。天文11年(1542年)の時点ではまだ兵を挙げていないが、水面下で銭と人を集めている。晴元方に属する者の帳簿に氏綱名義の支出が残っていれば、それは謀叛への加担を意味した。




