第29話(二)「柳生の庄」
本丸の広間は、南に向いて開けてある。
障子を外してあるので、風が抜けた。抜けたさきに、南の山が見える。煙は、まだ細いままであった。
三好長逸は座らなかった。
板の間を端から端まで歩き、また戻ってくる。譜代の宿老が新参の押さえた城で腰を下ろせば、その城を認めたことになる。この老人はそれをしない。歩きながら聞き、歩きながら答える。
「南の山が、燃えておるの」
「柳生の——」
言いかけた光秀を、長逸は手で遮った。
「一村じゃろう。知ったことか」
白湯の碗が二つ、盆に載って運ばれてきた。近習が置いて、退がる。長逸の側の近習で、この老人の顔を見ずに置き、見ずに退がった。何年か仕えている者の退がり方であった。
長逸は、碗を取らなかった。
「儂は米を検めに参ったのじゃ。四千七百石が、いずれ様の帳に載るかという話をしにな。……村の火を消しに参ったのではないぞ」
「その米が、上がって参りませぬ」
「知っておる。半分しか集まらぬのじゃろう」
「頼んだ二百のうち、今朝出たのが百二十にござる」
「それも聞いた」
「着いたのが、八十七にござりまする」
長逸の足が、そこで一度、乱れた。乱れただけで、止まりはしない。
「……それで」
*
光秀は、帳を膝の前に置いた。開かなかった。
「木沢様が押さえておられたものが、いま、大和にござりませぬ」
「死んだのじゃからな」
「押さえておられたものが、そのまま空いており申す。国人の衆が、それを分けようとしておりまする」
「分けるじゃろう。国人とは、そういうものじゃ」
「分ければ、そのうちの一人が、必ず大きゅうなり申す」
長逸が歩くのをやめた。
やめたが、こちらは見なかった。南へ向いた開き口の、その先を見ている。
「大きゅうなった者とは、当家はいずれ、話をせねばなりませぬ」
しばらく、風の音だけがした。
やがて長逸は、盆へ手を伸ばした。碗を取り、掌で温さを確かめるようにして、口のほうへ持っていく。そこで止まった。
「呑まぬわ」
「明智。そなた、大和に守護がおらぬのを知っておるか」
「存じており申す」
「六十余州で、大和だけじゃ。守護を置かぬ。置かずに済んできた」
長逸は、碗の縁を親指でなぞった。
「興福寺よ。春日の御山が、そのまま守護をしておる。国人と申しても、あれは寺の衆徒じゃ。寺の荘を預かって、寺の名で刀を持っておる者どもよ。……筒井も、越智も、十市も、元をただせば御山の下人じゃ」
「……」
「じゃから、割れたところで案ずるには及ばぬ。国人が幾人食い合おうと、終いには御山が全部さらっていく。下人の喧嘩じゃ。三十年、儂はそれを見てきた」
「……御寺は」
光秀は、膝の前の帳へ目を落とした。
「もう一度、呑まれた側にござる」
碗が、動かなくなった。
「木沢様の帳に、十年ぶん書いてござります。御寺の御荘が、三十二か所。……その三十二か所に、木沢様の名で関が立っており申した」
「関を」
「立てて、通る荷から取っておられた。取ったものは、木沢様の御家来へ知行として分けておられまする。帳に、名も高も書いてござる」
風が入った。
「三十二か所にござる。御山の荘を、御山の下人が押さえて、御山へは通しませなんだ。それを十年、御寺は押し返せませなんだ」
「押し返せぬまま、押さえておった者が死に申した。いま御山にあるのは、返ってきた荘ではござりませぬ。……返ってこぬまま、押さえておる手だけが無うなった荘にござる」
長逸は、碗を口へ運ばなかった。
運ばずに、盆へ戻した。戻すときに、少し音がした。
「そこへ、いま一人、下人が大きゅうなり申せば」
「……御山では、押さえられぬと申すか」
「一度、押さえられませなんだ」
光秀は、そこで少し間を置いた。
「いま小そうござるうちに当家が呑めば、当家が話す相手は、御寺だけで済みまする。……大きゅうなってからでは、二つになり申す」
「……それで、儂に何をせいと申す」
「もう一つ、ござります」
光秀は、そこではじめて顔を上げた。
「南の山を越える道が、奈良から笠置へ米を上げる、ただ一本の山越えにござる。舟は集まりませぬゆえ、馬を回しており申す」
「知っておる」
「その道の上に、庄がひとつ載っておりまする」
長逸が、はじめてこちらを見た。
「……その庄を、いま焼こうとしておる者がおり申す。取れば、その者の物になり申す。取られれば——」
言葉を切った。切ってから、続けた。
「三好の米の道は、この先ずっと、その者の傘下を通ることになりまする」
長逸は、しばらく光秀を見ていた。
それから、板の間へ腰を下ろした。
この老人が、この城で腰を下ろしたのは、それがはじめてであった。
「……ふん」
「そなた、なにゆえ、そこまで存じておる」
「馬が、三十三匹、合いませなんだ」
長逸は返事をしなかった。返事のかわりに、盆の碗を横へ押しやった。押しやって、膝の上へ両手を置いた。
「松永殿は、これを存じておられるか」
「……存じておられませぬ」
「越水へは」
「報せておりませぬ。報せれば、三日半かかり申す」
「三日半」
「その前に、庄が無うなりまする」
長逸は、膝の上で指を組んだ。組んでから、少し首を傾けた。
「松永殿は、大和のことで何も申しつけておられぬのか」
「……申しつけは、ござります」
「なんと」
「拙者には、木沢の帳を押さえよ、と」
「それだけか」
光秀は、答えるまでに一拍おいた。
「その庄については、別に」
「申せ」
「――散る前に、見ておけ。見るだけでよい、と」
長逸の喉が、一度動いた。笑ったのである。声は出さなかった。
「見るだけでよい、とな」
「はい」
「見るだけでよいものを、そなたは儂に書かせようとしておる」
「……」
「続きがあろう。それだけで済ます御方ではない」
光秀は、また一拍おいた。
「――手を出せば、値が上がる、と」
長逸は、しばらく黙っていた。
黙って、光秀の膝の前の帳を見ていた。開かれていない帳である。
「……儂が書けば、幾らになる」
「存じませぬ」
「存ぜぬか」
「上がることだけは、存じておりまする」
長逸は、ふたたび喉を動かした。こんどは、笑いではなかった。
「では、これは、そなたの申し条じゃな」
「……はい」
「よかろう」
言って、長逸は手を上げた。
「筆と硯を持て」
近習が下がる。下がるときに、一度だけ長逸の顔を見た。何を書かせるつもりかを読もうとした目であった。読めずに出ていった。
「明智とやら。書くのは、儂の名じゃ。三好の名で出す」
「はい」
「松永の名は、載せぬぞ」
「結構にござりまする」
即座であった。
長逸は、それにも返事をしなかった。
*
紙が来て、墨が磨られた。
書かれたのは、一通である。
三好家の兵糧の道を警固すべきこと。警固料として、兵糧米の一部を給すべきこと。それだけであった。所領のことは、一字も書いていない。
書きながら、長逸が言った。
「土地に付ければ、安堵になる。……儂には出せぬ」
「はい」
「役に付けば、国の境を越える」
長逸は、書き終えた書付に判を据えながら言った。
「明智。これは兵糧の警固じゃ」
「はい」
「掃討の妨げではないぞ。……そこを違えるな」
河内の御方——太平寺で共に勝った遊佐長教の耳へは、三日もあれば入る。入ったときに、三好が木沢の残党を庇ったという形になっていては困る。この老人が言っているのは、そのことであった。
判が据わった。
長逸は、それを光秀のほうへ滑らせた。
光秀は、それを取らなかった。
「……足り申さぬ」
長逸の眉が動いた。
「なんじゃと」
「申し付けは、役にござる。役は、いつでも解けまする。……解けたその日から、あの庄はまた焼かれ申す」
「焼かせぬために書いたのじゃ」
「焼かぬためには、焼けば当家と事を構えることになる、という形が要りまする。……役では、そこまで参りませぬ」
長逸は、書付を見た。それから、光秀を見た。
「儂に、安堵せいと申すか」
「安堵は、御身にも、当家の殿にも出せませぬ。……あれは、管領・細川晴元様の筋から下りるものにござれば」
「わかっておるなら、何を申しておる」
「下りるのを、待つ形にしていただきとうござる」
長逸の目が、そこで止まった。
「……なんじゃと」
「殿の御名において、管領様へ言上つかまつる。柳生の庄の儀、御裁定を仰ぐ、と。……そのうえで、上裁の下りるまで、何人も手を付けるべからず、と」
風が、一度、強く入った。
長逸は動かなかった。
この老人が三十年、譜代として守ってきた線が、そこにある。己の名で出せるものと、主の名でなければ出せぬものとの境である。宿老とは、その境を越えぬ者のことであった。
「明智」
「はい」
「そなた、裁定を貰いに行くのではないな」
「……はい」
「待たせに行くのじゃな」
光秀は、目を伏せなかった。
「左様にござる」
長逸は、盆の上の冷めた碗を見ていた。
「言上してある庄に、手を付ければ、どうなる」
「管領様の御裁定を、待たずに動いたことになりまする」
「……いま、それをやれる者が、大和におるか」
「おり申さぬ」
勝った側の裾に付こうとしている者が、その裁定を跨げば、付こうとしている先に嫌われる。
長逸は、それを二拍で算えたはずであった。
「……木沢がやったことを、当家がやるのじゃな」
「言上はいたしまする」
「木沢は、言上せなんだ」
「せずに、十年通り申した」
「――十年、通ったのじゃ」
「十年で、終わり申した」
長逸が、こちらを見た。
「儂が言上して、殿が知らぬと申されたら、どうする」
「その日に、拙者の首をお出しくださりませ」
間が、無かった。
長逸は、それにも笑わなかった。
「首では、庄は戻らぬ」
「戻り申さぬ」
「……そなた、それでよいのか」
「よろしゅうござる」
長逸は、膝の上で拳をひとつ握って、開いた。
「よかろう」
言って、この老人は背筋を伸ばした。伸ばしてから、声を改めた。歩きながらの声ではなかった。
「――三好長慶が名において、柳生の庄の儀、管領様へ言上つかまつる。上裁の下りるまで、何人も手を付けるべからず」
誰も、それを書き付けなかった。
書けるものではなかったからである。書けば、それは安堵になる。
「……で。その庄は、どこじゃ」
長逸が、そのあとで訊いた。
「柳生にござる」
長逸は、光秀を見た。
見て、何も言わなかった。
半刻ばかり前に、知ったことかと言った村である。そしていま、この老人は、その村のために主の名を使ったところであった。
*
大手の坂を下りると、荷の脇に旧木沢衆が固まっていた。
二百人ばかりである。主を失って、いまは誰にも仕えていない者どもで、この一月、松永の飯を食っている。
平三が、列から出てきた。
「明智様。柳生へは、十騎で参られると伺いました」
「参る」
「われらは」
「そなたらは、荷の列じゃ。もとよりの役である」
平三は、しばらく黙っていた。
「……筒井様の御名分は、木沢の残党を討つ、と伺いましてござる」
「聞いた」
「われらも、残党にござりまするか」
光秀は答えなかった。
平三も、答えを待たなかった。待たずに一礼して、列のほうへ戻っていく。
その背へ、光秀は声をかけなかった。
次郎太は、坂の下にいた。
「二百のうち、百を出し申す。あとの百は、蔵に残しまする」
「うむ」
「荷は、通しまする」
「うむ」
「旗を持つだけなれば、三日と申さず、五日は持ち申す。……槍を持てと仰せなら、値が変わり申す」
「変えよ」
次郎太は、笠の下からこちらを見た。
「……その値は、誰の銭にござる」
「拙者の扶持にござる」
次郎太は、それきり何も訊かなかった。訊かずに振り返り、後ろの者へ顎で合図をした。
合図された男が、竹筒を持って前へ出てくる。二十歳そこそこの、痩せた男であった。差し出した竹筒の口が欠けている。
光秀は受け取って、飲んだ。
水は、ぬるかった。




