第28話(七)「法隆寺の米」
――卯月(四月)六日の、暮れである。
松永久秀は、木津川の東に陣を張っていた。
太平寺で崩れた木沢の残りを、山へ入った者まで含めて拾って歩く役である。捕らえては帳に載せ、載せては送る。十日、それをしている。
この十日のことは、二年前に買った書付に書いてあった。
己の大略である。天文十一年、木沢長政が討たれる。そのあと、この男は山城の南にいる。……書いてあったのは、それだけであった。
いる。書いてあったとおりの場所に、いるのである。
書いていないものだけが、増えた。
城が三つ。兵が三千人。名と役の分かった者が三百七十二人。そして、米が五千石余。あの紙には、そのどれ一つ載っていない。
――誰が、増やした。
家来である。だが、その家来に値を付けて買い、この国へ寄越したのは己であった。
片目の牢人は、九年のあいだ誰にも買われずにいた。買わずにおけば、あの男はいまごろどこかの城の縄張りを売り歩いておったであろう。二上山の門は開かず、三千人は散り、法隆寺の蔵は開かなかった。祐筆あがりの若い男も、同じである。
呼んだのは己で、使えると踏んだのも己であった。そこまでは、間違っていない。
――御せると、思うておった。
久秀は、床几の上で指を一度、開いて握った。
値を付けて買った物が、値のとおりに働いている。働きすぎているのではない。買うたとおりに働いているだけであった。
――壊れた。
壊した者は、どこにもおらぬ。買うた者と買われた者が、それぞれ約定のとおりに動いただけである。
膝の上に、書付が三枚あった。
いずれも、伊賀の網から上がってきたものである。数と物のほかは、何も書いていない。
――越水ノ人数、二上山ニ入リ申シ候。五十人。旗、立チ申シ候。
――米、笠置ヘ上リ居リ候。
――笠置ヘモ、人数出ル由。三十人。旗、持タセ候由。
三枚を、並べて置いた。
*
並べてから、久秀は動かなくなった。
一枚ずつなら、何ということもない。
人数が入ったのは、主家が助けを出したのである。有難いことであった。
米が上っているのは、家来が兵糧を手に入れたのである。めでたいことであった。
笠置へも人数が出るのは、理に適っていた。
――間に合わぬ。
久秀は、そう読んだ。
米が笠置の蔵へ入りきるより、ずっと先に、三好の旗が笠置へ着く。着けば、蔵の戸が開く。開けば、積んだ分から順に、主家の帳へ載っていく。
載って、困ることは何一つ無い。
寺は筋を通されただけである。米は木沢の家の名で出ている。松永の名は、受取のどこにも書かれておるまい。あの男は、そういうところを間違えぬ。
咎める先が、無いのである。
久秀は、書付の端を指で揃えた。
揃えて、もう一度揃えた。
――咎める先が無いということは。
止める理由も、無いということであった。
同じ日に、越水から書状が来ていた。
主の手である。
巻いてあるのを開いて、久秀はしばらくそこを見ていた。
――米の儀、聞いた。
それだけであった。
褒めてもいない。咎めてもいない。
久秀は、紙を裏返した。
裏には、何も無い。
灯にかざした。透けるものも、無い。
もう一度、裏を返した。
半月前、越水の書院で、あの若い主は、近いうちに二人で話そう、人を入れず二人でじゃ、と言った。
その日取りが、この紙には書いていない。
*
陣の外へ出た。
川が、すぐそこにある。
水の匂いがした。泥の匂いである。夕の川は、日中よりも匂いが強い。
舟が、上っていた。
灯を一つ提げて、綱で曳かれている。曳綱が水を切る音と、軋む音が、川面を伝って届いた。
二艘。
しばらくして、また一艘。
久秀は、それを数えた。
十を数えて、やめた。
やめて、また数えた。
「……多い」
と、久秀は言った。
声に出ていた。
言ってから、それが誰の言葉であったかに気づいた。
半月前、越水の書院で、あの若い主が言ったのである。
――松永は、いつも多い。
あのとき、褒められたのか数えられたのかが分からなかった。
いま、己の口で言ってみて、分かった。
どちらでもない。
あれは、算えきれぬ物を見た者の声であった。
*
その夜、久秀は文をしたためた。
摂津の在所に隠してある小僧へ宛てたものである。
その小僧から、久秀は月に一つずつ、まだ来ぬ世のことを買っている。銭では買えぬ。点という数で払う約定であった。買ったものが、この二年、そのとおりに起きてきた。
起きなかったものも、ある。
起きなかったのは、こちらが手を出したからであった。
書付の話は、紙に書けない。
だから、遠回しに書くよりほかにない。
――先に、川の話を伺うてござる。
――石を、一つ置き申した。水の道が、変わってござる。
書いて、しばらく見ていた。
訊きたいことは、一つである。
変わった水の道を、どうやって元へ戻すのか。
それを訊く言葉が、出てこない。
言葉を継ぐたびに、遠回りが一つ増えた。石の大きさを書き、水の勢いを書き、川下の田のことを書いた。書けば書くほど、何を訊いているのかが分からなくなっていく。
あの小僧は、いつも先に値を言う。訊く前に、これは幾らにござりますと、こちらの懐を見ずに言う。
いま訊きたいことに、値がつくのかどうかが、分からなかった。
長くなった。
久秀は、帳面を出した。
墨を、下ろす。
一、法隆寺ノ米 五千石余――木沢ノ名ニテ出ヅ
一、文 一通
残り 五点
書いて、筆を止めた。
止めた先に、書くべき一行がある。
笠置のことである。
あの城の蔵へ、いま何が積まれつつあるのか。それを書けば、いつ誰の手に渡るのかを書かねばならぬ。渡ると分かっていて積ませたのか、分からずに積ませたのかを、己で決めねばならなくなる。
どちらであっても、書けなかった。
*
文を巻いて、封をした。
封の上に、宛名は書かない。
小僧の在所は、紙に書けぬ。運ぶ者だけが、行き先を知っている。
表へ出た。
川は、もう暗い。
暗い川の上を、灯が上っていった。
一つではない。二つ、続いている。その後ろに、また一つ。
久秀は、それを数えなかった。
数えなかった、ということを、数えていた。
■用語解説
・木津…山城国の南のはずれ、木津川の畔の津。古くは泉木津と呼ばれた。川を下ってきた荷をここで揚げ、陸路で奈良へ運ぶ、南都の玄関口である。津には馬借が集まり、川には舟が通う。




