第28話(二)「法隆寺の米」
――同じ日の、暮れである。
通されたのは、東の院の広間であった。
板の間が広く、正面が庭に向いて開いている。灯は、まだ入れていない。庭の白砂が暮れ残った光を返して、そこだけが明るかった。
香の匂いがする。
古い木の匂いに、香のけむりが薄く乗っている。柱も、天井の梁も色が黒い。黒いのは煤ではなく、年数であった。
奥に、老人が坐っていた。
齢は七十ばかりであろう。痩せて、背が丸い。膝の上で手を重ねて、こちらを見ている。
納所が、その脇へ坐った。
――出てきたのは、この御方ではなかったのだ。
納所は門まで出てきたが、決める側ではない。決める側は、はじめからここに坐って待っていたのである。
「――遠いところを、御苦労にござった」
と、老人が言った。
声が、思ったより低い。
「……どちらの、御家中にあらせられる」
「明智光秀と申す。三好家の祐筆、松永久秀が家来にござる」
老人は、うなずかなかった。
「三好の」
「――はい」
「松永どのと申されるは」
「手前の主にござります」
老人は、そこで一度、納所を見た。
納所が、首を横に振った。
知らぬのである。
この寺の帳に、松永久秀という名は無い。
――知られておらぬ。
光秀は、そう思った。
思って、それが不都合ではないことに気づいた。
名の通った家であれば、寺は先例で扱う。前にこうしたゆえ、こうする。……先例の無い相手には、その場で決めるよりほかない。
この座は、その場で決めさせるためにある。
光秀は、頭を下げた。
「こちらは、木沢秀種様。木沢長政様の、従弟にあらせられます」
老人の目が、秀種のほうへ動いた。
動いて、しばらくそこにあった。
何も言わなかった。
*
板の間に、紙を並べた。
まず、こちらの三通である。
杢助が束を解き、光秀が一枚ずつ広げて、板の目に沿って置いた。奥野が下座から手を伸ばして、順を直す。
次に、寺の三通が出た。
納所が奥から持ってきた。抱えて来て、膝をついて、置いた。
置くのが、速い。
――出したがっておられる。
六通を、あいだを空けて並べた。
こちらの三通が右。寺の三通が左。あいだに、三通ぶんの空きを置く。
その空きが、この掛け合いの形であった。
「――これは、奥野が手元へ置いておった控えにござる」
と、光秀は言った。
「御寺へ差し出した預状の三通は、櫃の底にもござりませなんだ。……預状の三通と、御寺の御控えの三通。合わせて六通で一組と承ってござるが、その一組が、揃いませぬ」
「入っておらぬ、と申されるか」
「ござりませぬ」
隠さなかった。
隠せば、あとが立たぬ。
「木沢様の御家は、太平寺で崩れてござる。焼けた郷もござれば、散った者もござる。紙の三通ぐらいは、どこかで失せておりましょう」
老人は、答えなかった。
答えずに、板の間の空きを見ていた。
庭の向こうを、人が横切った。
二人である。どちらも僧ではない。袴に脚絆をつけたまま、渡り廊下の下を足早に通っていった。
その先の、離れのほうから声がした。
高い。
何を言っているかは分からぬ。分からぬが、言葉を切る速さで分かる。あれは、待たされている者の声であった。
老人は、そちらを見なかった。
納所も、見なかった。
見ぬことが、この二人には既に癖になっている。
――急かされておるのは、こちらではない。
光秀は、そう思った。
三日、あの声を聞き続けているのである。
*
突き合わせが、始まった。
奥野が、下座から膝を進めた。
進めて坐り直し、板を膝に載せた。
「――一昨年の暮れ、百二十石にござります」
納所が、己の控えを繰った。繰って、うなずく。
「去年の夏、八十七石」
紙の音がして、また、うなずいた。
「秋、百二十石」
納所の手が、そこで止まった。
「……秋は、百二十六石と六斗にござります」
座が、一度止まった。
合わぬのである。
秀種が、光秀のほうを見た。
光秀は、動かなかった。
動かぬうちに、奥野が言った。
「御寺の帳が、正しゅうござります」
早い。
考えて出した答えではなかった。
「手前の帳は、送り出した俵の数を石に直したものにござります。三百俵。一俵を四斗と立てて、百二十石」
「詰めたのは」
「四斗二升二合にござります」
奥野は、板の上の数を指でなぞった。
「道で減りまするゆえ、多めに詰めまする。一昨年の暮れも、去年の夏も、詰めた分は道で減りましてござります。……秋だけが、減りませなんだ」
奥野は、そこで顔を上げた。
「三里の道にござります。減らぬ年も、ござりまする。……減らなんだ分が、そのまま御寺の蔵に残ってござります」
納所が、うなずいた。
「受けた分を書くのが、預かる側の役にござります」
「――合うており申す」
と、納所は言った。
声が、高かった。
己で高いと気づいたらしく、そこで一度、咳をした。
「……なにゆえ違うたかまで、合うてござる」
言い終えて、袖で額を押さえた。
三日ぶりに、数の合う話をしたのである。
*
光秀は、六通を見ていた。
合った。
合ったが、足りぬ。
三百三十三石と、六斗。三千人が日に十五石を食う。二十二日と、少し。
それでは足りぬのである。
二上山の三千人は、この夏を越さねばならぬ。越すには、今年の年貢が入るまでの繋ぎが要る。繋ぎに要るのは二十日ではない。
それに、と光秀は思った。
この寺の蔵の数を、門から入るときに数えている。
塀の内に、蔵が六つあった。屋根の反りかたと、戸口の踏み石の減りかたが一つずつ違う。古いものと新しいものが混じっている。
うち二つは、踏み石が減っていなかった。
人の出入りしていない蔵である。
「――もう一つ、伺いとうござる」
と、光秀は言った。
老人が、目を上げた。
「木沢様が御預けになった物は、この六通に載っておるものが、すべてにござりましょうか」
納所の手が、止まった。
膝の上で控えの端を揃えようとして、揃えかけたまま止まった。
答えない。
答えずに、老人のほうを見た。
――それが、答えであった。
光秀は、そう読んだ。
この納所は、嘘を吐ける男ではない。吐けぬかわりに、答えぬ。答えぬかわりに、決める側を見る。
もう一つ、見ていたものがある。
この僧が奥から抱えてきた控えの三通は、糸で綴じてあった。綴じ目の穴が、紙の厚みに合っていない。
――もっと厚い束を綴じておった針である。
三通を綴じるのに、あの太さの針は使わぬ。あれは束のほうから抜いてきた三通であった。抜いた元の束が、どこかにある。
「……帳は、こちらにもござる」
と、光秀は言った。
「御寺にも、ござろう」
庭で、鳥が鳴いた。
誰も、何も言わない。
「預かり物の帳を、他人に開いてはなりませぬ。開けば、この御寺へ物を預けておる家は、明日から一つも残りませぬ。……それは、承知いたしてござる」
光秀は、そこで一度、息を置いた。
「なれど――預けた家の者に開かねば、御寺はもっと、立ちませぬ」
老人が、はじめて動いた。
膝の上の手を、重ね直したのである。
それだけであった。
秀種が、膝を進めた。
光秀の一歩前まで出て、そこで坐り直した。
背が、伸びている。
二上山の広間で叔父を斬った日から、この若い一門は坐りかたが変わった。人に決めてもらう坐りかたを、やめている。
「――木沢の家の者として、申し上げる」
声が、掠れなかった。




