第28話(四)「法隆寺の米」
――夜に、入っていた。
「――お返しいただきたい」
と、光秀は言った。
老人は、動かなかった。
膝の上の手も、目も、動かない。
庭で、鳥が鳴いた。
「……御坊」
と、納所が言った。
老人は、答えない。
どれほど黙っていたか。
油皿の火が、一度、丈を落とした。
「――辻に、二百おられるそうな」
老人が、そう言った。
光秀は、驚かなかった。
「ござります」
「なにゆえ、門前へ出されぬ」
「出せば、御寺は追い返す筋が立ちまする。……追い返していただいては、こちらが困る」
老人は、しばらく光秀を見ていた。
「……正直な御方じゃ」
「隠しましても、既に御存じにござりましょう」
「――ならば、正直に伺おう」
老人の声が、そこで変わった。
「渡さねば、その二百は門を破りに参るか」
「参りませぬ」
「なにゆえ」
「破れば、押し込みにござる。押し込んで持ち出した米は、盗んだ米にござれば……その米で養う三千人が、その日から御敵になりまする」
言ってから、光秀は己の答えを聞いた。
破らぬ理由が、義理ではなかった。勘定である。
老人も、それを聞いた。
聞いて、目の色が動いた。
「――渡せば、この寺は焼けまする」
老人が、そう言った。
声が、それまでと違った。
「政長様がお怒りになる。遊佐様がお怒りになる。……離れにおられる御二方は、三日、預かっておりますの一言で追い返しております。四日目に、木沢の家へお返しいたしたと申せば、どうなると思し召す」
板の間へ、身を乗り出した。
「明智どの。そのとき、松永どのは何をして下さる。門前の三百人と、辻の二百で、この伽藍を守って下さるか」
光秀は、答えなかった。
答えられなかったのである。
守れぬ。
三百人は担ぎ手であり、辻の二百は道を通すための数であり、二上山の三千人は米が尽きれば散る。この寺を守るために出せる兵は、松永にはいない。
「――申せぬのであろう」
と、老人は言った。
「幾百年、こうやって参った。渡せと仰せられる御方は、いつも、渡したあとのことを仰せられぬ」
そこで、一度、間を置いた。
「それに、明智どの。……預けた当人は、生きておられる」
光秀は、顔を上げた。
「浮泛様は、飯盛に籠っておられる。木沢の家の者と申されるなら、あの御方こそが家の者にござろう。……なにゆえ、そちらへ伺わぬ」
――御存じで、仰せられておる。
天文九年、木沢長政は父を義絶している。その旨の触れは、諸方へ回った。十六年、木沢の帳を扱ってきたこの寺が、聞いておらぬはずはない。
義絶された者は、家の者ではない。
それを言えば、この詰めはその場で終わる。終わるが、終わったあとに残るものがあった。
誰が木沢の家の者であるかを、この寺に決めさせることになる。決めさせれば、次に量られるのは、隣に坐っている若い一門であった。
――言わぬ。
言わぬことを、この老人も承知している。承知していて、なお訊いた。
「囲みの内にござります」
「囲んでおるのは、そこもとらの味方じゃ」
「――味方にござる」
光秀は、否まなかった。
「囲みを解いていただくよう、こちらから願うことは、できまする」
老人が、目を上げた。
「解けば、あの城の内の者が出て参ります。出て参れば、御寺の門にも参りましょう。……そのとき御寺は、御二方ではのうて、御三方から返せと言われることになりまする」
老人は、答えなかった。
答えずに、膝の上の手を、また重ね直した。
*
そのときであった。
「――木沢の米じゃ!」
秀種が、叫んだ。
板を打つ音がした。掌でついたのである。油皿の一つが揺れて、炎が横へ寝た。
「伯父の代から、御寺に預けてござる! 十六年にござる。……その米を、いま、どちらが怒るかで決めておられる」
声が、割れた。
「政長様がお怒りになる、遊佐様がお怒りになる。……木沢は、どこにござる。木沢の家は、まだ、ここにござる」
「――秀種様」
光秀の声は、低かった。
叱ったのではない。呼んだだけである。
だが、秀種は口を閉じた。
閉じて、板の上の手を引いた。
膝の上へ戻したその手が、震えている。
己で押さえた。押さえきれずに、もう一方の手で握った。
顔は、上げなかった。
「……残すと申したのは、手前にござる」
それだけ、言った。
座が、静かになった。
庭の鳥が、鳴きやんでいる。
老人は、秀種を見ていた。
いままで、この老人は秀種を見ていなかった。名を聞いても、目は光秀のほうにあった。人としては、まだ数えていなかったのである。
いま、正面から見ている。
――しまった、とは思わなかった。
光秀は、そう思った己に、少し驚いた。
あれは策ではない。策ではないものが、この座で、いちばん重く落ちた。
紙は揃った。顔も手もある。数も合った。それでもこの老人が動かなかったのは、木沢の家がまだ、この座に来ていなかったからである。
来たのは、いまであった。
「――明智どの」
と、老人が言った。
目は、秀種のほうにある。
「渡すとは、まだ申しておらぬ。……なれど、伺おう。渡して、この寺はどうなる」
光秀は、そこで姿勢を直した。
いま、置ける。
「――渡す相手を、御寺が選んではなりませぬ」
老人の目が、こちらへ戻った。
「……選ぶな、と仰せられるか」
「選べば、選ばなんだ側の敵になりまする。……それは、いま御坊が仰せられたことにござる」
「そう言うた」
「なれど――預けた当人の家の者が返せと申したなら、御寺に選ぶ余地はござらぬ」
光秀は、板の間の請求の紙を指した。
「返すよりほかに、道がござりませぬ。御寺は選んだのではのうて、筋に従うただけにござる」
老人は、動かない。
「政長様がお訊きになれば、こう仰せられればよろしゅうござる。――木沢の家の御方が参られたゆえ、木沢の家へお返しいたした。遊佐様にも、同じことを仰せられればよろしゅうござる」
「それで、済むと」
「済みまする。……どちらの御方も、責める先が御寺ではのうなりまする」
言い終えて、光秀は口を閉じた。
閉じて、それ以上足さなかった。
――この男は、寺を騙してはおらぬ。
言ったことに、嘘は一つも無い。
寺は本当に板挟みであり、返還の請求は本当に筋が通っており、それに従えば本当に責める先が変わる。
この男は、本当のことしか言っていない。
老人は、長く黙った。
黙っているあいだ、この老人が算えているものが何であるかを、光秀は考えていた。
損得ではあるまい。
いま渡した米のことを、百年後の誰かが帳で読む。読んだときに、この寺が何をした寺として残るか。
――算えておられるのは、そちらじゃ。
「……筋、にござるか」
と、老人は言った。
繰り返しただけである。
繰り返して、納所を見た。
納所が、頭を下げた。
それで、決まった。
寺は、選んでいない。
*
受取を切ったのは、明くる日の朝である。
半刻かかった。老人が、文言を三度直させたからであった。
墨を磨る音と、筆が紙を擦る音のほかには、何も聞こえない。硯の水が減るたび、若い僧が水差しから足した。足せば、墨の匂いが濃くなる。
「――御寺は、預かりの筋に従いたるのみ、と入れられよ」
「入れまする」
「日と石数を、一つずつ分けて書かれよ。まとめてはならぬ」
「分けまする」
そして、最後に一つ。
老人は、書き上がった受取を膝の上へ取り、端から端まで目を通した。
通し終えて、顔を上げた。
「……松永どのの御名は、この受取のどこにも、ござりませぬな」
「ござりませぬ」
光秀は、即座に答えた。
「……はじめから、ござりませぬ」
老人は、受取を板の間へ戻した。
戻すときの手が、丁寧であった。
紙を置く手ではない。経を置く手つきである。
置いたあと、そこに据えた名を、しばらく見ていた。
――木沢秀種
三国にまたがって郷を押さえ、代官を据え、年貢を集めていた家である。その家が、いま、この紙一枚になった。
老人は、何も言わなかった。
立つ間際に、こちらを向いた。
「――蔵が、空きまする」
光秀は、すぐには返事をしなかった。
「二つ、空きまする。……お預けになる物がおありなら、いつなりと」
寺は、盗まれたのではない。
騙されたのでもない。
ただ、筋を通されたのである。
■用語解説
・義絶…親子・主従の縁を断つこと。ただの勘当ではなく、諸方へ触れを回して「この者は家の者にあらず」と公にした。家の名で結んだ約定から相手を外すための手続きでもある。木沢長政は天文九年(一五四〇年)、父・浮泛を義絶している。




