第29話(一)「柳生の庄」
天文十一年、卯月。
河内の太平寺で木沢長政が討たれて、一月がたつ。十年のあいだ大和と河内に君臨した男の遺したものを、松永久秀の家来が二人——山本勘助と、明智光秀とが、半月で押さえた。城が三つ、兵が三千、十年ぶんの帳が櫃に三つ、そして寺に預けてあった米が五千石余である。
その米が、いま、山城の笠置へ上がってきていた。
*
笠置の城は、木津川の南の岩山に載っている。麓から見上げれば首が痛くなる高さで、道は一本しかない。三十人も籠れば守れる城であった。
その城の、蔵の前である。
明智光秀は、帳を三度読み返していた。
脇に、木沢の帳の束が積んである。十年ぶんで、櫃三つから出したものを、日付の順に並べ直してあった。そのうちの三冊だけ、綴じ紐が新しい。
「奥野どの」
板の間の端で、痩せた猫背の男が、算木も置かずに指を動かしていた。奥野正次である。木沢の帳を書いていた男で、いまは松永の側でそれを継いでいる。光秀が呼びかけると、掌をこちらへ向けた。待て、の手である。出したことに気づいてもいない。
光秀は待った。
やがて奥野の指が止まり、筆が動いた。書き終えてから、顔も上げずに言った。
「……道にござる」
「幾つ合わぬ」
「三十三」
光秀は、己の帳の上へ目を落とした。
馬借に頼んだのは二百匹である。今朝、奈良を出たのは百二十匹であった。そして笠置の坂の下まで着いたのは、八十七匹である。
「足らぬのはよい」
声に出したつもりはなかったが、口が動いていた。
「足らぬのはよい。……合わぬのが、いかぬ」
二百に対して百二十というのは、雇いの話である。銭を渡す先の話であり、増やす手立ても減らす言い訳もある。だが百二十のうち三十三が着かぬというのは、雇いの話ではない。出たものが着かぬというのは、道の話である。
「三十三匹は、どこにおる」
馬借の年寄が呼ばれて、蔵の前へ来た。六十がらみで、日に灼けた顔の、笠のふちを指で押さえる癖のある男である。押さえながら、こちらを見ない。
「手前どもの落度ではござりませぬ」
訊かれる前に、それを言った。
「銭は約定のとおりに頂いており申す。頂いておりますとも。頂いておりますゆえ、手前どもは出しており申す。今朝も、暗いうちから叩き起こして、出しており申す」
「三十三匹は」
「あの道は、もともと歩きにくうござる」
年寄は、笠を押さえたまま、早口になった。
「雨のあとは滑りますし、峠の手前が細うて、荷が擦れる。荷が擦れれば馬が嫌がりまして、嫌がれば止まる。止まった馬を叩けば、こんどは前の馬が驚く。それに——それに、このごろは南から風が来て、馬が」
「風」
「へえ。南から」
年寄の口が、そこで少し止まった。
「……煙たい、と申しますか」
光秀は、顔を上げた。
「火が入っておるのか」
年寄は答えなかった。答えぬかわりに、笠のふちから指を離した。それが答えであった。
光秀は帳を閉じなかった。閉じずに、開いた頁の上へ指を置いた。
三十三という数字の隣に、まだ何も書いていない欄がある。
「奥野どの」
「はい」
「この三十三匹ぶんの米が、どこへ行ったかを、拙者は書けませぬ」
奥野が、はじめて顔を上げた。目だけがひどく良い男である。
「書けねば」
「……盗んだことになり申す」
受け方の帳を付けているのは、この男である。四千七百石のうち三千しか着かなかったとき、残りが道で消えたのか、受けた者が抜いたのかを、この男は証せない。証せぬものは、いずれ盗みとして数えられる。帳とは、そういうものであった。
奥野は何も言わず、また指を動かしはじめた。
*
蔵の前では、荷揚げがまだ続いている。俵の藁と、馬の汗の匂いが、風の来ない場所に溜まっていた。
駄賃を米で受け取る馬借が、列の端にいる。銭で払うのが本則だが、この年は米のほうを喜ぶ者が多い。受け取った米を、袋の口を締め直して、もう一度量りにかける男がひとりいた。誰も咎めない。二度量ってようやく肩から力を抜き、それから袋を担いだ。
その様子を、少し離れた石の上から見ている者がある。
三好長逸であった。
三好の本宗家の宿老で、この朝、旗つきの一行を率いて着いたばかりである。四千七百石を三好の帳へ載せに来た——というのが、表向きの用であった。
譜代である。
この老人が三十年かけて積んだものを、家来が二人、半月で獲った。
長逸は座らなかった。着いてから一度も腰を下ろさず、蔵の前を歩き、荷を見、馬借を見ている。歩きながら、光秀のほうを見ずに言った。
「明智とやら」
「はい」
「勝手は、許さぬぞ」
「承知いたしております」
「承知しておる者が、いちばん勝手をする」
長逸は、そこで足を止めた。止めたが、こちらは見なかった。
*
南の山に、煙が上がっていた。
細い。一本ではなく、二本か三本が、風にほどけながら上がっている。
「平三」
旧木沢衆の年かさが、荷の脇から出てきた。五十を過ぎている。木沢に二十年仕えて、いまは誰にも仕えていない男である。
平三は煙を見て、しばらく黙っていた。
「……苗代と、外れの二軒だけにござる」
「なぜ分かる」
平三は、すぐには答えなかった。
「……二十年、そればかりをして参りました」
「木沢様の下でか」
「へえ」
それから、はじめて理を言った。
「庄を取る気なら、まず水の口を取り申す。堰を切って、田を干しまする」
「あれは、切っておらぬのか」
「切っておりませぬ。焼いておりまする」
平三は、煙から目を離さない。
「苗代を焼くのは、返事を待つ焼き方にござる。その年の秋を、人質に取っておくのでござります。……蒔けると思うておるうちは、庄の者は逃げませぬ」
「日数は」
「あれは、二日で済み申す。三日目には、庄の者が出て参りまする」
言ってから、平三は口をつぐんだ。
つぐんでから、少しして、付け足すように言った。
「……出て参りましたら、どうなさる」
光秀は答えなかった。
答えぬまま、南の山を見ていた。柳生の庄である。笠置から南へ二里半、荷を負うて歩けば半日の道であった。そしてその道が、奈良から笠置へ米を上げる、ただ一本の山越えであった。
次郎太が、いつのまにか横に立っている。日銭で雇うた者どもをまとめている男で、三十前後、日に灼けた首の後ろだけが白い。
次郎太は煙を見て、それから光秀の帳を見た。
「――米は、いかがなさりまする」




