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第29話(五)「柳生の庄」

日が落ちてから、東へ一里下った。


 筒井の陣は、川の曲がりの内側の河原に張ってある。幔幕が三張り、その後ろに小屋掛けが続き、火が点々と並んでいた。光秀は歩きながら数えたが、途中でやめた。実の数より多く見えるように置いてある火である。数えても、数は出ない。


 匂いで分かることが、一つあった。


 飯を炊いている。米である。


 この者どもは、大和から米を担いで来て、それを河原で炊いていた。卯月では、田から取れる物が無いからである。しかもその田を焼いたのは、この者どもであった。


 光秀の膝から下は、泥であった。峠のものである。落として来る間が無かった。


 三好の旗が、二本、前を行く。長逸が出した使番がひとりと、旗持ちが二人。合わせて四人であった。


    *


 幔幕の前に、馬が一頭、立っていた。


 乗っている。


 下りぬ男であった。


 十九である。人を斬らせたことはあっても、人に斬られたことのない年ごろの顔であった。


 馬の左に、老人が立っている。六十がらみで、背が低く、肩の肉が落ちている。くつわのあたりに手を置いたまま、動かない。布施という者だと、あとで知れた。


 「――誰の下知じゃ」


 馬の上から、それだけ言った。


 「三好長逸様の申し条にござる」


 「そなたは」


 「笠置を預かる者にござる」


 老人が、そこではじめて口を開いた。


 「家来の、家来にござるな」


 声は、若殿へ向いていない。光秀へ向いている。


 「使者と申されるが、いずれ様の使者じゃ」


 「――長逸様の申し条にござる」


 同じことを、二度言った。


 三好の使番が、前へ出た。


 「口上を申し上げる。三好長慶が名において、柳生の庄の儀、管領様へ言上つかまつってござる。上裁の下りるまでは、何人も手を付けるべからず。……当家の兵糧の警固にござれば、掃討の妨げにはあらず」


 布施が、袖の中で指を動かした。


 「書付は」


 「柳生家厳に渡してござる」


 「見せよ」


 「御所望ならば、取り寄せまする」


 老人は、少し黙った。


 「……それでは、遅い」


 取り寄せられる。だが、間に合わない。


 間に合わぬということを、先に口に出したのは、筒井の側であった。


    *


 順昭が、あぶみを踏み直した。


 「大和は、御寺の国じゃ」


 この日はじめて、長く喋った。


 「当家は、御寺の衆徒の棟梁である。……大和のことは、大和で決めるのが筋にござろう。摂津の御方が、山を越えて申し条を出される筋ではない」


 「……」


 「それとも、三好家は木沢の残りを庇われるか。庇われるなら、そう聞いておく」


 言い方が、若い。


 理は通っている。通っているが、覚えた者の言い方であった。誰かに教わって、そのとおりに並べている。並べ終わると、次が無い。


 「筋にござる」


 光秀は、否まなかった。


 「その筋を、公方様が申し付けられたと伺うており申す」


 「……」


 「大和の無事――木沢殿と、筒井殿。お二人にでござる」


 順昭は答えなかった。


 「その一方が、死に申した」


 「……」


 「残る一方が、いま、庄を焼いており申す」


 それだけであった。


 権が移ったとは、言っていない。破ったとも言っていない。言ったのは、二つの事実だけである。だが二つを並べて置いてしまえば、あいだの一行は、聞いた者が自分で埋めることになる。埋めた者は、それを口に出せない。


 「――上へ、訴え出ることもでき申す」


 順昭が言った。


 「訴え出られませ」


 光秀は、間を置かなかった。


 「訴えの筋は、河内の御方を通り申す。……そのうえで、御奉行が調べられまするのは、誰が木沢方であったか、にござる」


 「……」


 「調べるとき、出て参りますのは、木沢様の帳にござります」


 順昭の膝が、鞍の上で一度、締まった。


 馬が、それを合図と取って、半歩、前へ出た。出たところを、布施が押さえた。


 押さえた老人の手の甲に、筋が浮いている。


 順昭が、手綱を返した。


 馬の首が、半分だけ回った。


 布施の手が、轡にかかった。


 この老人は、若殿の袖を引かなかった。引くのは、轡である。


 「若殿」


 布施は、若殿を見なかった。轡を見たまま、耳のそばで言った。


 「……河内の御方は、まだ御返事を下されませぬ」


 馬の首が、戻った。


 「――峠のことは」


 老人が言いかけた。


 「峠にては、何もござりませなんだ」


 光秀は、そう答えた。


 老人は、それ以上言わなかった。


 昨日の朝、あの道でこちらの十七人が死んでいる。向こうにも、いる。だが両家の帳に、それを書く欄が無い。書けば、三好と筒井が戦うたことになる。戦うたことにしてしまえば、この談判そのものが立たない。


 死んだ者は、どちらの帳にも載らない。


 「明智とやら」


 老人が、こんどは正面から光秀を見た。


 轡から、手が離れている。離した手を、袖の中へ戻した。


 「東山内の道は、どうなり申す」


 「通り申す」


 「誰が」


 「荷を持つ者は、みな」


 「――筒井の荷も」


 「筒井の荷も」


 老人は、うなずかなかった。


 「十市どのが、去年から同じ道を見ておられる」


 「存じており申す」


 「当家が退けば、明日にでも入り申そう」


 「上裁の下りますまでは、十市どのも手を付けられませぬ」


 布施の目が、そこで一度だけ動いた。


 止まっているのは、筒井の兵だけではない。止まっているあいだ、この道は誰のものにもならない。誰のものにもならぬ道は、いま兵を出している者にとっては、退いても失わぬ道である。


 布施は、それきり黙った。


 黙って、河原の火を見ている。見ながら、口の中で何か数えていた。数え終えてから、言った。


 「明日で、八日にござります」


 「布施」


 順昭の声が、そこで少し高くなった。


 「――算えるな」


 光秀は、その一言を聞いた。


 聞いて、何も言わなかった。


 三好の使番が、前へ出た。


 「長逸様より、いま一つ、口上を預かってござる」


 「申せ」


 「筒井順昭は木沢残党の一件につき、三好方と談合の上、当座預かりの筋に従い、兵を収めた。……そのように、書き付けまする」


 順昭は、動かなかった。


 動かぬまま、その口上を、頭の中でもう一度なぞっている顔であった。


 「庄を一つ焼いたと書かれるより、御役に立ちましょう」


 言ったのは、光秀である。


 河原の火が、風で一度に伏せた。伏せて、また立った。


 順昭が、光秀を見た。


 はじめて、まともに見た。見て、目が下へ降りた。三好の旗を背にして立っている男の、膝から下が泥である。


 「……そなた、名は」


 「明智光秀と申しまする」


 順昭は、繰り返さなかった。


 繰り返さずに、馬を下りた。下りるとき、鐙を踏み外しかけた。


 布施が、轡を持っていた。

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