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第29話(四)「柳生の庄」

夜が明ける前に、庄を出た。


 柳生の衆が二十六人。太刀のほかは、なたと、掛矢かけやと、縄である。荷を通す役ゆえ、それでよいと家厳は言った。家厳自身は庄に残った。当主が庄を空ければ、いま焼かれる、というのがその理由であった。


 宗厳は来た。


 列の三番目を歩いている。父に言われた場所であった。


 峠までは一里ある。上りにかかると、落葉の下の土がまだ濡れていた。踏むと、沈んでから戻ってくる。この山は、雨のあと三日は乾かぬ、と庄の年かさが言った。


    *


 峠の上に、三十人ばかりがいた。


 昨日の十人ではない。増えている。旗も、こんどは立っていた。


 南の斜面の下から、鈴の音が聞こえてくる。今朝、奈良を出た荷の列である。百六匹に、次郎太の者どもと、旧木沢衆が付いていた。音の間隔で、あと半刻とかからずに上がってくると知れた。


 光秀は峠の上へ出て、名乗った。


 「三好長逸様の御用にて、荷を通し申す」


 昨日と同じ男が、前に出てきた。


 「荷は、通さぬ」


 「昨日、人は通していただいた」


 「人は通した。荷は通さぬと、昨日も申した」


 光秀は、懐から書付を出した。出して、開いて、相手に見えるようにした。


 「三好長逸様の申し付けにござる。この庄の者どもが、当家の兵糧の道を警固いたす。……そして殿の御名において、この庄の儀は管領様へ言上つかまつってござる。上裁の下りるまで、何人も手を付けるべからず、と」


 男は、それを見た。


 見て、しばらく黙っていた。


 やがて言った。


 「……読めぬ」


 「読める者を、呼んでいただきたい」


 「呼んでも同じじゃ」


 男は、槍の石突を土へ突いた。


 「拙者は、通せと言われておらぬ」


 そこで、光秀の算えが一つ足りなかったことが知れた。


 言上は、上へ届く。届けば、上にいる者は動けなくなる。その理は正しく、昨日も今日も変わらない。


 だが、峠の上に立っているのは上にいる者ではない。三十人を預けられて、荷を通すなという下知を受けて、それだけを守っている男である。この男に対して、書付は何の意味も持たなかった。持たせるには、この男の上まで話を上げねばならぬ。上げるには、日数が要る。


 書付は、上には効く。


 目の前の男には、効かない。


 鈴が近くなった。


 荷の列の先頭が、南の斜面から見えてくる。馬の鼻面と、俵の丸みと、その脇を歩く者どもの笠が、下から順に上がってきた。


 次郎太が、光秀を見上げた。


 距離があるので、声は届かない。届かぬまま、この男は光秀の手元を見ている。手が上がるのを待っているのである。


 光秀は、手を上げなかった。


 上げれば、槍の値になる。昨日、この男に呑ませた値である。上げずに済ませる道が、まだ一つあるはずであった。書付を上へ上げ、日数をかけ、そのあいだ荷を止める。止めれば、ふた月が三月になる。三月になれば、笠置の蔵は空のまま夏に入る。


 ――算えるな。


 そう思ったのは、はじめてであった。


 光秀は、手を上げた。


 最初に当たったのは、荷の列の先頭である。


 筒井の者が斜面を下りて、先頭の馬の口を取ろうとした。取らせまいとして、馬を曳いていた男が縄を引いた。引いた縄が首に食い込んで、馬が跳ねた。跳ねた馬が、後ろの馬に当たった。


 それだけで、列が半分崩れた。


 声は、しばらく出なかった。


 押し合いというものは、静かなものである。互いに槍の柄を握って、体重をかけて、足で土を掻く。掻いた土が飛ぶ。息が荒くなる。だが叫ぶ余裕は、押しているあいだは無い。


 斜面が味方をしていた。筒井は上、こちらは下である。下から押し上げるには、二人ぶんの力が要る。


 次郎太の者どもが、それでも上げた。


 日銭で雇われた者どもである。三日で銭が尽き、四日目からは主の銭を待つことになる者どもである。その者どもが、他家の米を積んだ馬を、他家の道へ上げようとして、土を掻いていた。


 柳生の衆は、光秀の脇から入った。


 どれがどれか、分からなかった。二十六人が、みな同じように泥をかぶって、同じ方へ体を傾けている。


 二十六人が、峠の上の三十人へ横から当たった。当たって、押した。押しながら、鉈で藪を払って回り込む者がある。この山を知っている者の動き方であった。


 筒井の陣笠が、三つ、四つ、斜面を転げていく。


 半刻ほどであった。


 筒井の側から、笛が鳴った。


 鳴ると、上の者どもが下がりはじめた。下がりながら、荷の列のほうへ石を落としていく。落とされた石が馬に当たり、馬が斜面を横滑りに落ちた。俵が三つ、四つ、縄から外れて転がった。


 次郎太が、はじめて声を出した。


 「引けッ」


 荷は、そこへ置いた。


 置くとき、馬の背から縄が解かれる。解かれた麻縄が、地を打った。乾いた音であった。俵は道の脇へ積み上げず、そのまま倒された。倒しておかねば、退く者の足がもつれる。


 光秀は、それを見ていた。


    *


 柳生の庄まで下りて、数を取った。


 列の三番目にいた少年が、掛矢を提げて立っている。持ち手のところが、赤黒く濡れていた。血ではない。掌の皮が剥けて、そこから出たものである。


 少年は、それを見ていなかった。見ずに掛矢を地へ下ろし、両手を袴で拭いた。


 次郎太が、笠を脱いでから言った。


 「……二百のうち、いま残っておりますのは、百八十六にござる」


 「旧木沢の衆は」


 「三人、欠けており申す」


 光秀は帳を開いた。開いて、名を書いていく。次郎太が読み上げ、光秀が書く。読み上げる声は枯れていた。


 十四人と、三人であった。


 三人のうちの一人が、平三である。


 書き終えて、帳を閉じようとしたとき、庄の者が荷を運んできた。


 峠から拾ってきたものである。俵ではない。落ちていた物を、拾える分だけ拾ってきたのだと言った。


 その中に、草鞋が片方あった。


 新しくない。かかとのところが、内へ寄って擦り減っている。歩き癖のある者の減り方であった。


 光秀は、それを見た。


 昨日、坂の下で竹筒を差し出した男である。二十歳そこそこの、痩せた男であった。竹筒の口が欠けていた。


 光秀は、何も言わなかった。


 言わずに、帳を閉じた。


 その夜、光秀は眠らなかった。


 庄の者も眠らなかった。館の外で、女どもが火を焚いて、湯を沸かしている。怪我をした者が十九人おり、そのうち六人は動かせなかった。


 明け方近く、外が急に静かになった。


 人の出入りの音が、止んだのである。


    *


 夜が明けた。


 冷えていた。谷の底に霧が溜まって、上の段の田が見えない。


 庄の年かさが、館の前まで来て言った。


 「開き申した」


 光秀は、しばらく意味が取れなかった。


 「――峠か」


 「へえ」


 「いつ」


 「夜中に」


 年かさは、それだけ言った。手にも、袖にも、泥がついている。泥のほかにも、ついていた。


 光秀は、その男の手元を見た。


 「幾人で」


 年かさは、答えなかった。


 答えずに、一礼して下がっていく。下がる背中を、光秀は見ていた。


    *


 峠へ上がると、道が空いていた。


 旗も、人も、無い。落ちた俵はそのままだが、道の真ん中のものは脇へ寄せてある。馬が通れるだけの幅が、きれいに空いていた。


 匂いがした。


 明け方の冷たい空気の底に、それが沈んでいる。土の匂いでも、焦げた匂いでもなかった。


 道の脇の窪みに、土が新しく掻き寄せられている場所が二つあった。


 光秀は、そこまで歩いた。


 歩いて、立った。


 ――幾人で、と訊いた。


 光秀は生涯、数を訊いてきた。訊けば、たいていは返ってきた。返ってこなかったのは、これがはじめてであった。


 東の空が、ようやく白んだ。

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