第29話(三)「柳生の庄」
笠置を出る前に、光秀は蔵の帳場へ寄った。
櫃の三つ目を開け、十年ぶんの束の、下から四冊目を抜く。頁を繰って、一枚を破り取った。
奥野正次が、指を止めた。
「……それは」
「木沢様の帳にござる」
「存じております。それを、いかがなされる」
光秀は答えずに、墨を磨りはじめた。磨って、破り取った一枚を脇へ置き、同じものを写していく。字は速い。写しながら、日付の欄だけを飛ばした。
奥野は、それを見ていた。
「殿の御下知は、木沢の帳を押さえよ、でござりましたな」
「左様」
「押さえよとは、抜けということにござりまするか」
「……」
「一枚欠ければ、帳は、帳でなくなり申す」
この男は、十年その帳を書いてきた。書いてきた者に、いま、それを言われている。
「二枚に増やしており申す」
光秀は、そう言った。
「片方を、人に渡すのでござりましょう」
「……」
「渡した先で、その一枚は、木沢様の帳の一枚ではのうなりまする。ただの反故か——さもなくば、証文にござる」
光秀は、筆を止めなかった。止めずに、書き終えた。
書き終えて、写しの日付の欄を見た。
空いている。空けたのは、いつでも入れられるようにしておくためであった。だが、いつ入れたところで、これは写しである。
これで銭は取れぬ。上へ出しても、原本を出せと言われて終わる。
――脅す物には、ならぬ。
使えるのは一度だけであった。相手が「写しはあるか」と訊けぬ、その一度だけである。
光秀は、写しを文箱の底へ入れた。
奥野は、もう指を動かしている。
「……明智様」
「うむ」
「帳を継ぐ者は、抜いた者の名を覚えており申す」
*
峠は、思ったより早く止められた。
笠置を出て一里、道が細くなって、両側から雑木が被さってくるあたりである。前を行く者が足を止め、光秀の馬も止まった。
道の上に、十人ばかりが立っている。旗は立てていない。だが足元の草の踏まれ方で、この者どもが今朝からそこにいるのだと分かった。
いちばん前の男が、槍の石突を土へ突いた。
「どちらの衆じゃ」
「笠置の者にござる」
嘘ではない。
男は、しばらく光秀を見た。それから、後ろの十騎を、一騎ずつ見ていった。
「荷は」
「持ち申さぬ」
「槍は」
「持ち申さぬ。……太刀だけにござる」
男は数えたはずである。十騎、槍なし、荷なし。それだけを数えた。
「笠置は、誰の城じゃ」
光秀は、そこで一拍おいた。
「……三好の御旗が、立っており申す」
これも、嘘ではない。今朝、立った。長逸の一行が持ってきて、今朝、櫓へ上げたばかりの旗である。だが男が訊いたのは、そういうことではなかった。
男は、答えを返さなかった。
返さずに、後ろの一人へ顎をしゃくった。しゃくられた男が坂を駆け下りていく。報せに行ったのである。
残った者どもは、道の脇へ寄った。
「荷は、通さぬ」
槍が引かれる。
「――人は、通す」
十騎は、そのあいだを抜けた。
抜けながら、光秀は算えていた。
向こうの名分は、木沢の残党を討つ、である。三好の旗の立った城の者を止める名分は、そこには無い。止めれば、それは別の話になる。別の話になれば日数がかかり、日数がかかれば、田を焼いて待っている意味が無くなる。
こちらは荷を持っていない。槍も持っていない。止める理由が無く、通す理由だけがあった。
だから通された。
そして、後ろから物見が走っている。
「……こちらが柳生へ入ったことは、今日のうちに知れまするな」
次郎太が言った。
「知れる」
「隠さずともよろしゅうござるか」
「隠すものが、無い」
光秀は、坂を下りた。
*
柳生の庄は、谷の底にあった。
田が少ない。谷の斜面をわずかに削って段にしてあるが、幅は二間か三間で、その段が幾重にも重なっている。水は上から落ちてくる。落ちてくる水を段ごとに受けて、いちばん下まで送る。そういう作り方の田であった。
その段のうち、上から三段ぶんが黒くなっている。
匂いが、乾いていなかった。
家が焼ければ、乾いた煙の匂いがする。だが水を張った田を焼くと、藁と泥がいっしょに匂う。焦げた匂いの底に、濡れた土の匂いが沈んでいる。息を吸うと、喉の奥に残った。
黒くなった段の下で、女がひとり、泥に足を入れていた。
下女である。裾をたくし上げて、素足で泥を踏み、また上がってくる。上がってきては、また入る。何を探しているのでもなさそうであった。誰かに命じられている様子もない。
その女が、こちらを見た。
見て、目を逸らさなかった。逸らさぬまま、また泥へ入っていった。
*
柳生家厳は、館の板の間に座って待っていた。
五十がらみである。日に灼けた顔で、肩幅が広く、腰が低い。座り方が、武辺の者の座り方であった。
通されるとき、庭の隅の納屋の戸が半分開いているのが見えた。中は暗い。暗い中に、竿の束が立てかけてある。旗であった。
束の奥に、もう一竿ある。
布が落ちて、地の色が分からなくなっている。木沢の旗より、明らかに古い。何代ぶんか古いものが、同じ納屋に、同じように立てかけてあった。
誰も、そちらを見なかった。
木沢の帳に、この庄の名は十年ぶん載っていた。
十年、額が動いていない。増えもせず、減りもせず、毎年おなじ額である。新しい家は、額が動く。取れば増え、取られれば減る。動かぬというのは、取りにも行かず、取られもせずに、そこに在り続けたということであった。
道が要るのは、どの庄でも同じであった。
光秀は、書付を膝の前に置いた。置いて、家厳のほうへ滑らせた。
家厳は、それを膝の上へ取った。
取ったが、開かなかった。
「……預かりとは」
書付を膝に置いたまま、家厳は言った。
「いつか返せ、ということでござろう」
「……」
「木沢様の御安堵状も、納屋にござる。旗と一緒に」
光秀は、少し待ってから答えた。
「預かりではござりませぬ」
家厳が、顔を上げた。
「助け申さぬ。……道が要るゆえ、雇い申す」
家厳は、しばらく光秀を見ていた。
「雇う、と申されたか」
「申しました」
「……何を、出せと申される」
「人にござる」
家厳は、答えなかった。
答えずに、膝の上の書付を見ていた。まだ開いていない書付である。
田を出せと言われたなら、この男は断れた。田は動かぬ。動かぬものは、いくら求められても出しようがない。出せぬと言えば、それで話は終わる。
だが人は、出せる。
出せるものを出さぬと言えば、それは守る気がないということになる。守る気のない庄を、誰も守らない。
「……何人」
「この庄が、出せるだけ」
「――人を出せば、庄が空き申す」
家厳の声が、そこではじめて低くなった。
「空き申す」
「空いたところへ、また来たら、どうなり申す」
「来られませぬ」
「なにゆえ」
光秀は、家厳の膝の上を指した。
「それを、お開きくださりませ」
家厳は、書付を開いた。
開いて、まず日付を見た。
それから、目が下へ降りた。三行目のところで止まった。止まったところへ、指を置いた。人差し指の腹で、その一行を押さえるようにした。
――警固料として、兵糧米の一部を給すべきこと。
「米が」
「出まする」
「いつ」
「この道を通る米から、差し上げまする」
家厳は、指を置いたまま動かなかった。
苗代が焼けている。三段ぶんである。今年の秋は、その分だけ無い。無い分をどこから食うかは、この一月、この男が毎晩考えていたことであった。
息を、一度、吐いた。
「これは、役にござるな」
家厳は、書付の端を指で弾いた。
「役は、いつでも解け申す。解けたその日から、当家はまた元の浮いた庄にござる。……人だけ出させて、あとは知らぬ、ということもあり申そう」
「もう一つ、ござります」
光秀は、そこで膝を正した。
「三好長逸様が、殿の御名において、この庄の儀を管領様へ言上なされました」
家厳の手が、止まった。
「……安堵か」
「安堵ではござりませぬ」
「では、何じゃ」
「上裁を仰いでござる。……下りるまでは、何人も手を付けられませぬ」
「書付は」
「ござりませぬ」
家厳は、書付から目を上げなかった。
上げぬまま、しばらく動かなかった。
この男は、書付に裏切られたばかりである。木沢の安堵状は、判も花押も揃っていた。揃っていて、あの日から、ただの反故になった。書いた者が死ねば、書いたものも死ぬ。それをこの男は納屋にしまってある。
「……下りねば、どうなり申す」
「下りませぬうちは、ずっと手を付けられませぬ」
家厳が、顔を上げた。
上げて、口の端を動かした。笑ったのである。この男が、この日はじめて笑った。
「……下りぬほうが、ましか」
光秀は答えなかった。
答えるべきことではなかったからである。この男は、いま、己で算えているところであった。
「手を付けられぬと申されるが、それは誰が止め申す」
「管領様の御裁定にござる」
「管領様は、大和においでにならぬ」
「おいでになりませぬ」
「では、止まらぬではないか」
「――止め申す」
光秀は、そこではじめて声を落とした。
「いま大和で兵を出しておる御方は、勝った側の裾に付こうとしておられまする。その御方が、管領様の御裁定を跨げば、付こうとしておる先に嫌われまする。……嫌われては、この一月、何のために出兵なされたのか分かりませぬ」
家厳は、しばらく光秀を見ていた。
「……そこまで踏んで、来られたか」
「算えて参りました」
「では、その言上が、通らなんだら」
光秀は、間を置かなかった。
「……庄が、無うなりまする」
家厳が、目を上げた。
この男は、これまで幾人も客を通してきた。通してきて、都合の悪いことを先に言った者は、ひとりもいなかった。皆、良いことだけを数えて帰っていった。
「言わぬこともできたであろう」
「言わずに人を出させて、庄が無うなれば、当家は二度と大和で人を雇えませぬ」
「……」
「勘定にござる」
「――当家は、どちらへ付くことになり申す」
「上裁の下りるまで、三好家が申し立ての主にござる」
「他所へは」
「付けませぬ」
家厳は、そこで少し息を吐いた。
「付けば、三好家の申し立てを、当家が覆すことになりまするゆえ」
「……なるほど。囲われたのじゃな」
「左様にござる」
隠さなかった。
「そちらの殿は、どこにおられる」
「摂津の越水に」
「この儀は」
「……御存じござりませぬ」
家厳の眉が、そこで動いた。
「知らぬ主の家人が、当家を囲うたか」
「左様にござる」
「……では、当家は、家人の下に付くことになり申すな」
「左様にござる」
家厳は、しばらく黙っていた。
「……当家は、二百年、ここにおり申す」
光秀は、答えなかった。
答えられることではなかった。
家厳は、そこで一度だけ、庭のほうへ目をやった。
納屋の戸は、半分開いたままである。
目を戻して、書付を膝の上で二つに折った。折ってから、また開いた。
「受け申す」
言った。
言ってから、はじめて頭を下げた。
順が、逆であった。
人数の話になった。
庄から何人出すか、どの口に立たせるか、荷の前と後ろにどう割るか。家厳が指で畳を叩きながら数え、光秀が帳へ書いていく。
途中で、光秀は筆を止めた。
「この者どもは、何ができ申す」
家厳は、数えるのをやめなかった。やめずに、数えながら答えた。
「……斬れまする」
それだけであった。
運べるとも、道を知っているとも言わなかった。この庄が売れるものは、それだけである。
「二十六人」
「承知」
「……いや、二十五人じゃ。ひとり、勘定に入れそこねた」
そのとき、板の間の端で声がした。
「人を出しまするなら」
十五、六の少年であった。膝を進めて、父の斜め後ろまで出てきている。
「まず、それがしが」
家厳の顔が動いた。
「宗厳」
「二十六でようござりましょう」
「下がれ」
「……下がりませぬ」
少年は、光秀のほうを見なかった。父だけを見ている。
家厳は、しばらく息子を見ていた。
止めれば、雇いの人数がひとり減る。ひとり減れば、それは値を切ったことになる。受けると言ったばかりの雇いを、その場で値切った形になる。
この男は、それをしなかった。
「……二十六人じゃ」
光秀は、帳へ書いた。
*
日が落ちた。
光秀は、笠置へ戻らなかった。
戻れば片道半日である。半日かけて戻り、また半日かけて来るくらいなら、この庄で夜を明かしたほうが早い。そう言って、板の間の隅に座った。
家厳は止めなかった。止めず、館の者に灯を運ばせた。
やがて膳が出た。
朴の葉の上に、握り飯が二つ載っている。麦が半分ほど混じっていて、塩の利きが強い。ほかには何もない。
光秀は、箸を取らなかった。
「これは、庄に幾つござるか」
家厳は、少しのあいだ答えなかった。
「……客の数だけにござる」
光秀は、ひとつ取って食った。
食ってから、もうひとつには手を出さなかった。
板の間の外で、風が変わっている。南から来ていた風が、夜に入って山を降りてきた。焦げた匂いは、もう薄い。薄いかわりに、濡れた土の匂いだけが残っていた。




