第28話(三)「法隆寺の米」
――同じ座の、続きである。
灯が入った。
油皿が三つ。板の間の中ほどに置かれ、六通の紙の端が、片側だけ明るくなった。
秀種は、筆を借りた。
紙を一枚もらい、膝の上ではなく板の上で書いた。返還の請求である。誰が、誰に、何を返せと言うのか。それだけを書く。
文言は短い。
書き出しの一行に、家の名を書く。
その手が、一度止まった。
止まって、また動いた。
書き終えて、下に花押を据えた。
三度目である。一度目は信貴山の城の門を開けるとき、二度目は蔵の封に。木沢の血を引く者の判は、この半月のあいだ、そればかりに使われている。
紙を、老人のほうへ滑らせた。
「――木沢の家に預けたる物、残らず返されたく」
老人は、その紙を見た。
見て、取り上げなかった。
取り上げずに、言った。
「……この御方は」
訊いた先は、秀種ではない。
光秀でもなかった。
奥野である。
――そう来るか。
この寺は、秀種の顔を知らぬのである。木沢の家から寺へ通っていたのは米を納めに来る者だけで、城の留守居は寺へ来ない。名は聞いていても、顔と結びついていない。
この座で寺が顔と手を知っている人間は、たった一人しかいなかった。
「――奥野殿」
と、納所が言った。
「木沢秀種様にござります」
間は、無かった。板から目を上げもしない。声も、平らであった。
「先の主、木沢長政様の従弟にあらせられます。……信貴山の御城の留守居を勤めておられました」
「相違ないか」
「ござりませぬ」
奥野は、そこで少し黙った。
黙ってから、付け足した。
「――一昨年の暮れ、法隆寺へ納めに参ります折、御城の門で荷を検めていただきましてござります。その折の御方が、こちらにござります」
光秀は、息を吐きかけて、やめた。
この男は、請け合ったのではない。
己の目で見たことを、そのまま言っただけである。一昨年の暮れ、城の門で荷を検めた者がいた。その者が、いまここに坐っている。……帳に書けることだけを言って、それが結果として請け合いになった。
だが、それでよかった。
寺が求めていたのは人物の値打ちではない。この者は木沢の家の者である、という一点だけである。
そしてそれを、寺が信を置く唯一の相手が、言った。
*
老人が、うなずいた。
うなずいて、納所に何か言った。
声が低く、こちらまで届かない。
納所が立って、奥へ入った。
しばらくして、戻ってきた。
抱えているものが、多い。
控えの三通どころではなかった。紐で括った束が四つ。上に、細長い帳が二つ載っている。それを板の間へ置いて、また奥へ入り、もう二束持ってきた。
六束である。
膝をついて、順に解いた。
「――木沢様の御預かりは、浮泛様の御代からにござります」
浮泛——討たれた長政の父である。
いちばん下の束を、指で押さえた。
「大永七年から、十六年になりまする」
光秀は、その厚みを見た。
「……十六年の米が、蔵に」
「ござりませぬ」
納所は、そこではじめて顔を上げた。
「米は、腐りまする。三年も置けば、人の食えるものではござりませぬ」
当たり前のことを言う声であった。
「お預かりした米は、寺が出挙に回しまする。春に郷へ貸し、秋に、新しい米で戻る。……数だけが帳に残り、米は毎年、入れ替わってござります」
光秀は、それを聞いていた。
聞きながら、蔵の踏み石を思い出した。
毎年入れ替わるということは、毎年、蔵の戸が開くということである。開けば、石は減る。
減っていない蔵が、二つあった。
「――去年の秋に戻った米が、そのまま寝ておるということにござるか」
納所の目が、動いた。
「……左様にござります」
「なにゆえ、今年は貸しに出されなんだ」
答えるのに、間があった。
「――お預けになった御方に、伺わねばなりませぬゆえ」
貸すのは、寺の一存ではない。預け主に断りを入れて、そのうえで出す。
断りを入れる相手が、いない。
「貸し出しは、春の彼岸の前後にござります。……木沢様がお討たれになりましたのが、弥生の十七日にござりました」
間に合わなかったのではない。
訊く相手が、消えたのである。
主を失った預かり物は、動かせぬ。動かせぬまま、蔵を二つ塞いでいる。
「――幾らござる」
納所は、いちばん上の帳を開いた。
開いて、そこを指した。
「四千七百石と、少々にござります」
*
「……手前の帳に、ござりませぬ」
と、奥野が言った。
声が、はじめて揺れた。
「無かろう」
と、秀種が言った。
「――伯父の代から、預けてござる」
光秀は、秀種を見た。
秀種は、束を見ている。
「木沢の家は、浮泛の代からこの御寺と付き合うてござる。惣算用に通しておらぬ物が、幾らかある。……当主が、己の手で預けた分にござる」
「なにゆえ、通されぬ」
「通せば、帳に載りまする」
秀種は、そこで一度、口を閉じた。
「帳に載る物は、家の物にござる。家の物は、家が割れれば分けねばならぬ。当主が己の手で預けた物は、当主だけの物にござろう」
光秀は、答えなかった。
答えられなかったのである。
紙で人を見つけ、紙で家を読み、紙で城を一つ開けた男が、ここへ来て、帳に載らぬ物の前に坐っている。
載っていないものは、読めぬ。
読めぬものを開けたのは、血であった。
「――去年は、戻りが悪うござりました」
と、納所が言った。
訊いてもいないのに、言った。
「飢えた年にござりますれば、貸した米の半分も戻らぬ寺が、幾つもござります。……手前どもは、戻ってござります」
「なにゆえ」
「木沢様の御領の郷へ、お貸ししてござりましたゆえ」
光秀は、それ以上訊かなかった。
飢えた年に、木沢の名で取り立てられた米である。取り立てられた郷が去年の冬をどう越したかは、訊かずとも知れた。
四千七百石と、三百三十三石六斗。
合わせて、五千石余である。
三千人が、日に十五石を食う。
――一年ぶんである。
光秀は、板の間の数をもう一度目でなぞった。
なぞりながら、二上山の坂を思った。あの坂の下で、三千人が寝ている。名も在所も齢も、こちらは既に訊いてある。訊いてあるが、いつまで食わせられるかだけが、書けずにいた。
その一行が、いま、書ける。
■用語解説
・出挙…米や銭を貸し付け、利を付けて返させること。古くは官が種籾を貸したのに始まり、中世には寺社が盛んに行った。寺の蔵はただの物置ではなく、米を貸して増やす商いの元手であった。預かった米も、預け主の断りを得て貸しに回されたから、蔵の米は毎年入れ替わる。




